私は学者になりたい

 新訳だ

 まあ2006年に人文社会学系の学問を志してから,いろいろ自身の立ち位置について考えてきた。修士課程,博士課程を去る際に,適性はないのだろうと2回感じた。また,今狭き門をくぐって日本で大学教員になるということは,莫大な書類と事務仕事をさばくということでもあり,私にはとうていできそうにない。

 2月,つまり単位取得退学の書類を出してから,ある種「課程博士」というゴールにとらわれず研究をしてきた。ゼミには引き続き出席できるが,教授とのつながりも減っていく。そのため,独立して研究していくにはどうしたらいいかを模索するという意味合いも含んでいる。

 その中で,私のやっている学問の,2018年頃提唱された新しい方法論に取り組み始めた。人文系の方法論は,過去の研究も踏まえて十分に精査するのに時間がかかる。その中で,今この時点の日本の学問状況を踏まえると,私も含めてエッセンスを的確に把握している研究者は恐らくいないように思われた。その点でニッチである。

 しかし私は自由だ。ここでスラっと「自由」という言葉が出てきたのに少し驚いた。

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だが、あるレベル以上の知性を身に付けるとまったく人生の意味が変わる。なんというか自由になるのだ。学問は人間を自由にする。この解放の瞬間がPhD論文が書けたときだ。 

何年も読んでいる記事だが,この意味での自由だ。この点で,私は博論は書けなかったが,ある程度での自由は手に入れたのかもしれない。

 話を戻すと,自由なので時間の許す限り新しい研究潮流に取り組める。私は原典を読み始めた。そして,全く触れたことのないわけのわからない概念,明瞭でないつながり,明示されていない定義,それらを少しずつひも解いている。

 読んでいる途中,つい先日,この潮流に関わる新しい資料がアーカイブのテープから書き起こされ,公表された。私は即座に今の作業とその資料に関連があることを把握した。しかし,どこまでが同じでどこが違うのか。そのためには両方を読む必要がある。新しい電子ペーパーヤフオクで落札した。富士通ソニーOEMを出したようで,4年前のソニー製の1/3の値段だ。ペン周りのアルゴリズムも良くなっている。論文を読む者なら今すぐ買うべきだ。

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 そして現在,原典を読み終わり,新資料に取り組んでいる。各文献や資料の関係はゴチャゴチャしており,引用されている学者の関係もゴチャゴチャしているが,だんだんわかってきた。単純化しすぎないように整理できそうだ。

 さて,どうするか。何らかの形で出したいが,論文誌を通さずオープンな形で出してもそれは元の方法論の価値を毀損することになる。時間はかかるが真っすぐに行こう。しかし日本では査読できる人がほぼいない。だとしたら海外,いくつかの論文誌の傾向を見るに,トップジャーナルに投稿するしかない(註:人文系のマイナーな分野のトップジャーナルの競争率はそこまで高くはない)。その後,実際にその方法論が既存の研究とどう違うかを説明した論文を国内で出す。それで博論提出資格を満たす。

 んなうまくいくか。私には才能がない。それはわかっている。ただ,私は「課程博士を取れる可能性は査読期間の関係でゼロ」の状態で2年間時に絶望しながらも頑張ってきた。少しでも可能性があるなら楽だ。Google検索したところ,提唱者の原典が一番上に出てきて,次に私のツイートが来た。競争相手は恐らくいない。

 まあ今はそんな段階である。じゃあ今の私は何なのか。俺の人生は何なんだ。というと,単に自分の知見を論文の形で発表しようとしているだけだ。金は自腹だ。それを何を目指しているととるのか。恐らくだが,それは学問をする者,「学者」以外にない。だから,学者になりたい。