死に備えて逆算してタスク管理をしている

コロナ、ロシアなどを見ていて、ふと俺ももうそう長くはないんじゃないかと考えた。そろそろ11年勤める会社の方もさいさきが良くなく、かといって私のコミュニケーション能力とリモートワークの仕方に適した企業は未だ非常に少ない。また、友人の死も影響している。それらが、私をある視点にいざなった。

もしかしたら、発達障害って、死ぬんじゃないか。

その界隈で有名な論文

Hirvikoski, T., Mittendorfer-Rutz, E., Boman, M., Larsson, H., Lichtenstein, P., & Bölte, S. (2016). Premature mortality in autism spectrum disorder. The British Journal of Psychiatry, 208(3), 232-238. doi:10.1192/bjp.bp.114.160192

を読むと、スウェーデン国内の大規模調査で自閉症スペクトラム障害を持つ者の寿命が53.87歳だと判明したそうだ。能力の高い者は58.39歳だそうだが、私は博士号を持っていないのでこれに当たらないだろう。確かに発達障害は死ぬ病気である。

仮にこの数字を受け入れたとして、私には親族がおらず、借金がある。これを当て推量で10歳のマイナスと捉えると、44歳、現在37歳なのであと6年半になる。まあまあ現実的に感じる。2029年には私は死んでいる可能性が高い。これをX-Dayとする。

だとすると、大きなことをするには時間がない。また、キャリア設計などをチンタラやっていたら死んでしまう。その中でどう生き、小さいことを成し遂げていくかが問題となる。恐らくX-Dayが訪れるにつれて困難が増していくと思うので、実際に割ける時間は6年半より少ない。効率と段取りの話になる。

かつて、香港のスタートアップに関わったとき、「このプロジェクトは〜」と言ったら「これはプロジェクトではない、人生を捧げてほしい」(無給)と言われ、げんなりしたことがあったが、プロジェクトと人生はさほど大きな違いはないのかもしれない。

博士号は無理だろう。人文社会情報学分野で良い査読論文を1本出すのが現実的な目標になる。となると時間があり、新資料が発掘されたので、もう一度ゼロからやるつもりだ。すべきことは多いので、タスクを区切ったが、本業があるのでインタラプトされる。

あと、例えば海外に行きたい国があるかどうか考えてみた。琉球の南に、美しく文明の発達した素晴らしい島があるらしい。その光景を見ないで死ぬというのは残念ではないか - と考えたところで、思い出した。行ったことあったわ。

最近、明治時代の人の日記を国会図書館デジタルコレクションで見ることがある。その中で、当時不治の病だった「肺結核(テーベー)」がキーワードになる。未だ世界でCOVID-19の次に死者を出している感染症だ。肺結核で死に瀕した人の日記は、どこかしら現代の発達障害の人が書いているブログ記事に似ている気がする。恐らく社会における病気の立ち位置というのが似ているのだろう。

というか、ああ、この記事自体がそうなのか。

その死を抱えて生きませんか

anond.hatelabo.jp

乱文で失礼します。

あなたは、とても頭がよいから死ぬということがわかってしまうんですね。生きている人にとっては常に死は先にあります。それを予測できるということは、少なくともそれを考えるくらいの頭はあるということです。

実際、「人生の振り返り」を見た限り、その場その場で適した選択肢を選んでいるようにも思えます。英語力、もっと言えばコミュニケーションで損をしてしまうのなら、海外の大学なんて辞めてしまえばいいし(私も昨年アメリカの通信制大学院に入りましたが、ディスカッションが苦手で半年で辞めました)、大学デビュー失敗したなら起業でやっていくというのもよくやったと思います。もっとも、あなたの人間関係に対する意向なり態度というのはイマイチ分かりませんが。

そして、頭がよかったことで逆に、クレバーな生き方としての頭の悪さにうまく乗れなかったんだと思います。「適当に生きる」「とりあえず」そんな頭を使わない選択肢が正解だったりします。知性一本でぶち抜くためには、その知性を活かすための凄まじい努力が必要です。それが「博士」という称号につながることもあります。

だから、あなたを「死」という結論に至らしめたあなたの知性、それで人生のけじめをつけていくしかないと思うのです。それは死を抱えて生きることでもあります。恐らくそういう生き方しかできないと思います。

人間の死に瀕した際の恐怖というのは凄まじいものがあり、それを回避するためのエネルギーもまた凄まじいものがあります。そして、どうせ死ぬのだから家族など様々な要因などもはやどうでもいい。そこで今まで選択肢に現れなかった突破口が見えてきます。

私自身も、何度も死を回避するため、もしくは生にけじめをつけるためにいろいろやってきました。中学時代に片親が発狂した時は、食事代を削って不整脈になりながら都内のいくつかの公立図書館のコンピュータ関連書を片っ端から読み漁って、それが今の専門性の基礎になっています。あと片親が亡くなった時はコンピュータを学んできた蓄積を投げ捨てて大学を入り直し、コミュニケーション研究の修士まで行きました。そして最後の肉親である祖母が亡くなったときは、「次は俺の番だ」と思い、働きながら博士課程に入り、今度は知識とコミュニケーションの関係について研究しました。残念ながら博士号は取れませんでしたが。そのうち取ります。

それで人生がなんとかなったかというと特になっていません。生きてるだけです。「博士課程に行って自分の限界に挑戦して死ぬ」と考えていましたが、生きてしまいました。まだどうしたらいいかわかりません。先日は仕事を死ぬ気でやって不整脈をやりました。こんな働き方ではもちません。普通に急性心不全に発展し、死ぬ気でやって死ぬ気がします。また、何か大きなことを成し遂げたこともありません。ただ、学問が好きで、それを続けられているということ、それだけですし、それについては悔いはありません。これが死に瀕した人間の、残りの人生の1つのルートです。

どうですか。死ぬならいろいろできますよ。物理学が好きなら自分なりの結論に行き着くことはできるでしょうし、大学で物理学に絶望したかもしれません。起業も長く続けたので向いているのでしょう。しかし、それが最も幸せなルートだとは思っていないように思います。ただ、なにか「私はこれがやりたかったんだ」というものが残っているとすれば(それが小さくても、あとで大きくなることはあります)、やってみてはいかがでしょうか。

前に進み続けることはできないだろうか

 博士課程を退学してから1年半が経った。それから今までの期間は、雑にまとめるなら人生の消化試合、というか、人生が消化試合になっていく期間だった。それはある程度わかっていた。しかし、私には向いていないように思った。これでは無を消費しながら生きているだけ、無は消費できるのだが何にもならない。

 昨年8月、行きつけの飲み屋がなくなり、クズみたいな本音の会話をできなくなった。これが心の支えになっていたようなので、穴を埋めるように寺に通い始め、仏教徒としての自覚を持ち始めている。それと同時に別の飲み屋を開拓し、以前のように通い詰めることこそないものの一定の常連になっている。

 そこでは私は「色々物知りなおっさん」という立ち位置になりつつある。まあいろいろな話を聞いて返すことはできる。また、街場の物知りは、インターネットにおいて滅茶苦茶な情報が氾濫する中で必要な役割でもある。しかしそれも、何かをした、もっと言えば生きている気がしない。情報を入れ、咀嚼し、流していく。入れるべき情報はこの乱世においていくらでもある。大きいところだけでもコロナ、戦争、新興宗教、それ以外にも様々なトピックがある。

 しかし、図書館情報学を専攻し、その役割の重要性を知っている私から見ても、いやだからこそ街場でそれをやることの面白くなさを自覚してしまう。会話の面白さは会話の面白さであって、情報や知識を扱う面白さではない。知識に正面から向き合わず、いいように使っている気がする。それはそれで知識のあるべき姿の一つだ。人は完全に知識に正面から向き合うことはできず、また有用性、もしくは実際の使用をもって知識を定義し、測ることもできるだろう。そして、そのありようは知識社会学の研究対象となる。

 なのである意味で私は今のままで良い。それを正当化する論理も作れる。しかし、私の生き方としてはそれは認めたくない。ありものの知識なりモノなりをうまく使うということは、それがある日常に埋没するということだ。しかし、その境界を超えてみたいという気持ちもある。これは今までの人生や研究を通じて得てきた価値観だろう。

 これは無謀な試みである。その無謀に挑む試みもまた日常の一つだといえば、ひたすらややこしい科学論などの話になるが、基本的には否定できないだろう。日常と隔絶された特権的なものは、基本的にないと考えている。ただ、今の自分の日常にない何かを開拓していく試みには、人を惹きつける何かがある。そのような試みを前に進み続けることとする。

 10月、『メイドインアビス』と『サイバーパンク エッジランナーズ』ばかり観ていた。これらは前に進み続ける物語だ。そして、ここが重要なのだが、前に進むことなら誰でもできるという物語だ。確かになにか大きなことを達成できたなら「主人公」になれる。また、無謀には常に死がつきまとう。それでも、進むことだけは誰にでも開かれている。

 とはいえ何をすればいいかは大して考えていない。研究を続ければ論文はかけるだろうが、文献にもデータにも手が届かない。なので研究方法の基礎としての科学モデル論などをかじっている。しかし、今のところはどれをやっても満足した生き様にはならないだろう。

 テクノロジーで世の中を良くする活動は、無謀の塊のようなものだった。下手に世の中に近い分、やばい部分との区別がつかなくなって失敗するケースが多い。それは本業でもオープンな活動でも同じだ。

 アメリカの通信制大学院は、7000人ほどいるようなのだが、最初の必修3科目を4タームでクリアできた人が100人程度のようで、その先の選択科目のクラスが立たないらしい。私には無理だ。そもそもディスカッションフォーラムでの人とのコミュニケーションが苦手だ。これはアメリカとか日本とか関係ない。

 それ以外に何があるか。趣味としてテクノロジーやゲームなどをやっていくのもそれはありだろう。そうこう考えている間に土日が過ぎていく。どれをやるにせよ、生半可に手を付けたくらいでは何かをやったという感覚は得られない。生半可でないものが決まるまでは何もしないのと同じだ。しかし、そろそろ霧が明けてきそうだ。

手の障害を乗り越えた

いいニュース。実は手がうまく動かなかったのだが、動くようになった。発達障害の一つの症状として協調運動障害というのがあるが、典型的なそれより重いので身体にもなにかあるのだろう。生まれたときから恐ろしく不器用で、スポーツやテレビゲームなど様々なことに支障があった。ピアノ教室に8年行かされたが、全く両手で引けるようにはならなかった。もちろん仕事でもそうだ。まあ手がちゃんと動かなくても仕事はできる。

これについては諦めてずっと生きてきた。転機になったのが30歳、2015年9月に『アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ』(デレステ)がリリースされたときだ。とりあえず始めたが音ゲー?無理無理。初期のBeatmaniaで諦めたわ。と言ってもいられない。アニメで培われたアイドルマスターのマインド、Pとしての自覚、「担当」、推し、ありとあらゆる理由が私をこのゲームに引きずり込んだ。

最初はひどかった。難易度REGULARでやっと。皆MASTERをやっている。第1回のイベントが始まった。どうなるかわからない。幸いなことに、難易度によって得られるポイントの差はそこまで大きくない。REGULARで回すだけ回した。最後の方はPROの低難易度曲を少し混ぜた。結果は、上位報酬をお迎え。これならいけるんじゃないか。

12月、『Snow Wings』のイベント。この曲には思い入れがあり、ポスターを飾ってある。担当がポイント報酬にいる。ということは、イベント期間のトータルで稼ぐのではなく、イベントが始まった瞬間からスプリントで回し続け、ポイントを最速で稼ぐことが必要になる。そのときはPROを安定して回せるようになっていた。最初の1時間で9位。戦える。戦い続けた。右手が筋肉痛で動かない。REGULARなら譜面によって左手だけで回せるな。そしてついに担当をお迎えした。おぼろげだが33位だったか。上にも下にも戦友が並んでいた。

そんなこんなでMASTERの低難易度曲をやれるようになり(今は無理)、ふと気づいた。手、動くようになってるんじゃないか。医者に経緯を話したら「ええーっ」という感じだが、どうやら相当動くようになったようだ。しっかし動くようになってもなあ…

まあなので、この段階で障害をゲームとアイドルへの情熱で克服したことになる。しかし私は納得できなかった。手を動かすのは、生きるためだ。何かの役に立たないと意味がない。いろいろやってみたが結局ゲームをやることにした。

1991年、6歳のときに始めた『スーパーマリオワールド』は、全く歯が立たなかった。何年かおきに思い出してやるも、多少セオリーを覚えたがいつもバニラドームで詰む。ステージを省略してクリアはしたが、どうも納得行かない。2021年、Switchで省略せず全部のステージをやることにした。バニラドームはやはり難しい。しかし突破できた。その後は割とトントン拍子で、クッパと相まみえこれを斃した。

このゲームのクリアには30年かかった。

さて、先程のことである。狂った親に隠れてやっていたファミコンで、『スーパーマリオブラザーズ3』を2002年に始めた。しかし独特の慣性があり難しく、ほとんど進めなかった。2面あたりで止まっていた気がする。それを、VTuberの配信を見て始めることにした。P羽、雲などのステージスキップは使用せず、しかし「当時」の基準は厳しすぎるのでステージごとのセーブは認めることとした。大人なのだから自分に関わることは自分で決めて腑に落ちるしかない。いや正直7面で駄目かと思った。しかし1ステージに何時間もかけて突破し、今もまだ右腕が痛いが、クッパと相まみえこれを斃した。

このゲームのクリアには20年かかった。

なぜ今日クリアまで強行したかと言うと、「niryuuさんはこの仕事は一番合わない」と言われていた案件をやっており、相当無理をしていてスタックしていたのと、その他諸々うまく行かないので、少しでもいいニュースが欲しかったからだ。何かをやり遂げた感覚が欲しかった。

今回嬉しかったことは二点ある。手の障害が相当程度改善され、他のこともできるようになったということと、ゲームにしても何にしても何十年も諦めなければ達成できることがあるということだ。これは研究についても言えるだろう。諦めないと言いたい。

最後にぼやきで終わる。精神や脳の障害は、生活を送る上で様々な出方をするので、実態がわかりにくい。「本当は障害ではなく個性なのではないか」とある程度学のある人にも言われるが、なかなかそうもいかないということを伝えるのが難しい。しかし、身体の障害はわかりやすい。それを踏まえて、手の障害があったのを乗り越えた経験からすると、

障害なんてないほうがいいに決まっている。

母親が私の悪いところを罵倒するセッションがあった

私は一貫して自己肯定感がない。理由は不明だが、母親との1年間に及ぶやり取りに覚えがあるので一応メモしておく。

あれは2002年頃、17歳のときだったか、母の買って来たジャケットが子ども的な意匠だったので、着るのを断ったら、母の精神の病(本人が「神経精神科」だから精神病ではないと言い張って病名を述べていなかったし、恐らく医師も病名を告げなかったので何かは不明)にスイッチが入り、活発になった。それから「セッション」が始まった。

セッションは毎日1時間から1時間半、休みはなかった。母が私の肉体なり精神なり経験なりを1つピックアップして、それを延々と感情的に罵倒するというものだった。それに時折理想と妄想とジャケットを着なかった話が混ざった。毎日新しい私の悪いところが出てきた。口答えはなぜかできなかった。こんなことが毎日あるのにもなぜか疑問を抱かなかった。嫌になって父方の祖母の家に行ったこともあったが、諦めて帰宅したらセッションが始まった。それが1年ほど続き、ついにネタが切れたらしく、セッションがなくなった。

それからしばらくしたある日カフェに呼び出され、「電磁波でなにかされているようだが、工業高校の知識でどうにかならないか」と相談をもちかけられた。こんな悪いところしかない私に相談をしてくるということは、おかしくなっているし、弱っているのだろう。技術面ではは可能な限り正確に話し、妄想には慣れきっていたので、そこのところは適当にいなした。その2年後、母は亡くなった。

思えば、私がネガティブなことをインターネットに書き始めたのは2003年頃だったと思う。その前は楽しく遊んでいたし、知識不足はあったものの割とポジティブに発言していた。しかし、私は意図的に「セッション」と自己肯定感の低下の関係を直視していない。今これを書いているときもそうだ。医師にもこのことは話していない。

「セッション」は構造的には洗脳に近いところがあると思う。だから、恐らく私は変わってしまったのではないか。しかし、それで性格を変えられたという事実自体を直視したくない。その点で、母にも私にも山上容疑者の叔父のこの言葉が突き刺さる。

常識で考えたって無駄だよ。そういう人間じゃなくなっているんだから。

中年の人生の停滞に関する覚書

35歳を過ぎてから、何をやっても無力感がある。これを単なる無力感のままにしておくと、いつまでもそれが続くような気がする。「中年の危機」といった概念もあるが、いまいちフィットしない。問題は、立ち止まっていること、停滞にあると思う。停滞はその人だけの問題ではなく、社会との不適応の問題でもある。これを様々な様相から考えてみたい。朝起きてパッと思いついたことなのでうまくいくかはわからないが。

Table of Contents

  • 自分がいなくても世界は回る
  • 既に誰かが占めているところに入ることはできない
  • 今いるところから足抜けできない
  • 学びは選択肢を広げない
  • 新しく開拓、発想したことには見向きもされない
  • そして皆保守的になる
  • 小括:保守の裏表としての破壊

 

自分がいなくても世界は回る

これはよく言われることだが、その重みが違ってくる。世の中の仕組みをある程度理解してくると、「自分がいなくても回るようによくできている」ことがわかる。それが非常に良くできているからこそ、自分はいなくてよいのだ。

 

既に誰かが占めているところに入ることはできない

仕事にしてもコミュニティにしても、既存の場所は人々の集まりであり、各人が役割なり立場を持っている。その役割なり立場に自分がなることは基本的にはできない。だから、うまくいっている人に「ああ、あの人のようになりたい」と思ってもそれはかなわぬ夢である。

 

今いるところから足抜けできない

逆から見れば、占めざるを得ない理由もある。組織にしても業界にしても、替えの利く職の集合体にせよ、一度そこに入って10年など経つと負荷が上がる。色々解決しないとまずい問題点が見えてしまうのだ。そして、それは多くの場合個人で解決できる範囲を超えており、皆で団結して解決ということにはならない。投げだしたら崩壊する。結果的に既存の場所に縛り付けられる。

 

学びは選択肢を広げない

新しいことを学ぶことは自分の世界を広げるとともに、可能性も広げると言われている。しかし、それはほとんどの場合既に誰かが学んだことであり、それゆえ前から続けてきた人にはかなわない。可能性は可能性で終わり、具体的な選択肢にならない。

 

新しく開拓、発想したことは見向きもされない

経済や社会をよくするにはイノベーションしかない、と言われてきた。それはそうだと思う。そして、中年には知識なり経験があるので、新しい発想の源泉自体は多く、実際に発想について実現可能な形で聞くことが増えてきた。しかし、それらは既存の社会にとって余計なものでもある。今個々人がやっていることで回っているのだから十分じゃないか。既に仕組みがあるから十分じゃないか。それゆえに、破壊的イノベーションという言葉があるが、もっと言えば少しでも既存の何かを破壊するものでないとうまくいかない。それは知識の多さだけからは生まれない。「課題解決」だけでもできない。

 

そして皆保守的になる

私が15年前に悩んでいる頃、30代の先輩方から聞いてきた助言は合わないものだった。また、40代で多くの人が保守的な傾向に行くのもわからなかった。しかし、今ならそれがわかる。先に挙げたような世界観に適応しようとした結果、保守的なマインドが身につくのだ。それは往々にして保守的な政治的傾向につながる。現状を変えることはできないという考えと経験にあらがうことは難しい。

 

小括:保守の裏表としての破壊

しかし、ここまで書いてきた停滞した状況の中には、打開するチャンスもある。既存のうまくいっていない仕組みを破壊して、別のものにとってかわらせることだ。実際、保守的になってしまった方々の中にも、最初は世の中を変えるテクノロジーなり運動に関心を持って積極的に活動した経歴を持つ方が多い。長年見ていると、別人のように保守的になるのだ。

 世の中そのものの仕組みを置き換えてしまうしかない、わかっていながらそんな難しいことはできない。Web、Web2.0だけ見ても多くの人が夢を抱き、破滅してきた。Web3でその途上にあると思われる人を何人か見ている。そんなキャッチーでわかりやすいものほど、個人の力では御しがたい仕組みそのものなのである。そうではないところから考え直す必要がある。それが何なのかはこれから考えるが、それができた人にとっては停滞に関する考え方を根本から打破するものになるだろう。

あるいは、そんなものないのかもしれない。

UoPeopleのMSITとレジリエンスについて

niryuu.hatenablog.com

名誉回復を果たしたのだが、今期(4学期制)に関しては諦めた。

前回問題となっていたのは、ファイルをリンクの形で添付する是非だった。講師はファイルの不備を指摘し、私はコース自体を放棄した。その後、遅すぎる形(次の週の提出期限の後)だったが、添付ファイルの適切さを講師が認め、点数を取ることができた。まずこの記事で言いたいことは、講師への感謝である。のちに正式に連絡する。

しかし、この問題に関しては人生とも少しは絡んでおり、多くの方々と話した。各国の学友、同僚、友人、日本トップレベルの大学の教授から東京のストリート・チルドレンまでありとあらゆる意見を聞いた。

その中で、うまくやる方法やベスト・プラクティスはあろう。しかし、結局自分で決断するしかない。そして、私は私の意志で放棄を決意した。それまでは、前回の記事で書いたように、流される形で入学して、専門科目を受けるに至っていた。

精神的な準備もできていなかったし、そのうち痛い目を見るだろうとは思っていた。痛い目なんて何度も見てきたし、これからも見る。だから、私と講師の間で不備があろうと、まあそれは起こるだろうという感じだった。そして、恐らく私はそれに対してStrongでないほうがいい。そのほうが長期的に続けられ、最終的な学位にもつながる。

痛い目が起こる状況では、レジリエンスが重要となる。コースアドバイザーと学友が述べていたので、私も重要だと思うが、彼らの推奨するやり方は向かない。だとしたら別の態度を決める必要がある。

1つのベスト・プラクティスとしては、失敗しても自分を罰せず立ち直るというものがある。それがレジリエンスだとメキシコ人は言った。それは正しい。しかし、失敗することは自然、衝突や誤解、行き違いも自然、それで凹んだり罰するのも自然、次をできたりできなかったり、やったりやらなかったりするのも自然、そのようなあり方もレジリエンスの1つなのではないか。そうでないと、私がこの1週間で見てきた多様性を説明できない。

だから、私は自分の自然に従った。最善ではなく自然だ。