要約:人は誰でも,世の中のここが変えられてここが変えられないということを,頭の中に持っている。可変性の軸を導入したらいろいろわかりやすくなるのではないか。
本文
例えば働き方を柔軟にするとか,オープンコラボレーション的な方法でインターネットを創造的にするとか,発達障害独自のコミュニケーション様式を作ったら良いのではないかとか,いろいろな「世の中を良くする方法」は思いつくのだが,どうも空転してしまう。「やっていきましょう!」と言う人も「そんなこと机上の空論だろ」と言う人もいるのだが,どちらも大した根拠がないし,私もそんなもんは持っていない。だからといって,「とにかくいろいろ試してみる」というやり方は好きではない。
ということで,視点を変えて今実際に世の中を変えようとしている人の方を見てみる。例えば与野党の対立は2回の政権交代を経てわかりやすい形で激化しており,発達障害者の身の処し方についても議論しようとすれば,適応する方向と世の中側が認めていく方向に分かれると思う。オープンの思想は世に問われ続けており,そのエコシステムに依存している末裔であるWebなどの開発者は,新しい働き方や物事のやり方について変えることに比較的抵抗がないように思える。
そういっていろいろ見ていくと,雑駁な意味での保守・革新というか,「世の中のここは変えられるけど,ここは変えられない」という考え方が,隠れた対立点になっているのではないかと思う。議論の前提と言っても良い。これをとりあえず「世の中の可変性」と呼ぼう。世の中の可変性に対する考え方が異なると,「どうすべきか」という方向性や「こうやっている」という行動が異なってくる。例えば
- 裁量労働制に関する議論を見る限り,推進者は「労働時間を自由にしたほうが良い」という極端な性善説を持ち寄ろうとし,反対者は「定時に出社して定時に帰る,それが労働者を護る方法だ」という,人によっては非常に負担を強いる考え方を変えることはなかった。彼らは,そもそもの定時出社のあり方について考えようとすらしなかった。
- 「Webは世の中にゴミのような情報を増やし,その結果人々は見たいものしか見なくなり極端な考え方をするようになった」「Webにおいてはその場その場の盛り上がりが原動力になるので,物事が蓄積されず非生産的である」といった考え方は,今やWebの本質とも捉えられている。しかし,既存の事例以外にも人々が協働する方法はいくらでもあり,例えばオープンソース活動やWikipediaなどの一定の成功を,より多くの人々や課題に対して開いていくという考え方もできる。
- 発達障害に関して,当事者間での認識は異なるように見える。頭の良い人は個性だから自由にやっていけば良いみたいになるが,彼らは恵まれているからそういうことが言える。一方,「治療」は多くの人に指針を与え,社会とのコネクションを調整するきっかけになるが,往々にしてうまくいかず,最悪死に至る。いずれの立場にせよ,「発達障害に適したように職場や世の中の方を変えていく」ことができるかどうか,できるとしたらそれはどのレベルでどの程度かについては議論があると思う。
なんか揉める議題を複数持ってきてしまったので,お前はどっちの立場だみたいに言われると非常に困る。というか「お前はどっちの立場だ」から始めることが揉める原因になっていると思う。というのも立場の前提となる,世の中の可変性への認識が異なるため。定時に働くという近代以降の働き方ははたして不変のものなのか。はたしてインターネットではどういうやり方をとっても情報が滅茶苦茶になって刹那的になってしまうのか。はたして人は,というか日本人の社会は発達障害に対して寛容になれないのか。そういった問いには課題が山ほどある。
世の中を変えるか変えないかの議論をする前に,可変性を考えることは一見して非生産的に見えるようで,議論のベースとして重要であるように思う。しかし,「どうするか」のレベルの議論にはどこかで決着がつきやすいが,「どういうことが可変で,どういうことが不変だと考えているのか」について人々が合意することは難しい。そういった話になると水掛け論になるのではないかと考える方もいるだろうが,水掛け論になるとしたら,どうすべきかの議論も不健全である。
こういった議論は,「メタ議論」みたいに扱われることが多く,議論の本線に対して斜に構えているといった変な嫌われ方をすることが多い。というか本線が不毛すぎてしらけているので斜に構えているのは事実なのだが,「メタ議論」というカテゴリがあったとしてもそれは議論なので,世の中の課題をどうにかするのに必要ならすべきであると思う。
ここまで考えたが結論はない。WIPである。