中年の人生の停滞に関する覚書

35歳を過ぎてから、何をやっても無力感がある。これを単なる無力感のままにしておくと、いつまでもそれが続くような気がする。「中年の危機」といった概念もあるが、いまいちフィットしない。問題は、立ち止まっていること、停滞にあると思う。停滞はその人だけの問題ではなく、社会との不適応の問題でもある。これを様々な様相から考えてみたい。朝起きてパッと思いついたことなのでうまくいくかはわからないが。

Table of Contents

  • 自分がいなくても世界は回る
  • 既に誰かが占めているところに入ることはできない
  • 今いるところから足抜けできない
  • 学びは選択肢を広げない
  • 新しく開拓、発想したことには見向きもされない
  • そして皆保守的になる
  • 小括:保守の裏表としての破壊

 

自分がいなくても世界は回る

これはよく言われることだが、その重みが違ってくる。世の中の仕組みをある程度理解してくると、「自分がいなくても回るようによくできている」ことがわかる。それが非常に良くできているからこそ、自分はいなくてよいのだ。

 

既に誰かが占めているところに入ることはできない

仕事にしてもコミュニティにしても、既存の場所は人々の集まりであり、各人が役割なり立場を持っている。その役割なり立場に自分がなることは基本的にはできない。だから、うまくいっている人に「ああ、あの人のようになりたい」と思ってもそれはかなわぬ夢である。

 

今いるところから足抜けできない

逆から見れば、占めざるを得ない理由もある。組織にしても業界にしても、替えの利く職の集合体にせよ、一度そこに入って10年など経つと負荷が上がる。色々解決しないとまずい問題点が見えてしまうのだ。そして、それは多くの場合個人で解決できる範囲を超えており、皆で団結して解決ということにはならない。投げだしたら崩壊する。結果的に既存の場所に縛り付けられる。

 

学びは選択肢を広げない

新しいことを学ぶことは自分の世界を広げるとともに、可能性も広げると言われている。しかし、それはほとんどの場合既に誰かが学んだことであり、それゆえ前から続けてきた人にはかなわない。可能性は可能性で終わり、具体的な選択肢にならない。

 

新しく開拓、発想したことは見向きもされない

経済や社会をよくするにはイノベーションしかない、と言われてきた。それはそうだと思う。そして、中年には知識なり経験があるので、新しい発想の源泉自体は多く、実際に発想について実現可能な形で聞くことが増えてきた。しかし、それらは既存の社会にとって余計なものでもある。今個々人がやっていることで回っているのだから十分じゃないか。既に仕組みがあるから十分じゃないか。それゆえに、破壊的イノベーションという言葉があるが、もっと言えば少しでも既存の何かを破壊するものでないとうまくいかない。それは知識の多さだけからは生まれない。「課題解決」だけでもできない。

 

そして皆保守的になる

私が15年前に悩んでいる頃、30代の先輩方から聞いてきた助言は合わないものだった。また、40代で多くの人が保守的な傾向に行くのもわからなかった。しかし、今ならそれがわかる。先に挙げたような世界観に適応しようとした結果、保守的なマインドが身につくのだ。それは往々にして保守的な政治的傾向につながる。現状を変えることはできないという考えと経験にあらがうことは難しい。

 

小括:保守の裏表としての破壊

しかし、ここまで書いてきた停滞した状況の中には、打開するチャンスもある。既存のうまくいっていない仕組みを破壊して、別のものにとってかわらせることだ。実際、保守的になってしまった方々の中にも、最初は世の中を変えるテクノロジーなり運動に関心を持って積極的に活動した経歴を持つ方が多い。長年見ていると、別人のように保守的になるのだ。

 世の中そのものの仕組みを置き換えてしまうしかない、わかっていながらそんな難しいことはできない。Web、Web2.0だけ見ても多くの人が夢を抱き、破滅してきた。Web3でその途上にあると思われる人を何人か見ている。そんなキャッチーでわかりやすいものほど、個人の力では御しがたい仕組みそのものなのである。そうではないところから考え直す必要がある。それが何なのかはこれから考えるが、それができた人にとっては停滞に関する考え方を根本から打破するものになるだろう。

あるいは、そんなものないのかもしれない。