停滞こそが前に進むことなのかもしれない

社会人博士課程を始めて3年余になるが,進んでいるかどうかよくわからなくなってきた。人文の研究では多くの知識と緻密な読解と論理が必要になるが,ここにきて根本的に浅かったことに気づく。論文を150本,次いで200本と読んでいくたびに自分の立ち位置が大きく変わっていく。今までにない研究は,多くの分野にまたがった視点で見ないと立ち位置を精確に見ることができない。そして一旦立ち位置が変わったら気づくのだ。今まで見てきたものは単にウィンドウショッピングに過ぎなかったのだと。能力のある人間なら早い段階で「見える」のだろう。

私は根本的に能力が足りない。私の生活スタイルはニートと類似している。起きるのはこの時間(12-14時)で,寝るのは4時前後,生来自己肯定感を得ることがなかったので現実世界にいるのが辛く,それを補うためにインターネットを行い,残りの時間を仕事や研究にぶち込む。

自己肯定感の低さや発達障害特有のコミュニケーション負荷はメンタルの総量に直結し,すぐにやられて蟄居の状態になる。その間はPCをACアダプタにつなぐことすらできず,さっきようやくつないだPCのバッテリー残量は38%である。これはさすがに相対的にひどい状態だが,数日かけて緩和される。こんな状態で仕事や研究が進んでいる方がむしろおかしい。なんかのスイッチが入るとできるようになり,それは進捗を出すのに十分な頻度なのだが,それが入るのはランダムである。

まあ正直,同じような気質で心が折れてニート生活保護になった友人は多い。むしろ私は彼らより日常を生きる能力自体は低いので,もっと早く心が折れていてもおかしくはない。何らかの点で私は狂っていて,それゆえにいろいろやっているという側面は否めない。

そんな中,過去一緒にバイトをしており,いつからか生活保護を受けていた友人のツイッターを発見した。主にVTuberをフォローしており,人間と関わりたくないのではと思う。実際にどうだかはしらないが。

それを見て幸せそうだな,と思う側面もあった。というか,なぜ私はこの道を選ばなかったのだろうか。能力はない。現実は厳しい。降りても良いはずだ。研究なんてやめて,仕事は最低限にしたほうがインターネットにより長くいることができる。それでいいんじゃないか。

研究をやる理由はいくつかあるが,1つ取り上げると主にインターネットで独立した生産活動が行われつつあるのに,それがうまく流行らず,現実の社会システム,最終的に飯を食っていくこととつながっていないという問題がある。LinuxGitHubで配布されたOSSがどれだけの富を現実世界にもたらしたか,そしてそれをどれだけ誰も考えていないかを考えれば良い。そのためには,インターネットで共同作業を行うとはどういうことかを知る必要がある。それが確立されれば,私はもはや現実世界と関わることはないであろう。現状では現実の人間は現実の枠組みでしかものを考えない。それはとてもつまらない。

まあやる理由はいくらでも挙げられる。やってはいけない,やらない理由はない。しかし,やらなければいけない理由はない。そんな中でやっている。だとしたら,研究なんて人に任せてしまえばいいのではないか。今の指導教授は凄いが,凄いね〜と傍から眺めているだけで良かったのではないか。論文なんて途中でだるくて読むのをやめれば良い。

博士課程に入った強い理由として,祖母が亡くなったことで天涯孤独になり(両親と他の祖父母はいない。父は生きているかもしれない),心が空白になったことが挙げられる。それはある意味で自由になったことでもある。なのでしばらく世俗から離れてみようということがあった。博士課程での厳しい訓練はそれを大いに可能にした。しかし,恐らくそれはもう必要ない。気がついたら時間が解決していた。

もういいのではないか。できれば生活保護でも受けて,楽に生きたほうが人生という面では進歩になるのではないか。社会は私を評価しない。私も社会を評価しない。無として終わるというのもありなのではないか。

逆の視点から見たら,私はあまり良い人間ではない。自分も一時期そうだったから感じるのだが,何もしていない人間から活躍している人間を見ると激しい拒絶感に襲われる。しかし,私がやっていることも,彼らが逃げ出したくなるのと同じような理由で,辛いことではある。

「降りる」決断をしていないだけかもしれない。そんな中で仕事や研究の次の段階がやってくる。