その死を抱えて生きませんか

anond.hatelabo.jp

乱文で失礼します。

あなたは、とても頭がよいから死ぬということがわかってしまうんですね。生きている人にとっては常に死は先にあります。それを予測できるということは、少なくともそれを考えるくらいの頭はあるということです。

実際、「人生の振り返り」を見た限り、その場その場で適した選択肢を選んでいるようにも思えます。英語力、もっと言えばコミュニケーションで損をしてしまうのなら、海外の大学なんて辞めてしまえばいいし(私も昨年アメリカの通信制大学院に入りましたが、ディスカッションが苦手で半年で辞めました)、大学デビュー失敗したなら起業でやっていくというのもよくやったと思います。もっとも、あなたの人間関係に対する意向なり態度というのはイマイチ分かりませんが。

そして、頭がよかったことで逆に、クレバーな生き方としての頭の悪さにうまく乗れなかったんだと思います。「適当に生きる」「とりあえず」そんな頭を使わない選択肢が正解だったりします。知性一本でぶち抜くためには、その知性を活かすための凄まじい努力が必要です。それが「博士」という称号につながることもあります。

だから、あなたを「死」という結論に至らしめたあなたの知性、それで人生のけじめをつけていくしかないと思うのです。それは死を抱えて生きることでもあります。恐らくそういう生き方しかできないと思います。

人間の死に瀕した際の恐怖というのは凄まじいものがあり、それを回避するためのエネルギーもまた凄まじいものがあります。そして、どうせ死ぬのだから家族など様々な要因などもはやどうでもいい。そこで今まで選択肢に現れなかった突破口が見えてきます。

私自身も、何度も死を回避するため、もしくは生にけじめをつけるためにいろいろやってきました。中学時代に片親が発狂した時は、食事代を削って不整脈になりながら都内のいくつかの公立図書館のコンピュータ関連書を片っ端から読み漁って、それが今の専門性の基礎になっています。あと片親が亡くなった時はコンピュータを学んできた蓄積を投げ捨てて大学を入り直し、コミュニケーション研究の修士まで行きました。そして最後の肉親である祖母が亡くなったときは、「次は俺の番だ」と思い、働きながら博士課程に入り、今度は知識とコミュニケーションの関係について研究しました。残念ながら博士号は取れませんでしたが。そのうち取ります。

それで人生がなんとかなったかというと特になっていません。生きてるだけです。「博士課程に行って自分の限界に挑戦して死ぬ」と考えていましたが、生きてしまいました。まだどうしたらいいかわかりません。先日は仕事を死ぬ気でやって不整脈をやりました。こんな働き方ではもちません。普通に急性心不全に発展し、死ぬ気でやって死ぬ気がします。また、何か大きなことを成し遂げたこともありません。ただ、学問が好きで、それを続けられているということ、それだけですし、それについては悔いはありません。これが死に瀕した人間の、残りの人生の1つのルートです。

どうですか。死ぬならいろいろできますよ。物理学が好きなら自分なりの結論に行き着くことはできるでしょうし、大学で物理学に絶望したかもしれません。起業も長く続けたので向いているのでしょう。しかし、それが最も幸せなルートだとは思っていないように思います。ただ、なにか「私はこれがやりたかったんだ」というものが残っているとすれば(それが小さくても、あとで大きくなることはあります)、やってみてはいかがでしょうか。