著作権の終わり(1)創作はもはや個人に還元できない

数日間初音ミク界隈を追っているが、結局現在されている議論は
・「ミクは悪くない」
・法令、契約条項の議論
が主流だ。前者は根拠としては技術性善説なのでおいておく。

後者はさらに分かれて、
・法的に現在起きている問題を妥当な状況に持っていく
・今後クリエイターはどのように情報を発信すべきか
といったところ。これは前者については大いに議論されるべきだと思うし、水を差し続けるのが重要だ。

ところが、後者の議論はどうも根本的に現状維持、想像力に欠けている部分があるように思う。
特に、最近ついに表舞台に出たCreative Commons(CC)は、まさにこのような状況のための設計で、先見性が非常にあったといえる。ただし、それには大きな問題がある。

CCは、基本的に個人を単位にした権利体系で、そのため既存の著作権法にある程度かなっている。これは、当時描いていたコンテンツ流通の未来として「個人メディア」が主流であったため、納得できる。実際に、2002年以降少なくとも2005年くらいまでの流れは、まさに未来の実現と言えるだろう。2005年以降は、SNSの登場や、YouTubeなど、個人が情報を発信していくにしても、媒体となるサービスの特性が強く現れるようになった。

これには、自分が発信したコンテンツがWebという、あまりに、あまりにも大きな空間の中で誰にも省みられないんじゃないかという不安感も加担しているだろう。実際、Web2.0の骨子である「プラットフォームとしてのWeb」はそれを体現しているし、書籍「アンビエント・ファインダビリティ」(O'relly)に見るように、当時のWebはコンテンツを探せない、若しくは自分のコンテンツが人に見つけられないという問題があった。その解決策として片方にGoogleTechnoratiがあり、もう片方に緩やかに開かれたプラットフォームがあった。

さて、その結果として、プラットフォームをベースとしたコミュニティ(以下コミュニティと出てきたらこの意)が形成された。これが技術が人間関係を支配していることを意味するかどうかはどうこう言わない(ただでさえ人間関係なんてテクニックの坩堝だろう)。彼らの作品は、必然的にコミュニティに根ざした、ある意味でコミュニティなしでは存在しないようなものになっていった。

そう、コミュニティがあって、コミュニティのほかの作品があって、初めて作者は作者になるのだ。たとえ前から暖めていた作品でも、コミュニティの中の作品として見られる。一つの作品でも様々な作品や状況に影響され、単純に個人のアイデアともいえないのだ。作者は個人の集まり、だけど作品たちは勝手につながっている。それってやっぱり歪んでいるんじゃないか。

例えば、avexのまネコをインスパイアと呼ぶのに、MAD作品をインスパイアと呼ばないとしたら、線引きがどこかにあることになる。しかし、その線引きは作品と作品の間にあり、CCがそれを反映することはできない。また、一応みんなで営利目的を認めてみよう。その場合、Aの作品が別のBの作品で使われ、Bの作品だけが広告などで利用された場合、Aはどうなるのか。そこで個別の裁量をするとしたら結局CCを採用する意味がないんじゃないか。このように、個人と作品の関係は意外に難しい。

営利目的と分配については次回以降。