ここ数年、様々なコミュニティで回避できない対立に直面して、それについてよりよい道を探るという泥臭い作業をよくやっているのだが、それはもしかしたら根本的に古いことで、私がそういうことをする最後の世代なのではないかと思っている。
現在ビジネスなり社会を変えることなりをするというのは、基本的にマルチステークホルダーになる。15年前には対立していた人種が、当然のように同じテーブルで話しをしていて、恐らく昔の人が見たら奇跡なのではないかと思うだろう。一方、そのような交渉の中で、お互いの立場や文化の違いを埋めることは基本的にされないし、組織の構造もあり当然情報の流通、共有も不十分になる。
そのような状況では個人的な対立は当然起こるし、ステレオタイプでものを語ることもよくある。その中で妥協点を見つけられたとしてもあまり良いものにはならなかったりするし、根本的に不効率で時間がかかる。さらにいえば時間の見積すらできない。
そんな中で聞く立場、調停を専門とする方々も当然いる。弁護士なりファシリテーターなりディレクターなり場面によっていろいろな呼ばれ方があって、それぞれ方法も違うが、目的としては同じで、利害や立場、文化の異なる人を理解して、お互いが最も良いと感じる方向に物事を進めるということだ。それによってうまくいった場面も多く見てきた。
一方、人間関係やコミュニティが凄まじい勢いで移り変わっていくスタートアップや非営利の分野では、彼らの専門的スキルに頼ることができない場面も多いし、さらに言えば大きくくくれば同じ流れでも、いろいろなプロジェクトをやっていくうちにそれぞれ違う違いや対立が出てきて、専門家でも追いつかないことも多い。「人が重要」、それは当たり前だ。一方で、対立も協調も全ては人次第になってしまう。
そういうとき、割りといろいろな人と会っていて、いろいろな事情をそれなりに知っている人間が頼まれて、もしくは自発的にやることがある。自分がそれをやったこともある。しかし、本当に無力なのだ。辛い時は人は繊細になるし、人が変わってしまうこともある。その中で、大枠ではうまく行かせることはできても、大事な人間が去ってしまったりすると個人的には悲しみは残る。私も繊細なのだ。
一方、私より若い世代では、最初からそのようなことの難しさを知っており、回避を目的としてすら行動する。感情的な対立が起きたらすぐに新しいコミュニティが立ち上がるし、そうやって細分化されていき、非常に広く非常に薄いつながりができていく。対立などなければいい。なかったことにすればいい。そういう世界観が最初からできている。
一方、彼らがうまく物事を回せているかというと、見たところそうでもない。基本的に少人数のチームで動くことになるが、そうなると一人の責務が大きくなり、結果的に対立が生じて崩壊してしまう。もしくは、一人にすべての責任を負わせること、これもよくある。個々人の違いと、それに由来する対立の恐怖を回避しようとした結果、個々人の役割が逆に大きくなってしまう。そういう事情が起こっている表で、かりそめの対立のない平和の世界が構築されている。
このような流れを見ると、多様な人がいるのは良い、また対立があるのも仕方がない。それを避けようとするのもわかる。しかし、物事のやり方だけはより良い方法がないかと思う。それぞれの思惑や理想があるからこそ、物事はよく進んだ方がいい。そのやり方として、もしかしたら属人的な古いやり方以外を模索した方がいいのかもしれない。
ということを思う際に、もう8年前になるが、Tim O'reillyの"What is Web2.0"における「調整から連携へ」(原文では調整coordinationはsticknessと書かれているが、日本ではわかりやすい調整の概念がよく使われる)という言葉を思い出す。これは元の記事でも揺れている(というか雑)な言葉なのだが、核となる概念としては、「わざわざ企業同士が交渉したり提携するのは古臭い。APIを公開して、誰でも使えるようにすれば、どちらにとっても快適に物事を進められる」という技術的な側面が強い。
この「連携」におけるAPIが、Web以外の活動では何に当たるのか、については、様々に意見がある。例えば「ウィキノミクス」(これ、もっと流行して欲しかった)においては、人々の共同作業をWebサービスが媒介する形で、直接のコミュニケーションなしで行える時代になったというテーマのもとに、Wikipediaから始まって事例を多く紹介している。最近話題の「ファブラボ」などを初めて知ったのもこの書籍だし、オープンデータの萌芽も見られた。
一方で、Wikipediaが調整を排除しているかというと、そうでもない。絶え間ない議論や調整の産物として、「連携」が実現されているのだ。昨年先生に非常にお世話になり、ゼミの輪講に参加させていただいた"Good Faith Collaboration"という書籍では、Wikipediaの詳細なバーチャルエスノグラフィーによって、連携を可能にしている文化の成り立ちを明らかにした。Wikipediaは、アメリカで最も大きなコミュニティがある。アメリカでの百科事典を作る共同作業は、必然的に多様な人々の同じ記事の編集と、対立を呼ぶ。その中で「うまく協調して」「百科事典の本来の目的にかなうものを作る」ためにはどうすればいいのか、ということについて激論が行われた。その産物がこちらにまとめられている(和訳)。
現在は色々変わった部分もあるが、初期に出てきた方針やガイドラインでは、百科事典については「中立的な観点」や「独自研究は載せない」「検証可能性」という3つがまとまった。一方で、ある意味異色で、最重要なガイドラインがある。「善意にとる」だ。
善意にとることは、ウィキペディアにおける基本的な行動原理です。ある編集者による記事の編集やノートのコメントが善意に基づいていると仮定するということです。プロジェクトに携わる人々は、たいていの場合、それを台無しにしようとしているのではなく、手伝おうとしているのだ、と。そうでなければ、ウィキペディアのようなプロジェクトは、始める前から失敗することが運命付けられてしまいます。
この原理は、極めて強い主張である。言っていることや立場が過激だったり、誰かに非常に都合の悪いものであったとしても、まず百科事典の編纂に参加している以上は、百科事典を良くしようと思ってのことだと思って下さいということだ。各記事で問題が起きたときは、まずこれを適用してから全てを始める。この原理の有効性は、現在の記事の品質を見ればとりあえずわかるだろう。
「善意にとる」は、どこかから持ってきたものではなく、ユーザーのコミュニティでの議論の中で産まれたのだ。そして恐らく現在も「善意にとる」の賛否そのものについても含めて議論が続いている。日本版でのこれに関する議論を初めて見たが、最初に英語版から輸入された際には「そもそもこれは何なのか」から始まって、4年経った2010年に公式にガイドラインになっている。ある意味、連携のためのルールを調整によって作ることで、連携を実現するという方法は、重要なのだろう。
8月3日にオープンデータのアイディア出しのイベントで話したことがあったが、そこで「お互いを尊重することで、うまくいきます」ということを強調した。これは、決まったことでも調整したことでもない。エンジニアだけが集まるハッカソンでは、このようなことは当然のルールとして受け入れられているが、行政関係者、エンジニア、NPOなど非常に広く人が集まる中で、「オープンソース文化」としての「お互いの尊重」が守られないことがたまにあり、結果的にうまくいかないことが多かった。これは、単純なことだが、もしかしたら物事を進めるのにとても重要なことなのかもしれない。そう思って言うのは野暮だと思いながらあえて強調した。イベントは非常にうまく行った。
話は全く変わるが、「クラウドソーシング」も連携の方法の一つだろう。こちらでは、属人性の排除に重点が置かれている。人を見たり調整したりというのは最低限で、成果物と金銭のみを受け渡す。これは連携の色を強く押し出した例であるが、調整があれば解決できたような些細な問題が起こっているという話も聞く。ただ、こういう形でいろいろ回していくのも悪く無いと思う。
いろいろ見てきたが、単に協調の方法を調整から連携に変えるだけでは、うまくいかないようだ。調整でできることも連携でできることも限界がある。さらに、ここで挙げた協調の例は、皆Webが絡んでおり、現実ではまだまだ調整が優位なのではないかと考えられる。その中で、皆が目指すべきことの一つの案としては「それぞれが出来る範囲で協調して、お互いが目指すものを可能な限り実現する」ということだろうかと考えている。