RTAとしての人生、人生としてのRTA

holyangelnyako.hatenablog.com

正直、この人間がなぜこんなに自身を卑下しているのかわからなかった。

私はニコニコ動画の割と初期(テーブルマウンテンTAが流行った頃)からRTAでキーワード検索して気になった動画を視聴するのを日課にしており、今に至るもそのためだけに10年以上プレミアム会員を続けている。私はゲームが上手い方ではない、というかクリアできずに投げ出したゲームの方が多いほどのド下手な人間なので、すごいプレイを見るのを楽しみにしていたのだ。最近は「東北きりたん実況プレイ」タグも追っている。というか今の生きがいであるVTuberも東北きりたんもRTA動画の文脈から知った。ニコニコ動画のどうしようもない定型コメント「生きがい」を感じる。

RTA in Japan」が始まったとき、とうとうここまでポピュラーになったかという感じだった。「嵯峨」氏の記事にある通りRTAはある程度記事にされるようになり、盛り上がった動画なら視聴者もまあ多い。その中である意味到達点、すなわち「万博」としてRiJができたのは必然だろう。その走者や解説者は「認められた」ものとなる。

だからこそ、私は「嵯峨」氏の葛藤に以下のようにはてなブックマークでコメントした。

表に出してはいけない人間になるくらい己を削り切ってタイムを出すしかない世界/RiJの走者や解説者になっている段階でそこそこ名はあげてると思うんだけどなぁ

これは実際のところ私のRTAに求める像そのものだった。e-Sports界隈がプロゲーマーとストリーマーに分れたように、カジュアルに注目され名をあげる者もいれば、黙々と記録更新をして掲載し、再生やコメントも一切付かない者もいる。ある種その懐の深さが見られるからこそ、「注目されない」ことがなぜ問題になっているのかわからなかった。

しかし、先日どうしても観たいゲーム(名前は挙げません。ゼノギアスは家で観ました)があって「RTA in Japan Winter 2023」の現地に見に行ったところ、私の予想は完全に外れることとなった。私の穿ったRiJ像では、そこに集う者たちは

  • ゲームのみならず日常生活でも常に精悍な目をして臨む者
  • 感情を失ってずっと曖昧な笑みをしている者
  • 自身の「ラン」が終わったら他には目もくれずさっさと帰る者

などを想定していた。実際はそんなことはなかった。世界記録レベルの人々が集っており、その洗練されたランに圧倒された。しかし終わった後には彼らは普通に人と交流するゲーマーで、いつものメンツとコミュニティで集まって楽しくやり、すごい者は相応に人気だった。

まあこれを見てしまったら、「嵯峨」氏の記事への認識をあらためざるをえない。記録は最も重要だ。しかし、2番目に重要なのは「人気」…なんかそう思わせるものがあった。

私は…RTAという急速に状況が変わるジャンルの中でできるだけ把握しようと精悍にランを観覧した。観終わった後、この素晴らしいランを実際に目の前でやってくれた走者たちに「すごいものを見せてくれました!ありがとうございます!」とでも言おうかと思っていた。しかし、既にいつメンの「輪」ができており、そんな状況にない。曖昧な笑みをしてその場にあった「無」を取得しながら「輪」の少し後ろに立ち尽くしていた。そして、何も言わず帰宅した。

私の想定していたRiJ像を、現場でランもできない私自身が体現してしまった。結局のところ、私も「同族」を探しにきていた側面があり、一つの人間関係のタイプを求めていたに過ぎなかったのだ。その意味で、私もストイックとは程遠い。会場から持ち帰った「無」が私にまだ無になれていないと訴えかけてくる。

タイムのみが本質だ。しかしそれだけを追求するのは難しい。