場の形成や友達をライトノベルから読み解くことについて

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 12巻 伏見つかさ著  あなたは恋人と友達とどっちを選ぶのか?という問いの答えを探して

 

この記事が「俺妹最終巻」に関する記事の中でも別格に面白い。場やコミュニティの形成や、友達関係については、現在大きく変わりつつある重要な話題だと思う。俺も何かを書いてみたくなった。これに乗っかって俺の現在の話をして、そして小説に戻る。ラノベの話と現実の話と俺の話を分けていないので、クソのような構成になっている。あと俺妹最終巻とはがない8巻のネタバレです。

 

まあヒロイン達がどういう結末を迎えるかということも中心の焦点だったのだが(アニメをやっていた当初リアルでメガネのまなみさんという方を好きになっていてな、これが面倒見が良かったんだ…)、同時に、曖昧に作られてきた居心地の良いコミュニティ、そしてダラダラできる日常がどうなるのかという点に、どういう落とし所がつくかもこの作品の最終巻の焦点の一つだったと思う。俺の関心で書くので、恋愛に関することはほぼ全部すっ飛ばす。

 

この記事を多少うがってまとめると(非常にアツい記事ですが、アツい部分はあまりまとめていません。是非読んでください)、

■俺妹はハーレムラブコメであると同時に、自分にとって趣味などを安心して語れる良い場を形成し、その中で日常あるいは非日常をちゃんと続けていくという作品だった

■俺妹は、桐乃が京介などと共に外との関係性を作って友達を作る作品だった

ということになる。この2つはリンクしていて、人と人がコーディネートされ、その結果コミュニティが出来て友達になる。実際、俺妹で面白い部分の中には、「この人との関係はどうなるんだろう?」ということと同時に、「このコミュニティ全体がどうなってしまうんだろう」ということへのドキドキもあったと思う。

 

場作りというリアリティ

 

その上で、Gaius_Petronius氏は場の形成の問題に深入りする。場の形成には、アンカー役となる、自意識をコントロールして、場を形成するスキルと意識を持つ人が重要だと示唆している。そういう人間になるには、「過去に自分の所属していたコミュニティーが消滅してしまい、自分がその支配者・形成者でなかったためになすすべもなく何もできなかった、という強い後悔を動機として抱えている」ということが関わっているのではと、自身の経験を引いて語っている。

 

俺はそれを読んで自分の過去の経験を思い浮かべた。前にタダ働きについて語ったこともあったように、俺は少なくとも皆で何かやろう、というくらいに成長したいろいろなコミュニティに所属したり、割と中心的に関わったりしていた。最近だとギークハウスがそうだったかもしれない(ギークハウス野方も始めて1週年、どうしようかね)。

 

どちらかと言うと、イベントとかも主催してそこそこ好評になったりすることもあるが、俺はコミュニティで敗戦処理やら汚れ仕事やらをよくやっていた。困った人がいたら少なくとも話を聞いた。コミュニティでは困ったを超えたら他の人にも影響するので、険悪になる。そういうときは仲裁もした。それを超えたら善後策も考えたりして、とにかく俺がいる面白くて居心地の良い環境を維持しようとした。できたこともできなかったこともあった。できなかったら、「できません」と言う役が既にだれもいなかったりする。そういうときは最早誰のためでもなく俺がやったりする。

 

その上で、人をつなぎとめるための役割と、それをやるために自意識を捨てる必要があることは認識していた。コミュニティができていると、意外に人は人を大切にしない。そこで人を大切にしながら、その人にも他の人を大切にしてもらう。それができればいろいろうまくいく。楽観的かもしれないが、こういうのは割りと正攻法だと思う。その意味で、「俺妹」にはご都合主義でないリアリティがあったように思う。俺妹は人生。

 

さて、ともかく、俺妹の世界には居心地の良いコミュニティが作られた。一見して、また実際にある程度ハーレムなコミュニティ(言っとくけど、女性が集まればハーレムになるわけじゃないぞ!)。しかし、そもそもハーレムなんてやる必要があるのか?ってのが重要な点。そこで恋愛とかして不安定になるより、みんな友達で良いじゃないか。ということが物語の最終段の前までは言えて、完結する段では言えなかった、というのが、俺妹の最終巻だった。でまあ強引だったと思いますよ。

 

私見では、最終巻が終わったあともその強引さを押し切って日常が続くと思っている。ぶっちゃけ、中学生と高校生は割りと仲良くできるが、大学生と高校生ってどうなんだろう、というリアルな視点もあるし、その意味では何人かとの関係は、無理して切らなくても終わってしまう。そこで人をつなげるのはオタクコミュニティで、それはまあうまくいってるのがエピローグで描かれている。でまあ、麻奈実とは事情説明と土下座一回くらいで、うまくやるんじゃないの、というのが印象(割りとバイアス入ってるが)。

 

友達ってなんだろう

 

閑話休題、もう一つの重要なテーマに移る。友達って実際何なんだろうねー。同じコミュニティにいる==友達というわけではない。その点で、俺妹で「桐乃と〜〜が友達になりました」と言えるかというと、人によって分かれるんじゃないか。Gaius_Petronius氏は、「『ぼっち意識』からの解放」と、「サステナビリティ」を実質的に友達の定義にしている。また、その上で別の軸として「友達ってのは、競争相手ではなく、、、、たぶん相手のドラマトゥルギーを尊重することってことなんだろうと思います。」とも述べている。つまりまあまとめると、ずっと共にいて、相手を大事にし合える間柄とでも言えるか。その意味で、恋愛や家族も変わらない。まさにそのとおり、人間関係の核心だと思う。

 

そこでもう一度差し戻す。「それで友達でいいんですか?」何かそこに微妙さというか、割り切れなさを感じる。俺についてはネットでずっと親しく関わってる人も「知り合い」と呼ぶこともあるし、逆に飲み屋でいつもいてほとんど会話を交わしたことのない人で、1回だけ面白いことを話して、通じ合った人を「友達」と呼んだりする。俺の友達の定義は凄くぶれているが、正直それを決定する軸はわからない。当然今まであった全員を「友達」とは呼ばない。その曖昧さが、ある意味で豊かな人との関係性を作っているとも言える。

 

そこで「ずっと共にいて、相手を大事にし合える間柄」を明確に言明する方法がある。告白をして、付き合うことだ。だから恋愛は強い。俺妹が最後めちゃくちゃになったのもそれが理由だろう。俺はクソだから、好きだった人が他の誰かと付き合った時に、どう接したらいいかわからなくなる(はぁ…今もそうなんだよな…)。そして全力で逃げたらトントン拍子で人生の目標につながるようなことが進み始めたりする。なんじゃこりゃ。このことでは人生の大先輩に相談的なことをしてしまったのだが、まさに「ずっと共にいて、相手を大事にし合える間柄」が重要だということを言われて納得したところだった。

 

まあそれはおいておいて、この問題に真正面からぶつかっているラノベが「僕は友達が少ない」だ。あれも誰と誰が友達だろ、と言えるところと言えないところがあったりする。隣人部の皆は、何か普段友達を作るのに欠けている部分がある。それを隣人部で満たしているかというと、微妙だったりする。そこがまさに焦点になった。こんな曖昧な、そして地味なことがクライマックスに至る一大コンセプトになるなんて!

 

と思いながら「僕は友達が少ない」の8巻を読み返していた。俺が思い悩んでいたようなことが書かれていた。なにか論じようと思ったが、俺はまだこのようなことについて語れるほど経験がない。こんな記事を書きながら結論を出そうとしていた俺が間違いだった。8巻の最後では、「我慢せずありのままの自分で居られる場所」で「我慢する」ことについての戦いが起こっている。そして、「俺と友達になってくれ」ということを「告白」としていた。まさに、ここまでの議論の重要な点だ。その後の展開については、一つの救いである。

 

相手を認め合って大事にする、こんな簡単なことができない、そこに友達というものの難しさがある。だから俺はこれ以上は何も言えない。「僕は友達が少ない」については、俺妹とは少なくとも場を作るとは、友だちとはというテーマについては、違う結論が出るだろうし出して欲しいと思う。