活動をゆるく強くする手段としてのWeb

要約

Webでの人々の共同作業はゆるくなりうる。現実世界もWebを使ってゆるくしていくと楽になるのではないか。

Web発の活動があまりWebっぽくないという問題

私は現実世界での人間関係にうとく,Webで自由につながった界隈にずっといる。オフ会に初めて参加したのが16で,今32なので人生の半分はそうだ。そのうち,Web発で現実世界で何かやろうという流れがぼちぼち盛んになってきた。ギークハウスもそうであるし,オープン・ガバメントも理想型としてはそうだろう。

一方で,ひとつの疑問が頭に浮かんでいた。Webから出てきた活動が,その主な活動を現実で完結させてしまい,結局現実世界の一つになってしまうということが多い。もっとWebの良さを活かした活動はできないのだろうか。それができないとしたら,なぜなのだろうか。

例えばギークハウスは創立者のphaさんがオープンソース活動との類似性を指摘しているが,そんなにWebっぽくない。チャットなどは活発だが,普段やっていることの多くは普通のシェアハウスと変わらない。参照元オープンソース運動にしても,カンファレンスなどが頻繁に開かれていることからして,現実世界の交流をおそらく必要条件としている。オープンガバメントに関しては,推進役は現実世界でのワークショップ,ハッカソンなどを主軸としていた。

例えば,「住む」ということを変えていくとしたら,どうすればいいのだろうか。例えば,「統治する」ということを変えていくとしたら,どうすればいいのだろうか。それを現実世界でやっている人も数多く見ている。しかし,Webから出てきた活動なら,Webが活動を支援する形で,もっと言えばWeb世界と現実世界が混ざった形で,世の中をよくできるんじゃないか。現実世界の良いところ悪いところ,Webの良いところ悪いところを都合良く使って,人生をよりよくできないものだろうか。

「Web上での共同作業」に注目した

まあぶっちゃけ現実世界はだいたいうまくいっているのはわかっている。私がうまくやれていないだけだ。しかし,Webはうまくいっていること,いっていないことが大きく分かれており,例えばWebを前提とした新しい「住むということ」を考えるとしても,どっから入っていいかわからない。

そこで注目したのが,Webで人々が集まって,何か生産的なことをしている場である。Wikipediagithub,さらには後述するStack Overflowがこれにあたる。プログラミングに関するものが多いのは,「自分たちがやりやすい環境を自分たちで作る」エンジニア文化もあるだろう。

元々の社会学的な関心もあり,そのようなことを研究計画書に書いて博士課程に入学した。実家がなくなったり人生にいろいろあったのもある。会社もそれを許してくれ,厳しいがなんとかやっている。

Stack Overflowと,参加者による知識の生産

その中で特別に関心をもった研究対象は,Stack Overflowである。Wikipediaはわざわざ長い記事を書かないといけない。githubもコードを読んだり書いたりしないといけない。しかし,Stack Overflowはスマートだ。知識だけをさらっとやりとりする。専門的なことを扱っているのに,質問してから答えが返ってくるまで平均1時間。しかも,編集されたりしてWebで検索をかけても割と役に立つようになっている。これはよさそうだし,知見がいろいろなことに使えそうだ。

最初の方に関心を持っていたのは,「とはいっても,Stack Overflowに特有の共同作業ってどんなものなのだろうか?」とか「人が集まってるってことが重要なのだが,Stack Overflowにおける人の集まりってどんなものだろうか?」とかいったものだった。

例えば,「知らない相手でもちゃんとわかるように聞くことが必要なので,他のいろんな人にも役に立つんじゃないか」とか「やったことが即座に記録されるということが,共同体の維持に強く関わっている」とかいったことを明らかにした。

そういう活動の成り立ち,どうやっていくかを見ていくと,もっといろいろなことがわかるのではと思った。そんな中,根本的に水をさされた。

生産だけ見ちゃだめ

私の悪い特徴として,話がいろいろとっちらかっちゃうという問題があった。それは博士課程を2年やっていてもそうで,ビシッとまとめるために先行研究を整理することにした。たくさん文献を集め,ひたすら読んでいた。質問や回答の内容に関する研究や,利用者個人個人の研究は多くあるのだが,活動がどうやって成り立っているのかという行為の側面に関する研究はほぼないようだった。これはいけるぞ。

といったところでご指摘を受けた。「Stack Overflowなどでは何か知識体系みたいなものがありそうなので,それの理解を目指すべきで,個別の活動の成り立ちだけを見ていたらつまらなくなってしまうのではないか?」

そりゃそうだ。Stack Overflowの強みは,だいたいどんなプログラミングの質問を検索しても結果に出てくる大量の質問や回答の蓄積で,しかもだめなものも多いが割と役に立つ。これを研究のスコープに入れないで何をする。

Stack Overflowのゆるさ

ということで,研究の最初の方でStack Overflowの成り立ちについて調べていたのをほっくり返したらドンピシャリなことが言われていた。創立者の一人のJeff Atwoodは,「プログラマーによるプログラマーのための,世界の中の良いプログラミングに関する知識の総和を集合的に増やす究極的な目的」をもって,Stack Overflowを作ったのだ。

ただ,理想だけじゃサービスは動かない。なので,Stack Overflowのブログやマニュアルなどで挙げられている様々な方針をまとめてみた。まず挙げられるのは,どんな質問が良くてどんな質問がダメか簡単に判断できる基準だ。

例を挙げると,「実践的な質問」つまり実際にプログラミングをしていて直面した質問で,論争を引き起こすようなものとか曖昧なものはだめ。そして,「少なくとも他の1人に役に立つような質問」をすべき。ただ聞いて答えるだけでは満足しない。その辺を抑えておけばOK。

このほか,質問が重複したらどうするか。同じ質問に何度も答えると疲れてしまう。だから,重複した質問にはマークをつけて閉じよう。しかし,一見同じように見えてある質問で解決できなかった問題は重複ではない。じゃあどこに線を引こうか。その場の判断に任せる。

あと,大規模なので管理者が必要なんだけど,わざわざ任命したり権限をどうするみたいな話はもめ事の元になる。Wikipediaではそんなことがよく起こる。Stack Overflowではその問題について,質問や回答などの貢献度に応じて権限を解放する方法をとっている。提案や文句があれば議論できるサイトもある。

そして,「知識の総和を増やす」ことはどうやっているのか。Web検索に丸投げである。Stack Overflow内部での検索も充実している。わざわざ厳格に管理しなくても,他の人にわかるように書いて,無駄に重複しないようにすれば誰かが見つけられるようになる。

結局だいたい紹介してしまったが,ここでStack Overflowの「裏の方針」といったものが垣間見える。「ゆるい」のだ。利用者は,別に完璧な文章を書けなどとは言われていない。他の質問と被っちゃっても「俺はこれじゃダメだったんだけど」と言えばだいたいOK。管理権限は要するに良い質問や回答をずっとやってる人が,良い質問や回答を維持できるというクリアな仕組み。あんまり片意地張ってやる必要がないのに,「知識の総和」はどんどん増えていく。

これには事情がある。創立者のAtwoodはブロガーである。当時の専門的なブログでは,コメント欄で知識を求める人が質問をしまくっていた。マニュアルやWeb検索では解決できない問題を誰かに聞きたい。そうだ,有名な人に聞こう。しかし答える側としてはたまったものではない。もはや,仕事を辞めるしかないレベルまで質問がたまっていたのだ。

1つの手段としてはブロガーを増やすという手段があるが,正直ブロガーになって定期的に記事を書くのはだるい。もっとみんなが参加できるようにするには,ゆるくしないとだめだ。ちゃんとやるとだめになる。ゆるくしないとだめだ。そういう経緯でStack Overflowは設立された。

もちろん「ゆるい」だけじゃだめだ。多分実際のやりとりを改めてみると,ゆるさを維持しながらちゃんと物事を行うようなやり方が見えてくるんじゃないかと思う。これは今後調べるべき課題となる。

ゆるさとコミュニティ

ここからは適当に思いつきでしゃべる。ここまで思いつきじゃなかったかというとそれなりに学会発表の内容が入っているので関心のある方は適当に読んでください。

Web上での交流が現実世界の濃密な交流と比べてゆるいことは,10年以上言われているので適当に書籍でも読めばわかると思う。そして,そのゆるさは何かを生産するときにも適用されると言うことがだいたいわかってきた。Webにおける協働生産、ピアプロダクションのモデルでは,上下関係の組織からネットワーク状の組織へみたいなことはよく言われているが,ゆるさに注目した言及は見られない。

その理由の1つとして,オープンソースWikipediaの偉い人の中に「堅い」人がいるからなんじゃないかなーというのがある。具体名は挙げないので各自思い当たる人は想像してください。コミュニティをうまくいかせよう,もっといいものを作ろうという気持ちはわかるのだが,それをもっていろいろ縛っては本末転倒なんじゃないか。なんだっけ,node.jsの0.10時代の話。node.jsの不十分な部分に皆うんざりしていたのに,リーダーは提案をことごとく却下した。「私は非暴力的コミュニケーションを熟知している」とか言いながら,確かに非暴力なんだけど厳しすぎた。

別に何でもゆるきゃいいってものじゃない。ゆるさは1つのあり方に過ぎず,しかしWeb技術は人をよりゆるくする力があると考えられる。「知識の管理」といった堅いことすらゆるくできる。だったら,それをもっていろいろ活動をしてみるのはアリなんじゃないか。

可能性:現実世界を侵食してゆるくしよう

まあそう考えてみると,私が現実世界で厳しさを感じる理由も「ゆるくない」からである。社会的に見れば私は相当ゆるい環境で生きている。今働いている会社ではいつどこで働いても良い。毎週のオンラインの全社ミーティングに出ないことすらある。この働き方を続けたいので納期は全力で守る。しかし,その一歩外に出ると厳格さが支配する世界で,あらゆることが厳しくなる。だるい。

「ゆるい」と「楽」で,結果的に仕事もはかどる。しかし現代は人が多く,誰が何をしているかを知らないと物事をうまくやるのが難しい。その結果として組織ができ,文書で管理される。さらに知らない人は怖いから,様々なルールを作る。現実世界には物事からゆるさをなくしていく傾向がある。

私は自分を自由主義者(いわゆる「リベラル」とはニュアンスが違うと思う)と規定している。自由主義に関する書籍は多く読んだが,どの自由主義論にもどうもしっくりこない。縛るな。好きにさせろ。それを実現した先に別の形の縛りや生きづらさがある。その連鎖を本来は止めなければならないのだが。

60年代の米国のヒッピー・ムーブメントなどは「ゆるさ」としての「解放」を目指していたように見える。また,ギークハウスや国内でも多くあるオルタナティブなスペースも「ゆるい」と言えるだろう。何しろ雑な私でも店長ができるバーがあるくらいだ。外山恒一の著書に言わせると「ドブネズミ」か。

こういう運動は結局は「文化」という形で吸収されつつある。ガチで権力に闘争を挑んだ人々はゆるくなくなり,破滅していった。これらのことは現実世界では「左」といわれる人々が主導していたように見える。一方,Webにおいてはゆるさは本質的な特徴の1つで,右とか左とか関係なく浸透しつつある。

ここで最初の「Webっぽさ」にもどると,その1つは「ゆるさ」なのではないか。ゆるく,なおかつうまくやれる仕組みや実際の活動があれば,もっと楽に生きられるし,それはおそらく現実世界の問題のいくつかを解決する手段となる。しかし,厳格な組織などはわかりやすいが,ゆるさはわかりにくい。おそらく個々の振る舞いの中に隠れてしまっている。それを理解しデザインしていければ,それは強い力となる。

なんでこのような文章を書いていたかというと,私は研究者を目指す多くの学生と比べて能力がなく,また現代の研究者はゆるくない要素の塊である。その上で研究を続けていく理由は何かと悩んでしまっている。その際に,研究の着想に至った経緯が現実の生きづらさから来ているのだから,いったん現実に話を戻してみてはどうかと考えたからだ。まあ少し楽になった気がする。