停滞こそが前に進むことなのかもしれない

社会人博士課程を始めて3年余になるが,進んでいるかどうかよくわからなくなってきた。人文の研究では多くの知識と緻密な読解と論理が必要になるが,ここにきて根本的に浅かったことに気づく。論文を150本,次いで200本と読んでいくたびに自分の立ち位置が大きく変わっていく。今までにない研究は,多くの分野にまたがった視点で見ないと立ち位置を精確に見ることができない。そして一旦立ち位置が変わったら気づくのだ。今まで見てきたものは単にウィンドウショッピングに過ぎなかったのだと。能力のある人間なら早い段階で「見える」のだろう。

私は根本的に能力が足りない。私の生活スタイルはニートと類似している。起きるのはこの時間(12-14時)で,寝るのは4時前後,生来自己肯定感を得ることがなかったので現実世界にいるのが辛く,それを補うためにインターネットを行い,残りの時間を仕事や研究にぶち込む。

自己肯定感の低さや発達障害特有のコミュニケーション負荷はメンタルの総量に直結し,すぐにやられて蟄居の状態になる。その間はPCをACアダプタにつなぐことすらできず,さっきようやくつないだPCのバッテリー残量は38%である。これはさすがに相対的にひどい状態だが,数日かけて緩和される。こんな状態で仕事や研究が進んでいる方がむしろおかしい。なんかのスイッチが入るとできるようになり,それは進捗を出すのに十分な頻度なのだが,それが入るのはランダムである。

まあ正直,同じような気質で心が折れてニート生活保護になった友人は多い。むしろ私は彼らより日常を生きる能力自体は低いので,もっと早く心が折れていてもおかしくはない。何らかの点で私は狂っていて,それゆえにいろいろやっているという側面は否めない。

そんな中,過去一緒にバイトをしており,いつからか生活保護を受けていた友人のツイッターを発見した。主にVTuberをフォローしており,人間と関わりたくないのではと思う。実際にどうだかはしらないが。

それを見て幸せそうだな,と思う側面もあった。というか,なぜ私はこの道を選ばなかったのだろうか。能力はない。現実は厳しい。降りても良いはずだ。研究なんてやめて,仕事は最低限にしたほうがインターネットにより長くいることができる。それでいいんじゃないか。

研究をやる理由はいくつかあるが,1つ取り上げると主にインターネットで独立した生産活動が行われつつあるのに,それがうまく流行らず,現実の社会システム,最終的に飯を食っていくこととつながっていないという問題がある。LinuxGitHubで配布されたOSSがどれだけの富を現実世界にもたらしたか,そしてそれをどれだけ誰も考えていないかを考えれば良い。そのためには,インターネットで共同作業を行うとはどういうことかを知る必要がある。それが確立されれば,私はもはや現実世界と関わることはないであろう。現状では現実の人間は現実の枠組みでしかものを考えない。それはとてもつまらない。

まあやる理由はいくらでも挙げられる。やってはいけない,やらない理由はない。しかし,やらなければいけない理由はない。そんな中でやっている。だとしたら,研究なんて人に任せてしまえばいいのではないか。今の指導教授は凄いが,凄いね〜と傍から眺めているだけで良かったのではないか。論文なんて途中でだるくて読むのをやめれば良い。

博士課程に入った強い理由として,祖母が亡くなったことで天涯孤独になり(両親と他の祖父母はいない。父は生きているかもしれない),心が空白になったことが挙げられる。それはある意味で自由になったことでもある。なのでしばらく世俗から離れてみようということがあった。博士課程での厳しい訓練はそれを大いに可能にした。しかし,恐らくそれはもう必要ない。気がついたら時間が解決していた。

もういいのではないか。できれば生活保護でも受けて,楽に生きたほうが人生という面では進歩になるのではないか。社会は私を評価しない。私も社会を評価しない。無として終わるというのもありなのではないか。

逆の視点から見たら,私はあまり良い人間ではない。自分も一時期そうだったから感じるのだが,何もしていない人間から活躍している人間を見ると激しい拒絶感に襲われる。しかし,私がやっていることも,彼らが逃げ出したくなるのと同じような理由で,辛いことではある。

「降りる」決断をしていないだけかもしれない。そんな中で仕事や研究の次の段階がやってくる。

私の大学編入学について

あれの話をしますか。編入学をしたことがあります。

haikara-city.com

 まずとりあえず何か言わないといけなさそうなので,編入学が「裏口入学」かどうかについて。一言で言えば,んなことを気にしている人は了見が狭いのではないか。大学が誰を受け入れるかというのは大学が決めることなので,受かった方法についてどう感じるかは個人の問題である。その中で「苦労して皆と同じ勉強をし,一般入試に受かった」ということの特権性をどこに感じるのか,何年経ってもわからない。

 いや,わかっていた時期はあった。高校入試までは,当時存在していた代ゼミの模試で偏差値72くらいあったので,そこそこ頑張っていたと思う。その中で,推薦で受かった連中をずるいと思うことはあった。「偏差値の高い学校に行く」ということは絶対的な尺度だった。学校独自の特色はたかだか二桁程度の数値に圧縮され,どれも同じに見える。そして,その数値が本質に見えるのだ。数値は簡単な指標を与える。つまり,高ければいい。

 高校の一般入試の結果が出始めた頃,俺が筑波大附属に落ち「俺の人生こんなものか」と思って登校したところ,隣の女子が「慶女受かった〜〜〜〜〜!!!!!」と全力で喜んでいるのを目にした瞬間に,自分の絶望的な知性と才能の無さにうんざりし,卒業まで実際に狂っていた。その時,俺は数値でしか自分を見ることができなかった。それとは関係なく,俺には絶望的に知性と才能がないと思う。

私が編入学に至ったきっかけ

 さて,本題に入りますか。大学3年のとき,編入学をしたことがある。その関係で2回3年をやっている。しかし,いろいろあって大勢を占める「高専からの理工系大学への編入学」とは異なる。違いをまとめると

  • 同大学(電通大,情報通信工学科昼間から人間コミュニケーション学科夜間)への編入学
  • 情報通信工学ではなく,社会学をやりたくなった

 工学系だったのだが,2005年後半からいろいろな界隈に顔を出しており,本も読んでおり,社会学を学ぶことを検討していた。現スマートニュースの鈴木健氏もその中に含まれていたと思う。主に知識と社会的行為への原理的な関心と,情報化社会論への関心である。その過程でいろいろな大学について調べていた。1年,2年はもうやりたくなかったので,編入学である。

 とはいっても,本当に編入学するかというと躊躇する部分はあった。社会学は趣味で良いのではないか,今の大学をとりあえず出てからの方がいいのではないか,とまあ行かない理由はいくらでも思いつく。しかし,一つきっかけがあれば決断は一瞬で進む。

 きっかけは実験である。工学の実験は恐ろしい。留年の主要な関門の1つである。特に厳しい講義や演習をくぐり抜けて精神がナーバスになった人間は,実験のレポート期限を守ることができず,さらには書くことができず,留年していく。そして次の年,精神が万全でない状態で,さらに留年という新たなカルマを背負って実験に挑んで,破れていく。そういったループに陥った人間を,私は何度も見てきた。

 ちなみに,本学では大学3年で「高専から編入学した人々」が合流する。そこで驚くのが,彼らの実験・レポート作成能力である。苦労する高校から入学した大学生を尻目に,「こんなものか」と実験やレポートをそつなくこなしていく。そんなサラブレッドが高専生だった。彼らは楽して編入学するのではない。その実力ゆえに編入学するのだ。

 私に関しては,情報通信工学科という海外で言うEECS,電子工学とコンピュータ科学の両方をやる学科に所属していたのだが,電子工学の方には完全にやる気をなくしていた。携帯電話オタクではあったんだが,その仕組みではなく「携帯電話で何ができるか」の方に関心があった。それは数年後スマートフォンという形で大変革を迎えることになる。そんなこんなで電子工学の実験はまるでできず,それに前年母親が亡くなったことによる鬱症状も加わってまるでレポートを書けなくなってしまった。

 2006年6月2日に「万事休す」となった。通学に間に合わなくなる12時が過ぎるのを秒針を見ながら確認し,「リスカ」をした。2006年にはいろいろあったのだが,この6月2日を暫定的に「人生破滅」の日とし,2016年に10週年を新宿「養老乃瀧」で行った。あの養老乃瀧は,10年以上渋い話をするのによく使っている。

 一回万事休すになったのだからある意味でその後は自由である。次の年実験で単位を取れるかと言うと取れないと思う。だとしたら進路を変えるしかない。次の日には編入学を決めた。

私の編入学

 編入学をすると決めたものの,現況を考えると選択肢はほとんど存在しなかった。まず鬱病でそもそも勉強ができない。手持ちの知識でどうにか受験するしかない。次に,単位認定の問題である。編入学にあたっては前の所属の単位が認定されるが,完全な文転だと理系の単位はほぼ認定されない。さらに,今入学できたとして,次の年に鬱病は治っているのか。そうでないとしたら学業は続けられるのか。

 以上を満たす大学の学部学科は1つしかなかった。まず,同じ電通大なら1-2年の基礎科目,つまり編入学試験に出る科目はだいたい同じである。次に,同じ大学なので全く同じ科目が存在する。単位認定の問題もOKである。最後に,電通大には夜学があり,夜学なら鬱病でも通える。

 そして,電通大には正統な社会学部・社会学科ではないが,社会学やメディアについてある程度学ぶことができる文理融合型の学科,悪くいえば寄せ集めの「人間コミュニケーション学科」が存在した。その頃,私が卒論指導を頂いた先生の院ゼミに参加させていただいていたのだが,そのときに読んでいたのがバーガー・ルックマン「現実の社会的構成」と「ハーバーマスルーマン論争」だった。前者については先日読み返した。十分なレベルだろう。

 ということで電気通信大学電気通信学部夜間主人間コミュニケーション学科に決定した。さて,受ける学科は決定したものの,即座に2つの巨大な問題が襲いかかってきた。まず,受験は7月中旬である。1ヶ月半しかない。さすがに短すぎる。次が受験倍率である。いや,あれは倍率などというものではない。学科ができた99年以来,人間コミュニケーション学科の夜間に編入学できた人間は,私以外には1人しかいない。そもそも,他の学科も夜間は基本的に受からない。昼はたくさん受かる。参考までに私が受けた年の結果を以下に掲載する。

f:id:kybernetes:20160920200353p:plain

 これは夜間の学力試験(推薦じゃないやつ)の結果である。この結果を掲載したことで話の流れが滅茶苦茶になってしまったのだが,結論から言えば,私はこの年,夜間の学力試験でただ1人合格した。夜間には推薦でもう1人別の学科に受かっていた気がする。雨の日の合格発表で,私だけのために巨大な模造紙が掲示された。

 ちなみに,昼の方は全学科合計で53人(推薦36人,学力17人)合格した。学力試験の方の倍率は1.7倍だったようだ。そこまで高くはないが,「裏口入学」などといったものではない。入試システムはまったくもって機能しているといえる。

 話は前後するが,1ヶ月半何をやっていたかというと,毎日夕方に起きて己の不遇を嘆き,それを忘れるようにウイスキーを飲み屋に飲みに行き,帰って寝ていた。それだけである。細かくいえば「サブカル」界隈などでいろいろあったのだが,忘れよう。少し勉強した気はする。実際のところ,同じ大学の同じ基礎科目は,少し勉強すれば思い出す。さきほど「巨大な問題」と書いたが,そんなもん実際はどうしようもないのだ。結果が全てを肯定する。

俺にチャンスをくれたっていいじゃないか

 ということで,私は編入学制度を,高専生のようなまっとうな用途に使わなかった。申し訳ないと言っても良い。しかし,開き直りたい部分もある。結果的に,私は社会学を大手を振って行うことができ,それは博士課程にいる現在に続いている。実際に,文系の学生で途中で関心を移し,編入学制度を利用する学生はそれなりにいる。進路に修正が効くことは,学問への関心のある人間には強い武器となる。それは世界共通である。いわゆる大学院での学歴ロンダ問題についても,「学問に関心があって他の大学に行く人間なんてごく一部じゃないか」との主張を聞く。その「ごく一部」は少ないかもしれないが,学術コミュニティを支える一員となる。そういった人間にチャンスをくれても良いんじゃないかと思う。

 ここから先は私個人の話になるが,私自身は上述のような純粋に学問に燃える若者として編入学をしたわけではない。人生に行き詰まって,その時学問をやりたかった。それだけである。持ち直すこともあろうが,そうでないかもしれない。今も「持ち直して」いるかどうかはわからない。あの時うまくいっていて編入学をしていなかったらどうだっただろうか。その可能性は少なくとも消えた。それゆえ,私がドロップアウト組の1人であることには変わりはない。だが,しかし,

 夢が終わっても人生は続くのだ。

 生き延びた人生の先で、より美しい花を見つけることは確かにある。

(つづく)

「あの時負けていれば」――人生を賭けた一局、夢が終わった後に続くもの - ねとらぼ

 

 

世の中の可変性について

要約:人は誰でも,世の中のここが変えられてここが変えられないということを,頭の中に持っている。可変性の軸を導入したらいろいろわかりやすくなるのではないか。

本文

 例えば働き方を柔軟にするとか,オープンコラボレーション的な方法でインターネットを創造的にするとか,発達障害独自のコミュニケーション様式を作ったら良いのではないかとか,いろいろな「世の中を良くする方法」は思いつくのだが,どうも空転してしまう。「やっていきましょう!」と言う人も「そんなこと机上の空論だろ」と言う人もいるのだが,どちらも大した根拠がないし,私もそんなもんは持っていない。だからといって,「とにかくいろいろ試してみる」というやり方は好きではない。

 ということで,視点を変えて今実際に世の中を変えようとしている人の方を見てみる。例えば与野党の対立は2回の政権交代を経てわかりやすい形で激化しており,発達障害者の身の処し方についても議論しようとすれば,適応する方向と世の中側が認めていく方向に分かれると思う。オープンの思想は世に問われ続けており,そのエコシステムに依存している末裔であるWebなどの開発者は,新しい働き方や物事のやり方について変えることに比較的抵抗がないように思える。

 そういっていろいろ見ていくと,雑駁な意味での保守・革新というか,「世の中のここは変えられるけど,ここは変えられない」という考え方が,隠れた対立点になっているのではないかと思う。議論の前提と言っても良い。これをとりあえず「世の中の可変性」と呼ぼう。世の中の可変性に対する考え方が異なると,「どうすべきか」という方向性や「こうやっている」という行動が異なってくる。例えば

  • 裁量労働制に関する議論を見る限り,推進者は「労働時間を自由にしたほうが良い」という極端な性善説を持ち寄ろうとし,反対者は「定時に出社して定時に帰る,それが労働者を護る方法だ」という,人によっては非常に負担を強いる考え方を変えることはなかった。彼らは,そもそもの定時出社のあり方について考えようとすらしなかった。
  • 「Webは世の中にゴミのような情報を増やし,その結果人々は見たいものしか見なくなり極端な考え方をするようになった」「Webにおいてはその場その場の盛り上がりが原動力になるので,物事が蓄積されず非生産的である」といった考え方は,今やWebの本質とも捉えられている。しかし,既存の事例以外にも人々が協働する方法はいくらでもあり,例えばオープンソース活動やWikipediaなどの一定の成功を,より多くの人々や課題に対して開いていくという考え方もできる。
  • 発達障害に関して,当事者間での認識は異なるように見える。頭の良い人は個性だから自由にやっていけば良いみたいになるが,彼らは恵まれているからそういうことが言える。一方,「治療」は多くの人に指針を与え,社会とのコネクションを調整するきっかけになるが,往々にしてうまくいかず,最悪死に至る。いずれの立場にせよ,「発達障害に適したように職場や世の中の方を変えていく」ことができるかどうか,できるとしたらそれはどのレベルでどの程度かについては議論があると思う。

 なんか揉める議題を複数持ってきてしまったので,お前はどっちの立場だみたいに言われると非常に困る。というか「お前はどっちの立場だ」から始めることが揉める原因になっていると思う。というのも立場の前提となる,世の中の可変性への認識が異なるため。定時に働くという近代以降の働き方ははたして不変のものなのか。はたしてインターネットではどういうやり方をとっても情報が滅茶苦茶になって刹那的になってしまうのか。はたして人は,というか日本人の社会は発達障害に対して寛容になれないのか。そういった問いには課題が山ほどある。

 世の中を変えるか変えないかの議論をする前に,可変性を考えることは一見して非生産的に見えるようで,議論のベースとして重要であるように思う。しかし,「どうするか」のレベルの議論にはどこかで決着がつきやすいが,「どういうことが可変で,どういうことが不変だと考えているのか」について人々が合意することは難しい。そういった話になると水掛け論になるのではないかと考える方もいるだろうが,水掛け論になるとしたら,どうすべきかの議論も不健全である。

 こういった議論は,「メタ議論」みたいに扱われることが多く,議論の本線に対して斜に構えているといった変な嫌われ方をすることが多い。というか本線が不毛すぎてしらけているので斜に構えているのは事実なのだが,「メタ議論」というカテゴリがあったとしてもそれは議論なので,世の中の課題をどうにかするのに必要ならすべきであると思う。

 ここまで考えたが結論はない。WIPである。

専門業務型裁量労働制について

news.yahoo.co.jp

 実態として働かせ放題の温床になっているということには同意するが,記事にどうもミスリードがある。リモートワークについていろいろ調べた関係から「専門業務型裁量労働制」についてはいくつか文書を見てきたのだが,「働かせ放題」の原因はこの記事に書かれていることではないように思う。

 私は法の専門家ではない。法律的用語は全て怪しい可能性がある。それでもこの記事を書いたのは,上記記事のような偏った記事を弁護士が書いて,それが情報として流通することが良くないと考えたからだ。本来は弁護士が,具体的な裁判の事例に即して書くべき内容である。

 上記記事においては

  1. 使用者から「これをやれ」と命令がなされる
  2. 労働者はそれを遂行する
  3. 労働者は仕事の結果を使用者へ渡す

と労働を類型化した上で,「裁量」が2にしかないとする。つまり,

これは、要するに、業務量については労働者には裁量がないということを意味します。

と言い切っている。これは,事実上労働時間について裁量がないということを意味しており,それゆえに「働かせ放題」の根拠になっているとする。

 しかし,根拠となっている労働基準法第三十八条の三を見ると,どうもそうではないということがわかる。また,これに沿った厚労省ガイドラインがある。これは労基則24条の2の2第2項と,平成9年労働省告示7号に基づく。

専門業務型裁量労働制

 東京労働局によるわかりやすいパンフもある。

http://tokyo-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/library/tokyo-roudoukyoku/roudou/jikan/pamphlet/4special2.pdf

ここに,制度を適用するには,労使協定を締結して労働基準監督署に提出する必要があると書かれている。裁量労働の人で,エッ知らないんだけど…となった場合は,入社時に知らず知らずのうちにハンコを押しているか,会社が違法なことをしている可能性が高い。

 で,その労使協定の内実であるが,

(1) 制度の対象とする業務
(2) 対象となる業務遂行の手段や方法、時間配分等に関し労働者に具体的な指示をしないこと
(3) 労働時間としてみなす時間
(4) 対象となる労働者の労働時間の状況に応じて実施する健康・福祉を確保するための措置の具体的内容
(5) 対象となる労働者からの苦情の処理のため実施する措置の具体的内容
(6) 協定の有効期間(※3年以内とすることが望ましい。)
(7) (4)及び(5)に関し労働者ごとに講じた措置の記録を協定の有効期間及びその期間満了後3年間保存すること

 とある。まず,(2)であるが,これがあるので,時間には強い裁量が与えられる。例えば朝8時半など,出社時間を強制的に指定することすら違反である可能性がある。就業規則に8時半から19時までと書かれていても,専門業務型裁量労働制の元に働く限り,裁量のほうが優先される。

 次に,(4)(5)である。つまり,会社は「働かせすぎ(健康・福祉が確保されていない)」を具体的にどうにかする必要があり,労働者は働かせすぎの問題にクレーム(苦情)を入れる権利があり,会社はそれに応じる(具体的な措置を実施する)必要がある。その具体的措置は(7)により定期的に記録しなければならず,適切でなかった場合はそれが明るみに出る。これは「裁量」のもとにうまく働かせろという,労働者が会社に突きつけ,会社が受け取った条件である。

 そんなこと聞いたことないと思ったとしたら,そういった仕組みを労働者に適切に知らせていないか,あったとしてもアクセスできないか,書面上にしか存在していない可能性が高い。全部違反である。労働基準監督署に通報したら,会社にとってまずいことになる。

 ということで,上記記事の「業務量については労働者には裁量がない」というのは,間違っていると考える。このため,

 (-"-)「仕事が多くて終わらないッス」

( ゜Д゜)「仕事の進め方は自由でいいぞ」

(-"-)「いや、仕事が多すぎるんです。終わらないんです」

( ゜Д゜)「でも、仕事の進め方は自由だぞ。」

(-"-)「・・・・(怒)」

裁量労働制とはこういう制度(佐々木亮) - 個人 - Yahoo!ニュース

といった,上記記事に掲載されている例は,全て会社にクレームを入れ,しかるべき対応を要求することができるはずである。そうでないなら法的にアウトである。OKではない。

 では,何が問題か。私は,会社にクレームを入れる仕組みと,それをうまく動かすために会社を監督する仕組みがうまく動いていないからだと考える。少なくとも書面上は,そういった対応策が存在するはずだ。しかし,力関係で潰されてしまう。これは違法である。

 もっといえば,「働かせ放題」という言葉で,誰かが責任逃れをしているのではないかとすら考えられる。「働かせ放題」が法的にOKだと労働者に認識されているとしたら,労働基準監督署も弁護士も会社も厄介な紛争を避けられる(もっとも,それがOKになるような法改正になるとしたら,全力で抵抗する必要がある)。また,クレームを入れられる協定について注目されていないのは,例えば労働組合がうまく機能していないのではと考えられる。

 そして,労働者がどうするかということに関しては,上記のような,労使協定に明らかに反するような実態があるような会社,上司が圧力をかけることがまかり通り,クレームを入れる制度が明らかに動いていなかったり,それをチェックする体制がなかったりする場合は,専門業務型裁量労働制で絶対に働くべきではない。通常の働き方にするほうが自分を守ることができる。

 いま専門業務型裁量労働制で働いていて,実態がそれに即しておらず,退職にも踏み切れない人については,専門業務型裁量労働制そのものから足を洗う勇気が必要なんじゃないかと思う。ガイドラインにあるように,また「専門業務型裁量労働制」という名前にあるように,これは専門的な19職種に限られた働き方である。つまり,気に食わなければ辞めて他の会社に移れる人のための制度である。この前提は,「企画業務型」であっても変わらず,法が改正されて対象業務が広がるとしたら暗黙の前提となるだろう。意図せずしてそういった働き方を望まない人がこの立場に置かれてしまったとしたら,不幸であると言うしかない。しかし,それを是正するには辞めるしかないのだ。

 最後に,この制度はちゃんと運用されている限り,つまり無茶な労働について「だめ」と会社に言える限り,良い制度になりうる。実態はたしかに最悪に近い。しかし,それを理由に本来の意義やうまく回す仕組みを考えなかったら,頭の回る悪い会社の思うツボである。少なくとも私には,裁量は必要だ。何しろ勤務時間を守れぬので。そして,その上でちゃんと働くために納期はちゃんと守っているので。

 

追記

 この記事はそこそこ注目されているようなので,エクスキューズをいくつか。気に食わないと思った方もおられるかと思いますが,反論の前に読んでくださると幸いです。

 まず,この議論の詳細の怪しい部分は専門家に確認してください。

 次に,こんなの理想論だろ,現実に実現できるはずがないという話について。これは政治の領域になるので,民主主義を動かしてください。罰金を課すという案もありますが,本当に悪い企業は罰金を払ってでも悪用する気がします。電通あたりを見ると,営業停止が効く気がします。

 最後に,御託はいい,裁量労働そのものがとにかく悪だという話について。働きたくないと思ったことはありませんか?毎日決まった労働時間で働くことそのものに疑問を感じたことはありませんか?そういった疑問を一つでも感じたことのある人なら,「普通の」労働が最善ではなく,色々ありうることがわかるはずです。裁量労働の他になにか良い案もあるはずです。

 例えば私については障害があるので,今自分の会社でうまく回っているリモートワーク,裁量労働がなくなって,出勤と退勤の場所と時間が決まった瞬間に働けなくなります。だから,裁量労働の良い部分については擁護します。

 それはお前やその周りが特殊な環境で働いてるからだろと言われたら,それはそうかもしれません。また,あなたの環境を良くするのは非常に難しいかもしれません。なので,裁量労働の悪い部分については一切擁護しません。

 このような事情なので,議論をうまくやるためには分析や整理が必要だと考えます。その一側面がこの記事です。

 しかしいずれにせよ,そういった本質的で複雑な議論の主導権を,悪用しそうな企業に握らせてしまうことは,さしあたってよくないのではないでしょうか。

リモートワークと感情に依存した働き方について

気がついたら「リモートワーク」と名の付いた記事が3本目になってしまった。

まとめ

  • 普段感情を出すなって言われてるのに,相手の感情を読み取ることが仕事に必要だという状況がおかしいので,感情を表に出せる環境のほうがいい
  • 対面でのコミュニケーションでは,無駄に感情が必要になる。いろいろな方法を使って相手の感情を読み取ったりする場面を減らした方がいい。その方が安心して感情を出せる
  • リモートで感情がわかりすぎても困る。プライベートは大事にした方がいい

speakerdeck.com

 何日か前に id:daiksy さんのこのスライドを見てから調子が悪く,何かモニョっとした感情が頭の中を渦巻いている。

 というのも,このスライドで言われているリモートワークの難しさは,人が組織でやっていっていることがどれだけ感情という基盤に乗っているかということを浮き彫りにしているからだ。

 スライドの方を見てくださればわかるのだが,リモートワークにおいては,言葉によらないノンバーバルな情報や,感情,心理的な面などが伝わらないということが,本当の難しさだと主張されている。このような主張は多くなされており,弊社でも当然このような問題は起こっている。

私はここでいくつかの疑問をいだいた。

  • そもそも,現場/リモート問わず,仕事を進めるのになぜノンバーバルな情報や感情が必要なのか?
  • 「感情を表すメタ情報」を増やすのはよくないのでは?
  • そもそもそもそも,「仕事では悪い感情を表に出さないほうが良い」ということが言われている上で,悪い感情を推し量って読み取るというのは,不効率で無理難題なのでは?

1つずつ消化していく。「まとめ」と順番が前後しているのですが,ご容赦ください。

そもそも,現場/リモート問わず,仕事を進めるのになぜノンバーバルな情報や感情が必要なのか?

 えっと,必要ないと言っているわけではない。ここで疑問なのは,本当は仕事のフローや文書などでどうにかできるはずのことを,対面的なコミュニケーションに頼ってしまうことが結構あるのではないかということである。対面のコミュニケーションでは,感情は意図がなくてもよく伝わってしまう。そして,それを使うことで円滑なコミュニケーションが可能になる側面もある。なので,感情を使わなくても良い種類の情報交換に,細かな感情のやりとりが必要になるという場面があるのではないか。

 つまり,「リモートワークのコミュニケーションで感情が伝わらない」というのは結果論で,「普段のコミュニケーションを感情に依存するスタイルでやっているから,リモートだとうまくいかない」ということではないかと考えている。要は,我々は感情に振り回される仕事の仕方をしている。そうだとしたら,感情をより伝わるようにする以前に,感情が必要ないコミュニケーション方法や情報管理の方法を導入したほうが良いと思う。そして,感情が必要な場面に感情を読み取る力を集中させたほうが良い。

「感情を表すメタ情報」を増やすのはよくないのでは?

 上記スライドの方では,感情表現をリモートワークでなんとか再現しようという方向に行っているが,正直それはうまくいかないと思う。例えば今のVRの進展を見ればわかるように,将来的には,リモートで対面と同じくらいの感情が伝わる可能性は十分にある。

 しかし,あの,こう言うと非常にあれなのだが,それは人の感情を強く感じてしまうような,つまりオフィスにいるのと同じなのではないか。そして,例えば自宅なり自分の好きな場所がオフィスになってしまうということは,プライベートな場所に仕事が強く介入してしまうことも意味する。それは恐らくあまり良くない。人間には侵されたくない場所があると思う。

そもそもそもそも,「仕事では悪い感情を表に出さないほうが良い」ということが言われている上で,悪い感情を推し量って読み取るというのは,不効率で無理難題なのでは?

 以前から気になっていたことがある。「職場では悪い感情を出さない方がいい」という主張だ。これはいわゆるポジティブシンキングやライフハックの文脈でも言われており,またチームや組織をうまく回すプラクティスとしても主張されている。要は悪い感情は場に伝わってしまい,ギスギスして良くないという考え方だ。そして,感情を一旦棚において,悪い感情のもととなっている問題を分析することを良しとする。

 私はこの主張にひどく反対している。悪いことが起こったら悪い感情が起こるのは当たり前のことだ。そして,「真剣に辛くて悪いことに直面している」ということは,単なる問題の提示だけでは伝わらない。そういうときこそ感情が必要なのではないか。これはスライドの方にも「心理的安全」として言及されている。

 要は,矛盾する2つの規範が組織で働いているのではないかと思っている。片方は感情を出さないほうが良いというもので,もう片方は感情を出せるほうが良いというものだ。これにはもちろん程度問題もあるだろう。やはりブチ切れるのは相当に特殊な状況でないと厳しい。逆に過度に感情を出せない状況で相手をネチネチと追い詰めることも起こる。

 しかし,根本的に感情はうまく扱われていないように思う。悪い感情を表に出すべきではないが,相手がどう感じているかというのは必要だ。その結果として,ノンバーバルなコミュニケーションや空気感など,言葉に現れないものが必要になる。この状況はおかしい。自分から問題を難しくしている。

 私は非常にシンプルにこう思う。感情を言葉で出せばいい。「辛い」とか「嫌な感じです」とか言えばいい。良かったときは喜べばいい。自分が手塩にかけて作ったプロダクトが「全然だめだよこれ」と言われて,名誉挽回のために1年尽力し,「凄い」しか言われないようになったということが最近あったが,もうこういうのは羽目をはずして喜ぶしかない。恐らく,普通に悪い感情を出しても,そんなに空気がガラッと変わるほど影響はないと思う。特にリモートだとそうだ。ガラッと変わるときは本当にやばいときだ。そんなときにポジティブを保つのは,感情を直接出さない場合でも,難しい。

結論

まとめを再掲すると

  • 普段感情を出すなって言われてるのに,相手の感情を読み取ることが仕事に必要だという状況がおかしいので,感情を表に出せる環境のほうがいい
  • 対面でのコミュニケーションでは,無駄に感情が必要になる。いろいろな方法を使って相手の感情を読み取ったりする場面を減らした方がいい。その方が安心して感情を出せる
  • リモートで感情がわかりすぎても困る。プライベートは大事にした方がいい

 つまり,私の主張としては,基本的に感情はスムーズに出せたほうが,わざわざ「感情を読み取る」難しい方法をとらないで済むので結果的に楽になると思う。それを可能にするために,コミュニケーションの方式を感情に振り回されない形に変えていく。最後に,仕事とプライベートのメリハリはちゃんとつける。それがリモートワークが浮き彫りにした,より良い仕事における感情の扱い方なのではないか。

補論

 荒削りな分析になってしまったので(主に寒くて体調が悪かったのが理由),いろいろフィードバックを頂いた。

 その中で特に曖昧に議論してしまったこととして,「感情を爆発させることと,感情を出すことは違うだろ」というのがある。それはそうで,感情の爆発は抑えるべきだ。あと,感情の赴くままに人を罵倒したりするオッサンみたいなのは本当に嫌だ。一方で,私の経験上普段感情をうまく表に出せないことと,最終的に感情を爆発させることは連続しているように思う。

 苦境をうまく伝えられず状況がドンドン悪くなっていく中で頑張って,その最終的にどうしようもなくなった時(その時はプロジェクトもめちゃくちゃになっている),感情の爆発が起こったりする。いわゆる「キレる」だけでなく,突然休職したり辞めるのも,ある種強い感情の爆発と似たようなものだと思う。その意味で,感情の爆発という最後の逃げ道を塞いでしまうのはどうなのかなーとは少し思う。どっちが良いのかはわからない。

 こういった問題については,やはり論旨は変わらず,普段から感情や状況への認識がうまく伝わっているなら,感情の爆発がそもそも起こらないように,事前に防げることが多いと思う。

 あと,「プラス感情の長所や雑談の良さ」については,見て明らかな感じではないが,重要な役割を果たしていると思う。

 まあともかく,仕事と感情の関係というのは,もっと議論されると良いんかなーという印象がある。盲点や経験則になりがちなので。

コミュニケーション負荷の少ないチームにするという方向性

anond.hatelabo.jp

www.nurs.or.jp

に一応反論というか,別の方向性を提案しておく。

 基本的に,人は悪いことが起こることや,悪い感情を持つことから逃れることはできない。これは宗教から心理学まで様々なアプローチに見るように,数千年経っても解決されていない。例えば,怒りを持った場合「怒りの原因を突き止め,別の方向に感情を逃がす」という方法は,何度も再発明されてきた。その点で「口の悪い人間」は一部しかいないが,全く「悪い人間」でない人間というのはいないと思う。

 なので,「口の悪い人間」というのはあくまでコミュニケーションにおいて表に出す方法の問題で,そもそもコミュニケーションに気を使うか,どこまで気を使うかという問題から,どう気を使うかまで含まれる。これは文化に依存するが,概ね嫌われるパターンと言うのはあると思う。逆に,悪さなどを表に出す人間でもそれがうまければ問題にならないと思う。例が出てこないのでそういった人は少ないと思うのだが。その点で,「口の悪い人間」問題がおごちゃん様の仰るように主観に依るというのは同意できる。

 ということを踏まえた上で,なぜ「口の悪い人間」が問題になるのかを考えたい。私は,これはそもそもコミュニケーションの量が増えたからだと考えている。例えばソフトウェア開発にしても,対処すべき問題がどんどん複雑になっている。このため,個々人で完結できることは減っており,報告や交渉,調整を必要とする事柄は放っておくと無秩序に増える。その中で,「口の悪い人間」は問題となる。

 その中で,コミュニケーションに意図的に制限を加え,組織として統制を取る官僚的なシステムは,うまく対応できていない。そのために考案されたのが「チーム」である。少人数で密接なコミュニケーションを取ることにより,個々の能力を最大化し大きな問題に対処していく。アジャイルを始めとしていろいろな方法があるが,基本的な部分は共通している。官僚的な組織でも,チームの要素を取り入れたり,自発的に起こるチームの重要性が指摘されている。

 チームでは,コミュニケーションが増える。それどころか,チームワークをうまくいかせるパターンとして「コミュニケーションを密接にとること」が規範とすらなっている。しかしここで考えたい。これは本当に正しいのだろうか。本当にコミュニケーションが必要な局面はどれだけあるのだろうか。口頭で即座に答えなければならない事柄はどれだけあるのだろうか。

 私は,チームワークにおいてコミュニケーションは確かに重要だが,それゆえ統制されず「結果的に」増えてしまった側面もあり,それは見過ごされていると考えている。例えば,ナレッジベースやWikiなどのシステムを効果的に活用しているチームでは,そちらの方で非同期的にコミュニケーションを行える。口頭でのコミュニケーションではなく文章として問題点を書いていく場合,そこに「口の悪さ」はあまり現れない。「こういった状況でこういった問題があってこうしていきたい」といった内容を説得的に記述していく際に,感情面は薄れてしまうからだ。そのような「コミュニケーションを減らす」技術なり手法があるのに,使わないで口頭に頼るということは,結果的にチームの効果を下げると考える。もっとも,書き言葉にすればよいというものでもない。書き言葉で悪い言葉が流通しているということは,インターネットを見ればわかる。

 要は,コミュニケーションの量や方法を良い方向に持っていく努力ができ,結果的にそれはチームを強靭にすることにつながると考えられる。コミュニケーションが増えるということは,個々人がコミュニケーションにかける時間的精神的コストの増大も意味するので,常に良い方向とは言えない。様々な手段や技術を用い,コミュニケーションのコストを下げ,その上で口頭のコミュニケーションを効果的な方向に集中させるやり方があっていいと思う。

 その意味で,「口の悪さ」が「職場の雰囲気をギスギスさせてしまうこと」につながってしまうということは,チームのあり方の方にも問題があるとも考えられる。例えば,悪い感情を実は皆押さえ込んでおり,それでチームが回っているとすると,悪い雰囲気は容易に伝搬してしまう。また,悪いコミュニケーションにちゃんと不寛容なチームなら,1人の口の悪い人間は居心地の悪さを感じ,自ら去っていくだろう。

 ということで,「口の悪い人間」が顕著に問題となるチームは,どこかに弱点があるのではないかと思う。そして,安定した状況では問題とならないが,デスマーチなどではその弱さが顕著に現れる。平和で和気あいあいとしたチームがどこかで暗転するような,恐ろしい現場を何度か見てきた。しかしそれは往々にして「口の悪い人間」が引き起こしたことではない。普通の人が悪くなってしまうのだ。そして,口の悪さより悪いものは多く存在する。例えば客の無茶な要求に耐え続けニコニコとし続けた結果,チームがぼろぼろになることはある。

 口が悪い悪くないに関わらず,口の悪い人間が問題となるチームと,問題とならないチームだったら,後者のほうが健全だと私は考える。個々人のせいにして終わらせてはいけない。

 もっとも,どんなチームであろうと最終的には現場がうまく回れば良い。うまく回りさえすれば…

それくらいしかやることがなかったから

ガード下 Advent Calendar 2017 - Adventar

本題に入る前のイントロ

 なんだろうか,今感じている自分のクソさなり,閉塞感なりがあり,それを人にどうもわかってもらえない。32になり「田島さんも安定してきましたね」「社会人やって博士課程にも行ってるんでしょ,別に不満なんて言う必要ないじゃん」「『俺はもうだめだ』とか言うのをやめろよ」などと言われるようになったが,実際はそうということはなく,毎年綱渡りである。

 個人的にはそのギャップを吐き出す場として「ガード下 Advent Calendar」を作ったのだが,結局それを具現化したのは最初の橘ありすに関する記事のみで,それ以降に書いた3件の記事は「自分を含め皆がどうインターネットやそれが人を幸せにする可能性を信じられるか」のプログラムの素描であり,その裏返しにあるインターネットにおいても現実世界においても,つまりどこにおいてもうまくいっていない,可能性くらいしか依拠できるものがない現状について書くことから,ある意味で逃げてきた。そして私自身は少なくない人に良くないとされる言動を繰り返してしまい,「荒れて」いた1ヶ月だった。

 そんな中,はてブを適当に巡回していたらこの記事が目に止まった。

d.hatena.ne.jp

これそのものは見出しを見て情報社会論として読むべきものだと思ったが,それ以上に,「ネットにしか居場所がないということ」という見出しに目が行った。こういった書き方をする人は今はあまりいない。ということで電子書籍を買わず(後でどこかの予算か,もしくは自腹で買う),ウェブ連載を基にしているということでその記事を探して読んだ。

wirelesswire.jp

wirelesswire.jp

 この記事は,思ったより渋かった。職のない精神疾患を持った男や,引きこもりの男がWikipediaに自分の活動できる拠り所としての価値を見出し,うまくいったりうまくいかなかったりする。対するWikipedia側としてはそういった「問題児」に寛容ではなく,「精神疾患を持った人のためのセラピーではない,治療を受けてから来い」というエッセイが共感を得て一種の規範となっている。それに対して警鐘を鳴らす人もいる。

 こういった状況は,Webにおける共同体や開かれた活動への参加,つまり21世紀我々に残されたフロンティアにとって非常にedgeな事例だと思う。だからこそ,Stack Overflowとwebにおける活動のゆるさに関する記事を書いた際にも,また今論文を書いていて助言を戴いた際にも,私の根底にある考え方自体は賛否両論である。

 つまり,「Webにおいても,活動に参加する人は『まとも』であるべきか」という問いに,私は一貫してノーと言い続けてきた。最低限の規則を守っていれば,人間自身の素性に関わらず参加できていいんじゃないかと主張し続けてきた。日本のWikipediaに多大な貢献をされている方は,そういったように見える仕組みを回すことがどれだけ難しいかを身をもって知っており,私の考えの楽観さを「見抜いた」。また,論文の書き出しを必死になって書いて,ゼミで見てもらった際,「知識をちゃんと管理するには,規範をちゃんと守れる人に参加を限るべきだろう」というように読める草稿を書いてしまったことをご指摘頂いた。

 この議論は上記記事中にも登場する。

ジョセフ・リーグルは、ウィキペディアの文化について書いた本に『Good Faith Collaboration(善意にもとづく共同作業)』というタイトルをつけていますが、実態はそんなきれいなものではない……と腐したいわけではありません。

ネットにしか居場所がないということ(後編)

 わざわざこのようなことを書いているということは,Reagle"Good Faith Collaboration" がそう読まれうることの裏返しである。本書では,Wikipediaで使われている様々な明示された規範が,百科事典を作るというプロジェクトをどれだけ巧妙にうまくいかせたり,いかせなかったりしているかということを主張している。有志による日本語訳があるので,読むと良いと思います。

good-faith-collaboration-ja.github.io

 この本は思い出深い本である。今の指導教授が帰国し,院生向けの輪講を本格的に始めた時に選んだ本が本書だった。私は「社会」というものを研究する際に,人々がどうやってその場の秩序を理解し,それを身をもって示しながら秩序を組み立てているかを見るエスノメソドロジーという研究プログラムに興味を持って,社会学に移ってきた人間である。しかし,エスノメソドロジー研究の主流は,対面会話や,そこから広がった実世界の身体や物体とのインタラクションの研究であり,Webでのやりとりや「知識」といった実体を持たない対象については研究できるかどうかもわからない状態であった。その中で,本書はエスノメソドロジーに影響を受けたアプローチでWikipediaを研究していた。いけるんじゃないかと思って博士課程に入って3年目になる。

 「いける」というのはどういうことかというと,もっとウェブでいろんな領域でいろんなことができるんじゃないか。特に,できるだけ障壁が少なく,専門的な領域に参加することができれば,その人がWebでもリアルでも生きる可能性が広がる。そういったことは楽観論なのだが,その芽が出ているのなら拾わないといけない。それを「いける」んじゃないかということである。

本題

 こう書いていくとまた可能性の話に戻ってしまう。違うんだよ。俺が書きたいのは「なんで俺が可能性を必要としているのか」ということだ。その前に「社会人」「博士課程」「ギークハウスを元にした界隈で楽しくやってそう」が全部うまくいっていないことを語る。

 俺は朝起きることができない。日中に外に出ることも難しい。昔はちゃんと規則正しい生活を送っていたのだが,2006年に一回社会から切り離されてから,主に夜にしか活動していない。というのも,朝型夜型といったものではなく,「人生を楽しんでいる人」「ちゃんと生きている人」を見るのが本当に辛くなったからである。朝に起きること自体は難しくないのだが,外を歩く人が辛くて嫌になってしまう。家で朝作業をすることは,そんなに悪くないのでよくやっている。

 この段階で,日本の,そして恐らく世界のほとんどの企業に入社することはNGである。修士号をいただいてから,1年曖昧に過ごしていたら,それでもよいという条件で今の社長からオファーをもらった。

 で働いてみたら酷い酷い。これは会社のことではなく俺のことだ。受託であっても共同開発であっても,プロジェクトが一定の段階を過ぎると,何らかの揉め事なりアンフェアなことなりがおこる。進捗が出ていない人が見過ごされ,出ている俺に心理的圧力がかかる。ありえない無茶を振られることもある。2回,大きなブチ切れを起こした。この段階で,日本の,そして恐らく世界のほとんどの企業においてはNGである。2回めの時はさすがにもうできる仕事がないのではと思った。

 困り,とても困った結果,割と空間データの中でも特殊な(空間データはだいたい特殊である)新しいものを扱っていたため,それを深く掘って強みとする「研究開発」を提案した。弊社は技術を売りにしたベンチャーである。通った。そして,その2週間後にどんぴしゃりな研究開発系案件が来た。さすがに過去の失敗から学んだので,同僚の非常に多大な助けを借りながら,なんとか続けている。他の仕事も少しずつ始まっている。この記事を書いたらコードを書く。

 常に困っていることがある。まず,根本的に俺の個人に起因する問題点はゼロにはできない。発達障害障害者手帳はすぐに降りた。なので,今うまく行っていても,常に失職する可能性はある。というか,もう最期の手を使ってしまったので,次なにかやらかしたらさすがに辞めるしかない。辞めたら,日本の,そして恐らく世界のほとんどの企業に入社することはNGである。まあ死だろう。これを「即死リスク」と呼ぶ。

 そんな俺が考えたのが前述のWebの「可能性」である。しかし,今のWebの現状を見るに,自由な参加によって価値を生み出し,それで生きていくことは難しい。俺が死んだらそれは運命で仕方のないことだが,次の世代に俺のような苦しみを背負わせたくない。だから,俺は「可能性」を自分で研究することにした。

 会社の次は博士課程か。嫌になってきたな。会社は博士課程に入ることを快諾してくれた。専攻も融通を効かせてくれた。しかしその道は厳しい。1つには,研究そのものの難しさがある。特に,Webの「可能性」を研究するなら,アラン・ケイの言うとおりシステム提案が常道である。しかし,私は「今Web社会で行われていることの,先端的事例」を理解することで,可能性を追求することを目指した。ということで調べてみたところ,Social Webの研究では「現状」の分析は行われているが,それがどのような可能性を切り開くかについては及び腰である。研究テーマとして成立させることがそもそも難しいのだ。

 もう1つ,大学院という環境は,俺の生活やコミュニケーションの問題を一定以上考慮しない。要は辛い。14時45分から始まる専攻全体の英語論文を紹介するゼミがあり,日中活動できない俺はなんとか起き,英語力だけで乗り切った。今年は一応3年なのでスケジュールや担当の割り振り,司会などを引き受けた。なぜ俺のような人間がやっているのだろうか,ちゃんとできるだろうかと思っていたが,昨日ようやく終わった。終わった時は「ちゃんと終わらせることができました。ありがとうございます」と頭を下げた。

 また,ゼミで感情的になってしまうこともしばしばある。突然自分のしたい議論をぶっこんでしまうこともある。そういうことをやるたびに,申し訳無さでいっぱいになる。酷いのは学会である。1回無理しすぎて倒れている。その他その他小さいことも含めるといろいろある。

 もう1つ酷いのは無力感である。博士課程なので,俺よりできる人がたくさんいる。彼らは査読論文も出しているし,有名な学会で発表もしている。俺は「社会人学生だから」と言ってその問題から逃げるとともに,実際に割けるリソースが少ないので,難しい文献を積極的に選んで読んできた。リソースが少なかったら簡単なのを選ぶんじゃないの?違う。難しい中身の詰まった文献は短い時間で多くのことを語る。そして,それを読めるということをもって,なんとか自身を保ってきた。先週は会社を1週間休み,論文の構成と,理論的な文献購読に使った。結果かなり良い成果が出せた。会社がなかったら実は俺はけっこうできるんじゃないか。思ったがそうはいかない。結果的に俺は無力である。

 で,次か。「ザ・ノンフィクション」で今年ギークハウスが取り上げられ,少し出演したところ思った以上に多くの知り合いが観ていた。日曜の15時にテレビ見てるなんて奇特だなー,インターネットやれよとか思ったりするのだが,ギークハウスは1年毎に不義理をしてコミュニティを変えていた俺を,長い間居させてくれた界隈である。いろいろなことをやろうとしたし,集まってくる人はそれぞれの事情があったりなかったりするので,いざこざや揉め事,不義理もある。「ザ・ノンフィクション」では良い部分をピックアップしてくれているのだが,それが良いことなのかはわからない。

 その中で常に思っているのが,家があって集まっているだけではまだ足りないということである。phaさんは有名になった。phaさんのいる場所も何度も変遷を遂げながら継続している。それ自体は素晴らしいことで,救われた人も多いと思う。しかしそれで全ての問題が解決するかというと,もちろんそういうことはない。だったらギークが社会に何ができるか。

 例えば行政のデータ公開を市民参加に結びつけるオープンデータ活動をやったりした。割とやったところ,議員の方なり行政の方なりNPOの方々なり,各所で「猛者」な人々と知り合って,一緒になにかやったりもした。しかしそこはやはりコミュニケーションの支配する空間,簡単に言うとうまくやれなかった。

 で,ギークハウスに関して言えば俺は住人ではない。両親が離婚し実家に夜逃げしてきて,母や祖母も亡くなったので結果的に生き残った俺が実家の1階を継いで,そこに住んでいる。はっきり言って俺の配慮のなさと生活能力のなさは酷い。毎日同じ所で暮らしていたら,あっという間にボロが出るだろう。そうでないから,界隈にずっといるのだ。それでも,軽率な言動や不義理をしてしまい,人間関係に支障があることもある。

 なんか,嫌になってきた。本当に嫌になってきた。この感覚が伝わってくれると本懐である。結局,会社では周囲に助けられながら常に不安を抱えているし,強い意志を持って入った大学院も実力とコミュニケーションが伴っておらずうまくやれない。ギークハウス界隈には居させてもらっているのにろくなことができていないばかりか迷惑をかけている。それが,実情なのである。

 だったら全部やめちまえよ。不満を言わず迷惑もかけずおとなしく暮らせ。もっともである。周囲が見ているほど俺はまともではないし,ギリギリで生きている。その上でいろいろなことをやってろくな成果も出せず迷惑をかけている。「自分の成果をあまり卑下したら助言や協力をしてくれた人に失礼」と言われてハッとしたことがあるのだが,それを踏まえると,これだけ助けてもらってこれだけのことしかできない自分に後ろめたさがある。もっともこれは主観であり,やめてひっそりと生きるべきかということについては正直判断がつかない。

 結局俺は「やっている」だけなのである。「できる」からやっているのではない。単にやっている。で,その選択肢も広くないので,特定の何かをずっとやっている。それだけなのである。だから苦労があってもしがみつくし,できないことを常に悲しむ。不義理をしてしまったらそれは俺の責任として引き受けるしかない。良いことがあればそれに越したことはない。

 表題に戻る。今の俺の立場にはいろいろな見方や評価があるだろう。しかし,それに至った経緯はこう表現するしかない。それくらいしかやることがなかったから。できることを武器にしてガンガン進んでいくような能力も自信もない。Linusのように「それが僕には楽しかったから」とクールにも言えない。それくらいしかやることがなかったから。

 だから,「それくらい」の範囲を増やすため,活動への参加の敷居を下げるWebの「可能性」にもまた,しがみつくしかないのである。