今はその時ではない

大学院を単位取得退学してから3ヶ月が経とうとしている。5月の最初頃まではまだ意地を張るくらいの余力はあったが、それも尽き、仕事も研究も手につかない。

 まあ何度かあった鬱状態で、経過を見るに昨年の7月から少しずつ発症していたのが今年の5月末までにどんどん悪化していき、6月に入ったくらいで底をついた印象だ。底をついたといっても、「何もできない」状態を抜け出しただけだ。鬱というものを自身の内部、外部で解消していくというプロセスがある。人と話す際に鬱そのものや、それに影響された言動が出てしまうのである意味どん底の状態よりたちが悪い。鬱に立ち向かうと同時に、鬱に立ち向かっている自分を制御もしなければならないので、余計に負荷がかかる。まあ厳しいとわかっていれば対策を取るだけだ。もっと厳しい状況になればもっと厳しい対策を取る。耐えられなくなったら仕方ない、終わるしかない。

 もっとも、世の中の状況が良くなりつつあるのは幸いである。もともといた大学院の図書館はコロナにより使えないが、某大学の図書館を使えるようになり、研究環境としては申し分ない。また、東京23区の中では65歳未満に対するワクチン接種が速い方だったので、ほぼ最速で押さえ、1回目を接種した。少なくともこれらは精神には良い影響をもたらしている。

 しかし、外の方が明らかに捗る私にとっては、今の状況は良くない。徹頭徹尾私には人に命じられて何かをすることができない。私はすべきことをしているだけだ。その「すべきこと」は家では曖昧になる。何もしなくていいのではないか。中国の古典などを読んでしまう。それもある意味で正しいのかもしれない。しかし、例えば屋外のカフェなどでPCや電子ペーパーを開くと、周りには人がおり、それぞれがすべきことをしている。だから、自分が置かれた状況で何をすべきかも自然に入ってくる。

 コロナによる規制下ではそのような感性は発揮できない。家でタスクを洗い出す。1つずつ見る。これは私がやる必要がないのではないか。他の人でもできるし、そうあるべきなのではないか。そして「やる必要がない」で埋まってしまう。当然それは間違いである。

 他の人がやるべきことでも、私がやれば何か進む。わかってはいる。しかし一人でいると周りが全員私より有能であるという観念にとらわれる。鬱病を患っているときは特にそうだ。誰かしら人がいれば、彼らもまた不完全で、それぞれ能力の不足と戦いながら生きていることがわかる。しかし、今の私にはそれはわからない。

 そんな状況下で、何かを始めるのは難しい。仕事でやっている調査もゼロからで、研究も一旦仕切り直しになる。今、進行中のことはない。進行中のことであれば、今までやってきたことが自分の能力を良くも悪くも証明するが、今私は何も持っていない。私なんかがこれをやってよいのだろうか。その考えが私の足を止め、足が止まると足場が消える。

 正直、今いきなり必要なタスクをすることはできない。だから、iOSアプリケーション開発のチュートリアルをやったり(普段の1/3でしか進まない)、中国の古典を読んだりしている。それをもとに、ようやく本線の調査を行ったり、難しい著作を読んだりできる。そのような蓄積が一定程度貯まらないと先には進めない。

 今はまだ、その時ではない。