衰えながら先に進んでいく

3月末で博士課程を単位取得退学する。博士課程での専門的訓練という、人生でこれだけはやっておきたいということを終わらせられたのは、恵まれていると言って良い。多くの方々に助けられてここまで来た。主治医に「働かないほうがいい」と言われた会社にも9年間所属できている。これもまた私自身の努力だけでなく、助けられてのことだろう。

しかしながらこれからどうしようか。1月からずっとこのことについて悩んでおり、様々な鬱の症状が出ている。

正直研究を自力で進めることはもはや可能だ。2020年という、人と人を切り離した年が私を学問と向き合わさせた。孤独に文献や資料を読み解き、未到達の領域に失敗しながらも踏み入っていくことに、恐れはなくなった。多少マシに動けるようにもなった。

コンピュータソフトウェアの仕事に関しては、学部の情報通信工学科を中退しているため、工業高校の知識で今までやってきたことになる。それに限界が生じてきた。この1年間、博士課程の合間に学部科目「コンピュータアーキテクチャA(様々な並列処理の方法)」「計算モデル(ラムダ計算)」「並行計算モデル(π計算)」「オペレーティングシステム」を受講した。成績は悪くなく、A2科目S2科目だった。来年度は放送大学で知識を定着させるとともに、自然言語処理など応用的なことも学ぶ予定である。

しかし、なんとも言えない閉塞感がつきまとう。1つの会社に依存し続けることへの不安、障害、借金、人生のステージなど、思い当たる節はいくらでもある。しかし、それらを打開するような楽観視がどうしてもできない。その理由として最近考えているのが、「衰え」である。

衰えと言っても、具体的な老いではない。体は当然動かないからなまっていくが、鬱病を差し引けば(これがけっこう重い)、考えながら文献を読んだりコードを書いたりなどの、知的作業についてはそこまで衰えている印象はない。

ところが、ある日唐突に「衰え」に気づいてしまった。私が今やっていることは、すべて21歳から25歳、つまり2006年から2010年までにやっていたこと、もしくはできたら良いと思っていたことから出ていないのだ。そこから先の新しいことをキャッチアップできていない。社会情報学は問題系を変えながらずっとやってきた。当時流行の地理空間情報やARなどの技術は急激に実用段階のフェーズに入っている。その意味では、当時足りなかったことが揃ってきて、月並みだが多少はなりたい自分になれた感じがある。

しかし、それは過去を進んでいるだけで今を進んでいるわけではない。これは呪縛だ。自身の感性が今につながらない。つなげる気が起きない。確かに個別に見れば新しい「今」なのかもしれない。しかし私にとっては過去の延長線なのだ。

趣味についても同じだ。私はバーチャルYouTuberにハマっているが、映像のライブ配信、ゲームのプレイ動画、などなどほとんどは当時慣れ親しんだものだ。1回泥酔してYouTubeの視聴画面から配信画面の方を開き、配信をしたことがある。視聴者はいなかったが、「復帰したんですね!」とコメントが来た。恐らく2008年頃の私を見ていた方だが、復帰も何も私は当時界隈にいただけでほとんど配信はしていない。

もう1つ衰えを感じたのが、自分の関心を他者に対してプロモートする気がなくなったということだ。昔から私には自信がない。何ができるかと聞かれると今でも怪しい。しかし、「〜に興味がある」を示すことはしており、それこそ配信もしていないのに配信者の界隈にいるくらいのことはしていた。

それをやる気が起きない。今の私は、私という人間に興味が持てない。根拠のない自信は根拠のない未来とセットになる。過去を生きる私には今がなく、当然未来もない。作ってしまえばいい。それはそうかもしれない。しかし、それは難しいことだ。流行に乗ることと、新しい概念を育てていくことは圧倒的に難易度が異なる。

昨年の9月にはカジュアルな場所で研究のプレゼンをしたら、時代遅れだが確かな知識を持つ専門家に凄まじい剣幕で怒られた。新しい概念について、一緒に育てていく意志のある者同士で検討する分には少なくとも激しい拒否反応はないが、ある段階を超えたら外との対話をしていくことになる。それにどれだけのタフさが必要かを身を以て体験した。

恐らく人は今を食べないと生きていけない。できないと死に、それに至る過程が衰えとなる。それをどうするかが今後の課題となる。