発達障害と適応について

25歳から35歳にかけての10年間,「発達障害」は私の避けられない不幸,もしくは一種のアイデンティティとして働いてきた。その中で,私もいろいろもがいてきたのだが,周囲のトレンドが変わってきた印象がある。今日はそれを吐き出したい。まともな議論ならid:p_shirokuma氏の以下の書籍が参考になるだろう。私の記事は主観と偏見に満ちた泥臭いものだ。

 

10年前は,「発達障害も含めて,人には思った以上に振れ幅があるんだから互いを尊重して良いところは活かす」ような考えの知人が多かったように思う。病気なり借金なりいろいろな問題を抱えた人間が集まってはいたが,良い部分は良い。だったらそれを十分に発揮したほうが周りとしても面白いし,本人にとっても社会生活を送る際のベースになる。

ところがそれから5年ほどが経ってからか,徐々に「良いところよりも,普通の人と同じような生活を送れるように適応すべき」という方向に移ってきた印象がある。これは様々な理由が考えられるが,

  • 収入などが安定してきて生活面に目を向ける余裕ができた
  • 逆に不安定になりすぎて適応せざるを得なくなった
  • 結婚したい
  • 将来が不安
  • 世の中の発達障害に対する認識が変わってきた

などが挙げられるように思う。

私はというと,6年前に一緒に暮らしてきた祖母が亡くなり(両親はとっくの昔にいない)「次は自分の番か,だったら今のうちにできることをやらねば」の一心で博士課程に入学し,一定の不出来を残して来年単位取得退学する。この専攻で社会人をやりながら課程博士号を取れた人はおらず,私がその1人目になるほどの実力を持っていると思ったことはない。

そのために生活の立て直しをそっちのけにしてきた。壊れた生活環境(生活習慣,家具などを含む)の改善は最低限,部屋に増える資料,生きるのに最低限のルーチン(まともな場に出る際の最低限の身だしなみも含む),それらを維持しながら仕事と研究に没頭していた。博士課程が終わったら多少余裕ができるので,あくまでできる範囲だが,生活を立て直し,家をきれいにし,習慣を改善するつもりだ。

しかし,それ以上に怖いのが周りからの風当たりだ。私の生活に様々な問題があること,普通の生活を送るのに普通の人の何倍も時間がかかり,精神的負担がかかること,これは共有されているはずだ。しかし,「それでもこれは良くしろよ」といった助言を超えた多少アタリのきつい言葉が増えてきた。

皆の言うことはもっともである。しかし,日常生活の健全さには依存関係があり,これを良くしないとこの改善に取りかかれない,ということが多い。「外に出る服がない」的な。また,自分のキャパシティにも限界がある。なので順番にやっていく必要がある。その段取りこそ人それぞれだったりする。正解はない。なので,今はその指摘はやめてくれという印象である。それ自体が精神的な負担になる。助言をもらってすぐ実行できる問題なら既に解決している。

あと,ここから先は一種の苦言になるのだが,

(1)発達障害に完全な適応はできない:結局皆ができる範囲で改善しているだけで,それで完全に普通の生活を普通の人のように快適に送れるわけではない。個々人で負担をできるだけ減らすこと,もしくは人と合わせることしかできないし,実際に「適応できている」と主張する者はそれをやっているにとどまる。

(2)普通の人でも完全に適応ができるわけではない:例えば今回のCOVID-19に関して「新しい生活様式」「ニューノーマル」が提案されているが,結局日本ではそれを強いているわけではないので古い様式がいまだに残っており,適応なんてできていない。精神疾患を抱えた人も増え,また元々発達障害の人にさらに精神的な困難が降り掛かっているという話もある。「非常事態だからきついに決まっている,それまでの生活と一緒にするな」という声もあるだろうが,そもそも歴史上庶民が何もせずに楽して暮らせていた時代などほとんどない。今が特別きついのは確かだが,それ以前が楽な理想郷だったかというとそうでもない(もっとも,そう言いたい気持ちもわかる)。「適応」は1つの世の中での「戦い方」で,その時点の多くの人が共有している手段であり,それ以上のものではない。

あと色々言ってくる人の事情について。

  • 収入などが安定してきて生活面に目を向ける余裕ができた→あなた,生活面,もっと言えばお金に余裕があるからいろいろできるんですよね…私は稼ぐために色々模索しないといけないんですよ…
  • 逆に不安定になりすぎて適応せざるを得なくなった→お互い頑張りましょう…
  • 結婚したい→すごく申し訳ないのだが,遅すぎる
  • 将来が不安→その不安は生活を普通の人に合わせることで解決できる種類のものなのでしょうか
  • 世の中の発達障害に対する認識が変わってきた→何年も生きてきて自分なりの障害との付き合い方を身につけてきたはずでは?