やりきれない

現状報告。昼に外に出るのが怖かった。だから、昨年の4月に緊急事態宣言が出てから、外に出なくなった。だとしたら、今年の10月に飲食店時短要請が解除された段階で、外に出られるはずだった。その目論見は外れた。人から呼ばれたら外に出られるようだが、その機会は少ない。今日は頑張って外に出て、駅前のケンタッキーでこれを書いている。

 

何かを書くとき、外で場所を変えながら書くことが多かった。それがなくなったというのが大きい。大学院を離れて半年、書けなかった論文がどんどん遠くなっていく。鬱病のせいもあるだろう。しかし、書くべきことに手が付かない。小説を書こう、コードを書こう、いろいろ考えたが頭を通り過ぎるだけで、書くことにつながらない。

 

要は私は書くために外に出る。だから、書けなくなったら外に出ない。家でずっとインターネットをして、ピザを頼み、寝る。会社でやっていた仕事がなくなってしまい、曖昧な立ち位置にいる。それがある種助けになっているし、しばらくはクビにもならないだろうが、いつ次の仕事が来るかはわからない。じゃあ空き時間で研究開発で次のプロダクトにつながることをやるか。しかしやれない。書けない。

 

そんな中で大学の講師をやっており、14回のうち7回が終わった。第2回が仕事がなくなったのと同時期で、精神が終わってしまいうまくやれず迷惑をかけてしまったが、なんとかここまでやってきた。オンライン講義だから顔はわからないが、学生のことも少し信頼できるようになってきた。つたない喋りで学生にとって親しみのない難しいテーマを説明しても、ついてきてくれているようだ。

 

先週、講義が祝日で休みだった。それまで目を背けていた様々な悪い思いが頭に襲いかかってくる。自分が何を失ったか。どんなに先がないか。おそらく終わってしまったのだろうか。辛いんじゃないか。辛い。やりきれない。少し講義資料の書き溜めをしようという考えは捨て去り、精神の回復に全てを振った。講義資料は慣れてきたので、割とどうにかなる。

 

そのかいもあって、今現状報告をできている。なぜか記事のタイトルを考える余裕はない。オチもない。今日はこれからどうしようか。論文を書くにあたって、ものの考え方や資料の見方を理解するのに必須な文献を読む途中である。再開するか。

 

電子ペーパーを開き、本を呼び出す。線を引いた跡を見る。重要な部分で途切れている。力尽きたのだろう。恐らくそこで私は死んだ。やることがわかった。他の誰でもない、私は私自身の遺志を継ぐ。

孤独を受け入れ、一人に慣れていく

気がついたら私の周りには人がほとんどいなくなっていた。

今年3月までの私の基本的な人間関係の、相当がなくなってしまった。

  • 大学院は年限までいて単位取得退学した。ゼミにも顔を出しにくく、アカポスを得られた方々(私の周りは優秀な方々ばかりのようで、アカポスを多く得ている)にも合わせる顔がない。
  • 会社で積極的に交流していくのは、とうの昔に諦めた。実装を担当するエンジニアは、他の過程での問題を押し付けられることが多い。また、技術的・予算的に現在不可能なことでも、エンジニア個人のせいにされることがよくある。そんな状況でどう人と関わればいいのか。
  • 高円寺の飲み屋に多く行っていたが、1軒を除いて足が遠のいていた。関わっていこうと思ったらCOVID-19が来た。最後に残った店は、店長が体を壊し、荒れ果てていた。残った常連は少なかった。そんな状況で皆よく頑張っていたし、終りが来ることも知っていた。7月末に終わりが来た。
  • インターネットで初期のギークハウスを中心とした「界隈」があったが、10年以上経ちこれは時間の流れの必然か皆疎遠になっていった。もちろんそうでない人もいる。しかし、自分から積極的に広げていこうという方向には行く元気はない。知らない人が怖いのだ。

まあそんなこんなで、数年前と比べたらごく少ない人々と交流を持ちながらやっている。その中で、今後一人でいることを主軸にやっていくか、新たに人と積極的に関わっていくかという選択肢で悩んでいる。実際はそんなに極端なものではないし、人から話が来たら応じるだろう。しかし、正直私は人間関係に向いていないというのも感じる。

ここに書いてあることを人に相談すれば何らかの交流はできるだろう。しかし、それが良いかどうかというとそれすらも不安である。私はいなくなったほうがいいのではないか。それは私だけで結論が出せることでないにせよ、ずっと頭にある事項ではある。

とりあえずの方針として、人と関わらない方向を考えている。おそらく一人に慣れないと今後生きるのが厳しくなるだろう。Twitterなどでの独白はするだろう。しかしSNS的な交流は行わない。現実世界に関して言えば、私が行ける場所はもうない。

正直ここ10年、人と交流するのが苦手なのに無理にやってきて、それが負担になっていた部分はある。それも本音かどうかわからない。いいことや楽しいことも多くあったと思う。だが、今は一人になることが必要に思える。

何よりも、疲れた。

今はその時ではない

大学院を単位取得退学してから3ヶ月が経とうとしている。5月の最初頃まではまだ意地を張るくらいの余力はあったが、それも尽き、仕事も研究も手につかない。

 まあ何度かあった鬱状態で、経過を見るに昨年の7月から少しずつ発症していたのが今年の5月末までにどんどん悪化していき、6月に入ったくらいで底をついた印象だ。底をついたといっても、「何もできない」状態を抜け出しただけだ。鬱というものを自身の内部、外部で解消していくというプロセスがある。人と話す際に鬱そのものや、それに影響された言動が出てしまうのである意味どん底の状態よりたちが悪い。鬱に立ち向かうと同時に、鬱に立ち向かっている自分を制御もしなければならないので、余計に負荷がかかる。まあ厳しいとわかっていれば対策を取るだけだ。もっと厳しい状況になればもっと厳しい対策を取る。耐えられなくなったら仕方ない、終わるしかない。

 もっとも、世の中の状況が良くなりつつあるのは幸いである。もともといた大学院の図書館はコロナにより使えないが、某大学の図書館を使えるようになり、研究環境としては申し分ない。また、東京23区の中では65歳未満に対するワクチン接種が速い方だったので、ほぼ最速で押さえ、1回目を接種した。少なくともこれらは精神には良い影響をもたらしている。

 しかし、外の方が明らかに捗る私にとっては、今の状況は良くない。徹頭徹尾私には人に命じられて何かをすることができない。私はすべきことをしているだけだ。その「すべきこと」は家では曖昧になる。何もしなくていいのではないか。中国の古典などを読んでしまう。それもある意味で正しいのかもしれない。しかし、例えば屋外のカフェなどでPCや電子ペーパーを開くと、周りには人がおり、それぞれがすべきことをしている。だから、自分が置かれた状況で何をすべきかも自然に入ってくる。

 コロナによる規制下ではそのような感性は発揮できない。家でタスクを洗い出す。1つずつ見る。これは私がやる必要がないのではないか。他の人でもできるし、そうあるべきなのではないか。そして「やる必要がない」で埋まってしまう。当然それは間違いである。

 他の人がやるべきことでも、私がやれば何か進む。わかってはいる。しかし一人でいると周りが全員私より有能であるという観念にとらわれる。鬱病を患っているときは特にそうだ。誰かしら人がいれば、彼らもまた不完全で、それぞれ能力の不足と戦いながら生きていることがわかる。しかし、今の私にはそれはわからない。

 そんな状況下で、何かを始めるのは難しい。仕事でやっている調査もゼロからで、研究も一旦仕切り直しになる。今、進行中のことはない。進行中のことであれば、今までやってきたことが自分の能力を良くも悪くも証明するが、今私は何も持っていない。私なんかがこれをやってよいのだろうか。その考えが私の足を止め、足が止まると足場が消える。

 正直、今いきなり必要なタスクをすることはできない。だから、iOSアプリケーション開発のチュートリアルをやったり(普段の1/3でしか進まない)、中国の古典を読んだりしている。それをもとに、ようやく本線の調査を行ったり、難しい著作を読んだりできる。そのような蓄積が一定程度貯まらないと先には進めない。

 今はまだ、その時ではない。

私は学者になりたい

 新訳だ

 まあ2006年に人文社会学系の学問を志してから,いろいろ自身の立ち位置について考えてきた。修士課程,博士課程を去る際に,適性はないのだろうと2回感じた。また,今狭き門をくぐって日本で大学教員になるということは,莫大な書類と事務仕事をさばくということでもあり,私にはとうていできそうにない。

 2月,つまり単位取得退学の書類を出してから,ある種「課程博士」というゴールにとらわれず研究をしてきた。ゼミには引き続き出席できるが,教授とのつながりも減っていく。そのため,独立して研究していくにはどうしたらいいかを模索するという意味合いも含んでいる。

 その中で,私のやっている学問の,2018年頃提唱された新しい方法論に取り組み始めた。人文系の方法論は,過去の研究も踏まえて十分に精査するのに時間がかかる。その中で,今この時点の日本の学問状況を踏まえると,私も含めてエッセンスを的確に把握している研究者は恐らくいないように思われた。その点でニッチである。

 しかし私は自由だ。ここでスラっと「自由」という言葉が出てきたのに少し驚いた。

okude.blogspot.com

だが、あるレベル以上の知性を身に付けるとまったく人生の意味が変わる。なんというか自由になるのだ。学問は人間を自由にする。この解放の瞬間がPhD論文が書けたときだ。 

何年も読んでいる記事だが,この意味での自由だ。この点で,私は博論は書けなかったが,ある程度での自由は手に入れたのかもしれない。

 話を戻すと,自由なので時間の許す限り新しい研究潮流に取り組める。私は原典を読み始めた。そして,全く触れたことのないわけのわからない概念,明瞭でないつながり,明示されていない定義,それらを少しずつひも解いている。

 読んでいる途中,つい先日,この潮流に関わる新しい資料がアーカイブのテープから書き起こされ,公表された。私は即座に今の作業とその資料に関連があることを把握した。しかし,どこまでが同じでどこが違うのか。そのためには両方を読む必要がある。新しい電子ペーパーヤフオクで落札した。富士通ソニーOEMを出したようで,4年前のソニー製の1/3の値段だ。ペン周りのアルゴリズムも良くなっている。論文を読む者なら今すぐ買うべきだ。

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 そして現在,原典を読み終わり,新資料に取り組んでいる。各文献や資料の関係はゴチャゴチャしており,引用されている学者の関係もゴチャゴチャしているが,だんだんわかってきた。単純化しすぎないように整理できそうだ。

 さて,どうするか。何らかの形で出したいが,論文誌を通さずオープンな形で出してもそれは元の方法論の価値を毀損することになる。時間はかかるが真っすぐに行こう。しかし日本では査読できる人がほぼいない。だとしたら海外,いくつかの論文誌の傾向を見るに,トップジャーナルに投稿するしかない(註:人文系のマイナーな分野のトップジャーナルの競争率はそこまで高くはない)。その後,実際にその方法論が既存の研究とどう違うかを説明した論文を国内で出す。それで博論提出資格を満たす。

 んなうまくいくか。私には才能がない。それはわかっている。ただ,私は「課程博士を取れる可能性は査読期間の関係でゼロ」の状態で2年間時に絶望しながらも頑張ってきた。少しでも可能性があるなら楽だ。Google検索したところ,提唱者の原典が一番上に出てきて,次に私のツイートが来た。競争相手は恐らくいない。

 まあ今はそんな段階である。じゃあ今の私は何なのか。俺の人生は何なんだ。というと,単に自分の知見を論文の形で発表しようとしているだけだ。金は自腹だ。それを何を目指しているととるのか。恐らくだが,それは学問をする者,「学者」以外にない。だから,学者になりたい。

衰えながら先に進んでいく

3月末で博士課程を単位取得退学する。博士課程での専門的訓練という、人生でこれだけはやっておきたいということを終わらせられたのは、恵まれていると言って良い。多くの方々に助けられてここまで来た。主治医に「働かないほうがいい」と言われた会社にも9年間所属できている。これもまた私自身の努力だけでなく、助けられてのことだろう。

しかしながらこれからどうしようか。1月からずっとこのことについて悩んでおり、様々な鬱の症状が出ている。

正直研究を自力で進めることはもはや可能だ。2020年という、人と人を切り離した年が私を学問と向き合わさせた。孤独に文献や資料を読み解き、未到達の領域に失敗しながらも踏み入っていくことに、恐れはなくなった。多少マシに動けるようにもなった。

コンピュータソフトウェアの仕事に関しては、学部の情報通信工学科を中退しているため、工業高校の知識で今までやってきたことになる。それに限界が生じてきた。この1年間、博士課程の合間に学部科目「コンピュータアーキテクチャA(様々な並列処理の方法)」「計算モデル(ラムダ計算)」「並行計算モデル(π計算)」「オペレーティングシステム」を受講した。成績は悪くなく、A2科目S2科目だった。来年度は放送大学で知識を定着させるとともに、自然言語処理など応用的なことも学ぶ予定である。

しかし、なんとも言えない閉塞感がつきまとう。1つの会社に依存し続けることへの不安、障害、借金、人生のステージなど、思い当たる節はいくらでもある。しかし、それらを打開するような楽観視がどうしてもできない。その理由として最近考えているのが、「衰え」である。

衰えと言っても、具体的な老いではない。体は当然動かないからなまっていくが、鬱病を差し引けば(これがけっこう重い)、考えながら文献を読んだりコードを書いたりなどの、知的作業についてはそこまで衰えている印象はない。

ところが、ある日唐突に「衰え」に気づいてしまった。私が今やっていることは、すべて21歳から25歳、つまり2006年から2010年までにやっていたこと、もしくはできたら良いと思っていたことから出ていないのだ。そこから先の新しいことをキャッチアップできていない。社会情報学は問題系を変えながらずっとやってきた。当時流行の地理空間情報やARなどの技術は急激に実用段階のフェーズに入っている。その意味では、当時足りなかったことが揃ってきて、月並みだが多少はなりたい自分になれた感じがある。

しかし、それは過去を進んでいるだけで今を進んでいるわけではない。これは呪縛だ。自身の感性が今につながらない。つなげる気が起きない。確かに個別に見れば新しい「今」なのかもしれない。しかし私にとっては過去の延長線なのだ。

趣味についても同じだ。私はバーチャルYouTuberにハマっているが、映像のライブ配信、ゲームのプレイ動画、などなどほとんどは当時慣れ親しんだものだ。1回泥酔してYouTubeの視聴画面から配信画面の方を開き、配信をしたことがある。視聴者はいなかったが、「復帰したんですね!」とコメントが来た。恐らく2008年頃の私を見ていた方だが、復帰も何も私は当時界隈にいただけでほとんど配信はしていない。

もう1つ衰えを感じたのが、自分の関心を他者に対してプロモートする気がなくなったということだ。昔から私には自信がない。何ができるかと聞かれると今でも怪しい。しかし、「〜に興味がある」を示すことはしており、それこそ配信もしていないのに配信者の界隈にいるくらいのことはしていた。

それをやる気が起きない。今の私は、私という人間に興味が持てない。根拠のない自信は根拠のない未来とセットになる。過去を生きる私には今がなく、当然未来もない。作ってしまえばいい。それはそうかもしれない。しかし、それは難しいことだ。流行に乗ることと、新しい概念を育てていくことは圧倒的に難易度が異なる。

昨年の9月にはカジュアルな場所で研究のプレゼンをしたら、時代遅れだが確かな知識を持つ専門家に凄まじい剣幕で怒られた。新しい概念について、一緒に育てていく意志のある者同士で検討する分には少なくとも激しい拒否反応はないが、ある段階を超えたら外との対話をしていくことになる。それにどれだけのタフさが必要かを身を以て体験した。

恐らく人は今を食べないと生きていけない。できないと死に、それに至る過程が衰えとなる。それをどうするかが今後の課題となる。

人との関わりを再構築する年

2021年,この年が容易でない年であることは2014年の段階でわかっていた。

だから,どうしても年越しを祝う気にはなれない。

2013年から14年にかけて,非常に内向的な性格になった。

  • 叔父の借金の肩代わりをする可能性,そのために稼ぐ
  • 叔父の家の崩壊
  • 唯一の肉親と言える祖母の介護と別離

 これらをおよそ1年かけてやったところ,人との関わり方がわからなくなった。時間的余裕はあった(いや,転院期限など文字通り致命的な時間のなさはあった)。しかし私の置かれた状況を理解してくれる人がおらず,社会から切り離された感覚が残ってしまったのだ。それは今も残っている。

 普通なら少しずつ人との関わりや日常を取り戻していけばよかったが,そうはいかない。1年で皆が1年分進んでしまった。特に30前後はキャリア形成や結婚などが多い。その事実を受け入れることができなかった。しかも生きる理由もない。博士課程に入学した1つの理由は,「人と関わらないで自分のペースで進めていける確かな目標」がないと気が狂うと思ったからだ。

 思った以上に周りに恵まれていたと思う。働きながらでは人文系の博士号は取れないとわかって入学した私が,まだ研究を進められているのは,大学院で出会った皆様のおかげである。「人と関わらない」ということを実現するために,多くの人が助けてくれたのだ。

 その博士課程があと3ヶ月で終わる。これからは何をするにも文化の違う人と関わらないとできない。2014年に残してきた課題に直面しなければならない時期になったのだ。1つ良い点を挙げれば,一族をめぐるあの地獄の1年間は過去のものになりつつある。しかし,それと同時に人と楽しく関われていた歳月もより過去のものになった。

 人と関わって前に進んでいく。その難しいことを始めた矢先にCOVID-19が襲った。確かに昨年は誰もが感染している状況ではなかった。しかし,様々な感染症対策の要請は,信頼を確保する安直な手段である対面会話を奪い,チャットによる不信と不確実性が渦巻くコミュニケーションに放り込まれることになった。また,立て直す途中だった外食に頼る生活は,2度の時短要請によって崩壊した。一度仕事を失った際に発症した鬱病は良くならない。

 その中で進めていくしかない。そういう段階に来てしまったし,COVID-19も来てしまったからだ。死ぬ方が予定調和でご都合主義だ。そんな生ぬるい人生を運命は許してくれないだろう。もがいて,苦しんで,生きるしかない。

あれだ,行動に移さなければならない。今言えることがある。

今年もよろしくお願いいたします。

発達障害と適応について

25歳から35歳にかけての10年間,「発達障害」は私の避けられない不幸,もしくは一種のアイデンティティとして働いてきた。その中で,私もいろいろもがいてきたのだが,周囲のトレンドが変わってきた印象がある。今日はそれを吐き出したい。まともな議論ならid:p_shirokuma氏の以下の書籍が参考になるだろう。私の記事は主観と偏見に満ちた泥臭いものだ。

 

10年前は,「発達障害も含めて,人には思った以上に振れ幅があるんだから互いを尊重して良いところは活かす」ような考えの知人が多かったように思う。病気なり借金なりいろいろな問題を抱えた人間が集まってはいたが,良い部分は良い。だったらそれを十分に発揮したほうが周りとしても面白いし,本人にとっても社会生活を送る際のベースになる。

ところがそれから5年ほどが経ってからか,徐々に「良いところよりも,普通の人と同じような生活を送れるように適応すべき」という方向に移ってきた印象がある。これは様々な理由が考えられるが,

  • 収入などが安定してきて生活面に目を向ける余裕ができた
  • 逆に不安定になりすぎて適応せざるを得なくなった
  • 結婚したい
  • 将来が不安
  • 世の中の発達障害に対する認識が変わってきた

などが挙げられるように思う。

私はというと,6年前に一緒に暮らしてきた祖母が亡くなり(両親はとっくの昔にいない)「次は自分の番か,だったら今のうちにできることをやらねば」の一心で博士課程に入学し,一定の不出来を残して来年単位取得退学する。この専攻で社会人をやりながら課程博士号を取れた人はおらず,私がその1人目になるほどの実力を持っていると思ったことはない。

そのために生活の立て直しをそっちのけにしてきた。壊れた生活環境(生活習慣,家具などを含む)の改善は最低限,部屋に増える資料,生きるのに最低限のルーチン(まともな場に出る際の最低限の身だしなみも含む),それらを維持しながら仕事と研究に没頭していた。博士課程が終わったら多少余裕ができるので,あくまでできる範囲だが,生活を立て直し,家をきれいにし,習慣を改善するつもりだ。

しかし,それ以上に怖いのが周りからの風当たりだ。私の生活に様々な問題があること,普通の生活を送るのに普通の人の何倍も時間がかかり,精神的負担がかかること,これは共有されているはずだ。しかし,「それでもこれは良くしろよ」といった助言を超えた多少アタリのきつい言葉が増えてきた。

皆の言うことはもっともである。しかし,日常生活の健全さには依存関係があり,これを良くしないとこの改善に取りかかれない,ということが多い。「外に出る服がない」的な。また,自分のキャパシティにも限界がある。なので順番にやっていく必要がある。その段取りこそ人それぞれだったりする。正解はない。なので,今はその指摘はやめてくれという印象である。それ自体が精神的な負担になる。助言をもらってすぐ実行できる問題なら既に解決している。

あと,ここから先は一種の苦言になるのだが,

(1)発達障害に完全な適応はできない:結局皆ができる範囲で改善しているだけで,それで完全に普通の生活を普通の人のように快適に送れるわけではない。個々人で負担をできるだけ減らすこと,もしくは人と合わせることしかできないし,実際に「適応できている」と主張する者はそれをやっているにとどまる。

(2)普通の人でも完全に適応ができるわけではない:例えば今回のCOVID-19に関して「新しい生活様式」「ニューノーマル」が提案されているが,結局日本ではそれを強いているわけではないので古い様式がいまだに残っており,適応なんてできていない。精神疾患を抱えた人も増え,また元々発達障害の人にさらに精神的な困難が降り掛かっているという話もある。「非常事態だからきついに決まっている,それまでの生活と一緒にするな」という声もあるだろうが,そもそも歴史上庶民が何もせずに楽して暮らせていた時代などほとんどない。今が特別きついのは確かだが,それ以前が楽な理想郷だったかというとそうでもない(もっとも,そう言いたい気持ちもわかる)。「適応」は1つの世の中での「戦い方」で,その時点の多くの人が共有している手段であり,それ以上のものではない。

あと色々言ってくる人の事情について。

  • 収入などが安定してきて生活面に目を向ける余裕ができた→あなた,生活面,もっと言えばお金に余裕があるからいろいろできるんですよね…私は稼ぐために色々模索しないといけないんですよ…
  • 逆に不安定になりすぎて適応せざるを得なくなった→お互い頑張りましょう…
  • 結婚したい→すごく申し訳ないのだが,遅すぎる
  • 将来が不安→その不安は生活を普通の人に合わせることで解決できる種類のものなのでしょうか
  • 世の中の発達障害に対する認識が変わってきた→何年も生きてきて自分なりの障害との付き合い方を身につけてきたはずでは?