努力することではじめて分かるセンスの差

「努力は必ず報われる神話」として消費される受験戦争という“ゲーム”
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20071226/p1

これを見てただの昔話をしてみたくなった。
受験戦争が神話として機能するのは、

「センスを伴わない努力」を担保する神話
http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/12/post_579.html

にもあるように、序列が可視化、数で数えられて順番をつけることが出来るようになる場合だ。受験の場合は言うまでもなく偏差値がその機能を果たしている。

偏差値を上げるための努力の仕方を与えられることで、その神話はほぼその通りになる。そして、一部の人間はパルテノン神殿のごとき最上位に位置する中学校、高校の偏差値に至ることもできる。

そこから、努力したものは罠にはまり始める。

最上位の学校の入試では、偏差値が一応出てはいるが、偏差値の規準となる模試のような問題は出ない。それらの問題を解くにはまさにまったく別の次元の知識、方法が必要なのだ。それはそれで努力より難しいものでもない。

しかし、努力を信じる人間は、それ以外に対して盲目になってしまう。どこかで気づいて、最上位向けの方法に切り替えたらまだ戦えたかもしれない。まあ普通は気づくわけがない。周りとのコミュニケーションも既に絶っていたりする。気づいたとしても、切り替えた際にどうしても偏差値の低下が起こる。それを許せない。なぜなら、偏差値は努力そのものだからだ。

努力者は努力をそのまま続け、偏差値はさらに上がっていく。

そして、最後の瞬間が来る。

必死に努力した偏差値77の人間が崩れ落ちていき、69のたいして努力しない人間が受かっていく。もし志望校に受からなかった場合、偏差値がどうであれ努力をしなかったものとみなされる。努力を失ったら、立ち直れない。神話とはそういうものだ。

まあ本当に努力で結果を出せる人間は、「何を努力すべきか」を知る努力をしていたり、そういうのが分かるセンスがあったりする。それが受験じゃないとしたらそんときゃそんときだ。努力に意味がないとは思わない。だって何かしてるんだから何か起こるでしょ。ただ、自分がなにやってるかくらいは把握しておけよという話。

ともあれ受験戦争って残酷だよねー。努力で持ち上げるだけ持ち上げておいて、最後に一気に突き落とす。