無気力になった

んー,どこから話したらいいのだろうか。

7月になってからついに心が折れてしまった。

関係者の皆様には豹変したところを見せてしまい申し訳ない。

 

直接的なきっかけは,7月の最初に3年半アサインされていた案件がコロナ関連で消滅したことだ。

それ以前にいろいろ心が折れるきっかけというのはあった。

6月には,博士課程の最後の年に「学問についてわかっていないのではないか」と言われ,ショックを受けたもののひたすら学びなおし,何とか軌道に乗ってきたところだった。しかし,まだ道は長いということを思い知り,博士課程にいる間は何も成果を出せなかったということを認めるしかなかった(もっとも,人文系ではよくあることだが)。

で,会社の方で仕事がなくなった。実際のところ,数日後に新しい仕事は来た。しかしその時には既に取り返しのつかないところまで折れてしまっていた。

基本的に私は不安定な状況に置かれている。発達障害で人とまともに話せず,それゆえものを考えたりコードを書くのに集中できる環境でなんとかやってきた。しかしそのような環境はほとんどない。わかってはいたが,今複合的に崩壊しつつある。これでは生きるに堪えない。

はっきり言えば学問で有能な人間はたくさん見てきた。また,正直仕事にしても人と話しまくってガンガン進めていく人間の方が良いに決まっている。そんな中でも自分にできることをなんとか頑張ってきたつもりだった。

仕事を失ったのはコロナがきっかけだった。しかし,気づいてしまったのだ。私は不要な人間である。

コロナで亡くなった方々は世界中で少ないとはもはや言えない。そんな中で私が生き延びていいのか。

それ以来完全に世を捨てた生活をしている。

7月の最後の週に,専攻全体の進捗報告会があった。その予行練習で,自分がしてきたことがいかに無であったかを示すスライドを発表したらこれはやばいとなった。実のところ,論文という形にはなっていないものの進んできたのは事実である。博論全体の骨組みも見えてきたところだ。それを無理に捻じ曲げて無のスライドを作った。結局,精神がだめだということで発表は取りやめた。

何かすれば何か進むだろう。それは知っている。一方で1か月程度何かしなくても長期的な話にはつながってこない。それも知っている。コロナ状況下で積極的に事を進めるのは難しい,今は生き残れ,もっともな助言だ。

私の生活へのコロナによる影響は甚大である。実のところ私が仕事や研究を進めるのはカフェやカラオケ店などだった。しかし,ソーシャルディスタンスという社会科学をやっている人間としてはあまりにも不用心に思える用語による席数の減少により,席がとれなくなってきている。また,遠出するにも体が弱く,ネットカフェでぶっ倒れて一時休憩することが多かったが,それもできない。

外に出たら,外の時間を有意義にしようとして結果的に生産性は上がる。しかし,家では自分のふがいなさ,障害,生涯について直面している。その意味で,外では外面的なことをやって,家では内面的なことをやっているといってもいい。今そのバランスが崩れ,内面の問題が私を支配している。

ただ,恐らくことはすでにそのような技術的な段階ではない。私が無為無策を自分で選び取って1日1日を過ごしている,その事実が私という人間を切り刻んでいく。

35,おっさんになった

今日誕生日ですが,誕生会は緊急事態宣言につき自粛といたします。

「おっさん」の気配を感じてきたので2年位前から「おっさんを治す薬」と称してこれを飲んでいた。しかし抵抗むなしくおっさんになってしまったようだ。 

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実際のところ大学院にも所属しており,VTuberなども追っている関係から,若い人のコミュニティと接する機会は多い。しかし,どうも「これでいいのか」という曖昧な不安を感じてしまう。

5年前にギークハウスに関する記事を書いたとき,今の文化と昔の文化の違いについて語ったところ,いい加減昔の話をして今の人の足を引っ張るのをやめろみたいなことを言われた。私は基本的に「思い出」を重視するのでそういった書き方になってしまったのは確かだ。

理想としてはコミュニティはボーダーレスであるべきだと思っている,つまり前からいた人もいていいし,あとから入ってきてもいいし,年齢はどうでもいい。古いノリでやってもいいし,新しいことを始めてもよい。古い人が新しい人が始めたことに乗っかってもよい。ただし明らかに老害的な迷惑はだめだ。

しかし現実はそうなってはいない。ゼロから人が集まってコミュニティが形成される熱量は,既にあるコミュニティに随時参加していくのとは異なる。だから若い人は既存のコミュニティに入るより新しいものを立ち上げる。そして既存のコミュニティは,一見してボーダーレスを装いながらもどんどん衰退していく。

COVID-19の感染における「三密」の代表例としてライブハウスが槍玉にあげられたことがあった。その中で浮かび上がったのが,ライブハウスに若い人はもはや来ないということだった。

それに関連して,私がいる高円寺という街は「密」に依存しており,緊急事態宣言によって大打撃を受けている。私はそれを助けたいと思った。そんな中で,クラウドファンディングが始まった。今できることとしては最善だと思う。と同時に,旗振り役を見るに高円寺の閉塞感も感じる。つまり,15年前に初めて界隈に出入りし始めてから,根本は変わっていないのだ。彼らは40を過ぎても「若手の長老」でありつづける。上がいないからだ。そして,私は「若手の中の若いの」であり続けながら35になってしまう。最近はさすがに私より若いのも増えてきたが。街が滅びるとしたら,緊急事態宣言のせいではなく,高齢化のせいなのではないかとも思う。

一方でVTuberの推しのコミュニティに出入りするようになった。基本的に人と関わるのが煩わしいから視聴者をやっているのだが,それはそれとして人と関わるのもよい。そんなこんなで恐る恐るいくつかのdiscordサーバーにいる。実際のところその辺の年齢は割と混じっているように思う。世代間対立が起こる環境と起きない環境というのがあり、そこで適切にふるまっていればそんなに問題ないのではないか。

さて、5月25日の0時に投稿する予定が、文献を読んでいたところこの記事を仕上げる気をなくしてしまった。結論はない。

Amazonのほしいものリストを掲載するので誰か買ってほしい。フッサール「論理学研究」の1巻しかもっていないのだ。

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1CRJDMC1HF26K?ref_=wl_share

強力なノートPCを購入した

www.asus.com

4/15に新しいパソコンを購入した。FedExでの配送込みで122,040円+関税6900円。

スペックとしては

  • Ryzen 7 4800H
  • DDR4-3200 16GB
  • 512GB NVMe SSD(NVMeもう1つ増設可能)
  • Geforce GTX 1660Ti(2060と誤解されているがこっち)
  • 90Whバッテリーで持ち歩いても10時間くらい持つ(その代わりSATAがない)

まだ,国内で出版系のレビュー目的の貸し出し以外で他にRyzen 4000系のノートを買ったという情報がない。なので,デスクトップ向けのCPUを搭載したものを除けば,日本で最速のノートPCを持っていると思う。厳密にはわからんがそう思っておくと気持ちが良い。

Amazon.comでは未発売,日本に発送しないとのことだったが,業者のサイトに直接行ったところ,日本に送れることを確認した。どうやらその日に発売されたようで,RTX2060モデルはもう少し後に発売されるようだが,購入を即断した。アメリカ含め各国でCOVID-19が猛威を振るっており,サプライチェーンの崩壊の可能性があった。おそらくそこそこ長いこと品薄になる。また,日本政府の動きも読めなかった。最悪自宅を移す可能性もあったので,運搬できる高性能なノートPCは何としても欲しかった。案の定次の日には売り切れ,いまだに購入するのは難しい。6月にはある程度解消されるかもしれない。

届いてそろそろ1か月になるが,性能で困らない,というか完全に余っている。1660Tiは冷却の関係から少し性能が悪いようだが,ゲームにも特に困っていない。よくある話でファンがクソうるさいというのはあるが,普段使いではファンはあまり回らないのと,イヤホンをしているのでまあ耐えられるか。何しろ今までこれの1/3のCPU性能しかなかったパソコンしか使っていなかったので,比較ができない。まあ満足している。

よくわからないものを生き残らせよう

古くさいものが「自粛要請」によって潰されようとしている。

個人営業の飲食店なんてものはいつかは消えるものなのだろう。また,「新しい人とのかかわり方」を模索すべき,もしくは模索するしかないという考えもある。

実際に,世の中を新しくしようという動きはある。リモートワークの試みはようやく進み始めた。その流れを止めることはそれはそれで嫌で,時間空間に縛られない働き方を許す会社が増えてくれないと最終的に私の人生は詰む。

しかし,新しいことを始めるには余裕なり自由度なりが必要になる。その観点では,既に多くの問題を抱えながらも動き続けてきた今の世の中から,できるだけ人を退場させないことが重要である(蛇足:今のリモートワークもその考え方で推進しないと弊害が多くなると思う)。

そこで問題となるのが,世の中一つの尺度では測れないということだ。金を稼げばいいというものではないし,私自体「恋愛」という概念に固執しており,なんでそんなにこだわるんだと言われると答えようがない。私にも何をしているのかわからない人間が多くいる。つまり,何をすれば「余裕」なのかは明確ではない。

さらに面倒くさいのは,世の中は様々な価値観をもつ人間が絡み合って生きているということだ。全然自分とは違う人々に実は依存しているということが世の中には多くある。今目の前に見えるあらゆるものは私の知らない人間が作っている。

さて,ここで国策を見てみよう。はっきり言ってある業態や文化について潰れるのもやむなしという方向ですべてが進んでいる。しかし,それらが実は必要で,知らないところで自分の生活を支えているとしたら?んなこたないだろうと思う人もいるだろう。違う。答えは「わからない」だ。

世の中のわからないことを排除するとどうなるのか。スマホの修理でたとえよう。例えばお持ちのスマホが壊れたとする。どこが壊れたかわからないが,とりあえず分解していらなそうな部分を適当に引っこ抜いてみる。その結果はお分かりだろう。

実際は世の中はもっとルーズにつながっている。そのルーズさはウイルスが付け込む隙にもなるかもしれない。しかし,引っこ抜いたらどこに影響が出るかなんてわからない。そもそも「お持ちのスマホが」と適当に言えるほどスマホが普及して生活に影響を与えるなんてほとんど予測されていなかった。2002年に初めて「スマートフォン」という言葉を知った私だから言える。逆もまた然り。世の中に何かを導入したら何が起こるかわからないと同時に,何かを突然消し去っても何が起こるかわからない。

さて,今起こっている変化に決定的な主導権を持っているのは何か。まぎれもなくコロナウイルスである。日本や世界における流行が実際どうなっているのか,おそらく数年経たないとわからないだろう。しかし,世の中が大混乱に陥っているのは事実である。

そのような状況下で,何か大きなアクションをとったとする。予測はさらにつかなくなる。その中で感染拡大「だけは」数値指標として明確に抑えられている点で,専門家の能力は特筆に値する。

しかしそれ以外はどうか。世の中の一部がだめになってしまうかもしれない。先に述べたようにただ世の中の流れでだめになるならいい。しかし,そうでない急な理由でだめになったら,世の中にどう波及して,どう良くしていけばいいかさらにわからなくなる。

だから「守り」の姿勢が必要だと考える。はっきり言って私から保守的な発想が出てくるとは思わなかった。コロナ以前からあった店はできるだけ潰れないようにしたほうがいい。コロナ以降だめになった人間は救ったほうがいい。

最終的に店はつぶれ,人はだめになるかもしれない。だが,今それを積極的に早めるべきではない。そのためにどうすればいいか必死に考える。それが本当の「緊急事態」の意義だと考える。

コロナ対策で価値観まで変えてはいけない

普段から家にいる時間が長くリモートワークをしている私にとっては,今回のSTAY HOMEの要請は都合がよく,生活が楽になり行動できる幅が増えている。個人的にはこの流れが進めば働ける機会もいろいろできる機会も増えて都合が良い。出社などなくなれば良いと思っている。

しかし,私はそれを手放しで喜べないし,その主張を表に出したくない。本来家にいるべきかどうかは好みの問題である。そして,家にいるほうが好きな人,外に出るほうが好きな人がいるのは当然である。しかし,今の自粛要請は「家にいるほうがいい」という方に大義名分を与えた。

それと同時に,様々な声に大義名分が与えられた。飲み屋に行くな,酒を飲むな,演劇やライブハウスやクラブはつぶれてもよい,これら1つ1つをとってもコロナ以前は好みの問題だった。気に食わないとしても特に主だって言うことははばかられるようなことだった。しかし,今その声は表に噴出している。

今回のパンデミックは,数年規模に長くなろうとも,一時期なものだ。一方で,価値観なり文化なりは数十年たてて流行ったり廃れたりするものだ。あっという間に塗り替えていいものではない。

だから,「コロナ後」を考えると憂鬱な気分になる。自粛が解除された後も,酒飲みは叩いてもよい,ライブハウスは消えたほうが良いといった考え方は残る,もしくは残るべきだとされる可能性がある。

その一つのキーワードが「行動変容」だ。この言葉は,「行動」のレベルにおさまるものではない。自身や他人の活動についてどう考えるべきかという価値観を決めてしまうものだ。

基本的に「普通の人」は,自分のしていないことに関心がない。どうなってもいいと思っている。自分の身の回りの世界というものがあって,それが成立しているなら他のことは考えなくても生活できるからだ。だからこそ,「行動変容」を自分に影響のない限りで,その価値観も含めて簡単に受け入れるだろう。

実のところ,飲み屋やライブハウスの常連,演劇界隈の人間というのは,そこまで多いものではない。今回のコロナウイルスの件がなくても廃れる運命なのかもしれない。しかし,それを必要とする人々はいるし,演劇でしか自己表現できない人も多く見てきた。

しかし,医者,感染症の専門家,政治家,そして大多数を占める普通の人は,それらを「良くないもの」とする価値観を早急に受け入れるだろう。

それを待ってほしい。今はあくまで「緊急事態」である。例えば銃弾が飛び交う中で堂々と酒を飲む人間はそうそういない。しかし,そうでなくなった後も酒を飲むべきではない,と主張し続けるのは間違っている。長期的には人類は酒を飲まなくなるかもしれない。しかし,それは今決めることではない。

自分が好きだけどコロナウイルスの流行でできなかったことを大事に持ち続け,流行が終わったらいったん再開する。そのほうが「良くない」ものを排除し続けるよりはるかに健全であるように思う。そのうえで,あらためて何が良くて何が良くないかに関してコンセンサスをとっていけばよい。今一部の専門家が決めたものは,緊急事態である現在有効であるが,全ての状況における最適解ではない。

引きこもってから14年,風邪にかからない秘訣

 「STAY HOME」の名のもとに日本人総引きこもり計画が進んでいるわけだが,私はこれが有効だということを知っている。なぜなら,14年間ほとんど夜にしか外に出ない生活を続けてきたからだ。そして,それ以前はインフルエンザや38度を超える熱の出る風邪にたびたびかかっていたにもかかわらず,引きこもって以降はかからなくなった。

 当然今のCOVID-19対策は集団に対してのものであり,ウイルスの様態も異なる。なので具体的な対策は各自正確な情報源にあたっていただくとして,私の習慣について経験を共有する。

私の持つ風邪にかからない習慣

  • 外に出ない:大学は夜学で多くて週3(通ってなかったかも),大学院修士課程は週1でしか外出していなかった。会社は完全リモート。博士課程序盤の週2回がつらかった。
  • 人と目を合わせない:これは引きこもる前からなのだが,90年代後半の東京の不良が多い地域では,目を合わせたら敵意を示すという文化があった。いわゆるガンというやつだ。その時の習慣がついて,人と目を合わせることはほとんどない。コロナウイルスの人-人感染は要は人の顔から噴出したものが人の顔にかかってなる。だとすれば人と顔を直線状に合わせないにこしたことはない。
  • 人と飯を食わない:これは生まれた時からなのだが,人に飯を食うところを見られるのが嫌いだ。私はとんでもない偏食で,頼むもの,食べるものの順番や食べ方が人と異なっているのだが,それを指摘されたくない。だから基本的に食事は一人で済ませる。これは比較的マイナーなコロナ情報なのだが,人と食べながら話すのは飛沫がガンガン飛んでやばいらしい。
  • 手を洗う:男性の引きこもりが手を洗う習慣を身に着けるのは,当然下半身を手でやるアレだ。さすがにアレのあとは手を洗う。私は回数が多いため,ガンガン手を洗う。そのうちなんか汚かったら手を洗うようになった。外に出たら基本的に汚くなるので,帰ったら手を洗うようにもなった。
  • 満員電車に乗らない:昔,精神が悪い状態で満員電車に乗ったら一瞬で調子を崩し,次の駅で降りて仲間に助けてもらった。対人恐怖症がそこまで進んでいるとは思わなかった。その時のことを繰り返さないように,満員電車には乗らないようにしている。自分が使う路線を複数熟知し,時間に合わせて路線を変えている。「あれっniryuuさん今日は~線なんですか」というのが多いのはこれが理由だ。
  • 息をしない:対人恐怖症の一種として,自分が臭いと思われているというのがある。なので,人込みではなるべく息をしない。実はこれが結構重要なのではないかと思う。そもそも吸うからウイルスが入ってくる。

おまけ

 ついでに引きこもるようになったきっかけについて書いておこう。20歳の誕生日の直前(5月),母が亡くなった。片親だったので両親がいないことになる。その後祖母と2人で暮らすようになった。いわゆる毒親だったので依存があったようで精神的ダメージは大きかったが,しばらくはうまくやっていた。

 明らかな不調をきたしたのは1月の成人式である。正直あれに参加しなければ持ちこたえられたかもしれない。成人式では,自分と同じ年齢で,同じ時を過ごした人々が一堂に会し飲むことになる。そしてわかった。彼らは幸せなのだ。私よりずっと。それに気づいた瞬間心がポキっと折れた。不調が見る見るうちに増していった。

 大学2年の終わりまでは乗り切ることができた。しかし,3年になってから通えなくなった。6月に留年が確定し,夜学に編入学した。その前後,失恋をした。私が好きになった女性は,いつも知らないところで付き合い始める。私はそれに気づけない。

 まあそんなこんなで,それまでいろいろ人間関係はあったのだが,どこに行っても己の不幸と「彼氏」への怨嗟をしゃべり続ける厄介な人間になってしまい,行ける場所がなくなってしまった。

 それ以来人が怖くなった。己の不幸を受け取る人間なんてこの世にはいない。外に出ている人間はみな私より幸せだ。外で歩いている人を見るのがつらい。気が付いたら対人恐怖症がかなりのところまで行っていた。これが人間の終わりである。

ポジティブな「俺はもうだめだ」

「俺はもうだめだ」が口癖になって10年になるが,実はそれにいたる元はポジティブな動機から来ている。

というのも,私は基本的に人に興味がない。人と話しても自分の話をするか,自分が面白いと思った話しか聞かない人間だった。

だから,自分が何かしようとするとき,人に助言をもらっても単に無視することが多かった。

一方で,世の中には自分の知らないことや,経験,能力を持っている人が多い。そのような人から適切に教えを請わないと,まともな成長は望めない。

そのために,無理やり人の話を自分に聞かせる必要がある。「すごいですね!」で終わらせてはならない。

その手段が,自分をだめであると明示することだ。私はこの能力についてだめだから,人の話を聞かなければならない。

それを追加することで,ようやく人の助言を活かすことができるようになった。

さて,そこまではよかった。その目で世の中を見てみよう。実は,一人一人見てみたら,自分はその人よりだめなのではないか。

恋愛ができる人は,恋愛ができない自分より良い。借金のない人は,借金のある自分より良い。自分より借金のある人は,借金ができる信用能力がある。

ある意味で,それは人の良いところを発見する作業である。しかし,発見すればするほどそれが重荷になる。

最終的に,私は自分は最低でどん底のだめな人間だと認識するに至った。

そうなると,今度はすごい人の助言を活かす際の精神的負荷が高くなってきた。助言は必要。受ける。そしてぶっ倒れウーだめだとウンウンうなる。活かせはする。

まあそれをどう健全にしていくかはわからず,試行錯誤しているのだが,そういう経緯がある。