前に進み続けることはできないだろうか

 博士課程を退学してから1年半が経った。それから今までの期間は、雑にまとめるなら人生の消化試合、というか、人生が消化試合になっていく期間だった。それはある程度わかっていた。しかし、私には向いていないように思った。これでは無を消費しながら生きているだけ、無は消費できるのだが何にもならない。

 昨年8月、行きつけの飲み屋がなくなり、クズみたいな本音の会話をできなくなった。これが心の支えになっていたようなので、穴を埋めるように寺に通い始め、仏教徒としての自覚を持ち始めている。それと同時に別の飲み屋を開拓し、以前のように通い詰めることこそないものの一定の常連になっている。

 そこでは私は「色々物知りなおっさん」という立ち位置になりつつある。まあいろいろな話を聞いて返すことはできる。また、街場の物知りは、インターネットにおいて滅茶苦茶な情報が氾濫する中で必要な役割でもある。しかしそれも、何かをした、もっと言えば生きている気がしない。情報を入れ、咀嚼し、流していく。入れるべき情報はこの乱世においていくらでもある。大きいところだけでもコロナ、戦争、新興宗教、それ以外にも様々なトピックがある。

 しかし、図書館情報学を専攻し、その役割の重要性を知っている私から見ても、いやだからこそ街場でそれをやることの面白くなさを自覚してしまう。会話の面白さは会話の面白さであって、情報や知識を扱う面白さではない。知識に正面から向き合わず、いいように使っている気がする。それはそれで知識のあるべき姿の一つだ。人は完全に知識に正面から向き合うことはできず、また有用性、もしくは実際の使用をもって知識を定義し、測ることもできるだろう。そして、そのありようは知識社会学の研究対象となる。

 なのである意味で私は今のままで良い。それを正当化する論理も作れる。しかし、私の生き方としてはそれは認めたくない。ありものの知識なりモノなりをうまく使うということは、それがある日常に埋没するということだ。しかし、その境界を超えてみたいという気持ちもある。これは今までの人生や研究を通じて得てきた価値観だろう。

 これは無謀な試みである。その無謀に挑む試みもまた日常の一つだといえば、ひたすらややこしい科学論などの話になるが、基本的には否定できないだろう。日常と隔絶された特権的なものは、基本的にないと考えている。ただ、今の自分の日常にない何かを開拓していく試みには、人を惹きつける何かがある。そのような試みを前に進み続けることとする。

 10月、『メイドインアビス』と『サイバーパンク エッジランナーズ』ばかり観ていた。これらは前に進み続ける物語だ。そして、ここが重要なのだが、前に進むことなら誰でもできるという物語だ。確かになにか大きなことを達成できたなら「主人公」になれる。また、無謀には常に死がつきまとう。それでも、進むことだけは誰にでも開かれている。

 とはいえ何をすればいいかは大して考えていない。研究を続ければ論文はかけるだろうが、文献にもデータにも手が届かない。なので研究方法の基礎としての科学モデル論などをかじっている。しかし、今のところはどれをやっても満足した生き様にはならないだろう。

 テクノロジーで世の中を良くする活動は、無謀の塊のようなものだった。下手に世の中に近い分、やばい部分との区別がつかなくなって失敗するケースが多い。それは本業でもオープンな活動でも同じだ。

 アメリカの通信制大学院は、7000人ほどいるようなのだが、最初の必修3科目を4タームでクリアできた人が100人程度のようで、その先の選択科目のクラスが立たないらしい。私には無理だ。そもそもディスカッションフォーラムでの人とのコミュニケーションが苦手だ。これはアメリカとか日本とか関係ない。

 それ以外に何があるか。趣味としてテクノロジーやゲームなどをやっていくのもそれはありだろう。そうこう考えている間に土日が過ぎていく。どれをやるにせよ、生半可に手を付けたくらいでは何かをやったという感覚は得られない。生半可でないものが決まるまでは何もしないのと同じだ。しかし、そろそろ霧が明けてきそうだ。