それでも俺は圧倒的な世界を見たい

ガード下 Advent Calendar 16日目

 このブログで継続的に書き続けているとおり、私は人を自由にする技術を継続的に考えている。だからといって何か特別なことをしているわけではなく、人文社会系の研究の進め方は、基本的な点では似通っており、それを忠実にたどっている。私などが解説したところでたかが知れているのでKMDの奥出先生の議論を引用しよう。

okude.blogspot.jp

 これは非常にクリアに書かれているので、いかなることをしている方でも読んで損はないと思う。研究は知識の連鎖から成り立っている。そして、その中に自分のなすべき課題を論理的に構成していく。それをできたところでようやく自分の思考が自由になる。

 私は技術と人の関係の中でも、専門的な知識の在り方、専門性へのアクセスの話に焦点を当てている。当然、これも過去の知識の連鎖の中に位置づける必要がある。そして、それを始めて既に1年半が経過している。

 基本的に、知識はちゃんとまとめられていたほうが良い。一方で、それからある意味ではみ出した、誰でも情報を公開でき、知識をつなげる手段も柔軟になったWebは、人が物事を行う可能性を広げるという主張がずっとなされてきた。しかし、これはまさにいま書いている論文の核心なので詳しく述べないが、ほとんどの既往研究はWebをそう見ていない。

 人の自由と技術の問題については、学術研究においては問題を提起することすら難しい。ハイパーテキストの提唱者の1人であるTed Nelsonは、皆誤解しているが社会学者である。彼はタルコット・パーソンズが設立したHarvardのDepartment of Social Relationsという大学院に1960年に入学し、そこは間違いなく世界で最高の社会学の研究拠点だった。全くもって社会学の正統と言える。そして、彼は入学した途端にコンピュータにハマった。その中で、小集団研究の(エスノメソドロジストにとっては、「エスノメソドロジー命名の由来」でよく知られた名前だろう。もしくはStudiesの1章の事例にも出てくる)Freed Balesによって「コンピュータは人の個性やアイデアを表現する最高の道具だ」との示唆を受け、その考えは数年後にハイパーテキストとして結実した。

 しかし、ハイパーテキストはその当初評価されなかった、いわば鬼っ子であった。ハイパーテキストの原論文はACM(当時はCHI、SIGGRAPHなどの分科会はなかった)で発表されたものとされているが、実際にはその前にWorld Documentation Federationという図書館情報学の学会で発表された。その時に杜撰な扱いを受けたようで、具体的な箇所は忘れたが「リテラリーマシン」では「図書館学の人々にはわからんだろうが」みたいなことが書かれている。また、自伝ではほんの少ししか語られていないので何かあったのかと思うのだが、パーソンズとうまくいかなかったようで、大学院を修士号をもらって中退し、イルカの知性の研究に従事し「イルカは素晴らしかった」と述べている。ここからはよく知られていることだが、40年後に慶應義塾SFC論文博士を取得している。どうやら、ハイパーテキストは、その構想段階では、いろいろあったようだ。そして現在もいろいろある。

 その後、様々な概念やバズワードが産まれては消え、その際に毎回「人を自由にする技術」としてコンピュータが注目されてきた。恐らく、私もその1人なのだろう。しかし、その側面を知識の観点でちゃんと見てきた研究は、ほとんど見られない。一種のアンタッチャブルな話題として扱われてきたか、もしくはうまくいかなかったのだろう。

 話を戻すと、私は現在保守的な研究がほとんどを占める中で、自分の理解したい方向に話をつなげていくという状況にあり、その間を埋めるのは本当に骨が折れる作業である。特に私は

niryuu.hatenablog.com

で書いたとおり、一回社会から切り離されている。そういった状況に置かれた人々をどうにかしたいと考え、今の研究をしている。これは奥出先生のこの記事

okude.blogspot.jp

でいうところの「情熱」であり、譲ることができず、またそうだからこそ難しいことを行わなければならない。しかし、しかしこれは心が折れる作業である。そして、既往研究をまとめた帰結として当然「このような研究は難しい」という考えに至る。このような状況下で、精神が非常に不安定で、昨日ゼミで発表した際は、我慢を続けていた感情がついに表に出てしまい、皆に迷惑をかけてしまった。

 このまま闇雲に続けるわけにはいかない。少なくとも自分がどういった状況に置かれているかくらいは知っておかないと、人に迷惑をかける。「情熱」は、エゴだ。だから、学術的な議論として説得的に語らなければならない。そこで、自分が前に書いた記事を思い起こした。

niryuu.hatenablog.com

 私は、自分を「圧倒的な人間を見ているだけの人間」として自己規定してきた。しかし、今私がやろうとしていることは様々な観点から見て難しい作業で、正直に言うとどこかを妥協するのが、博士号に向かう正統な道だろう。しかし、しかし、単に博士号を取るためではなく、自らの知りたいことを知るために大学院に来たのだから、その道は選びたくない。

 だとしたら、結果的に私も「圧倒的な人間のやっていること」に足を踏み入れている。それはそうだ。「できる」と言っているのは圧倒的な方々で、彼らにとってはできると想定できることなのだから。そして、私には残念ながら一定以上の才能はない。結果的にどこかで物凄い負担が来るということになる。そして、耐えられず他の方々に迷惑をかけてしまっている状況にある。

 上記記事の「圧倒的」概念の基になっている小説がある。

やる夫短編集 (,,`д`)<とっても!地獄編 【やる夫で】学ぶ冒険者生活の現実【世界樹の迷宮Ⅱ】

簡潔にまとめると、主人公は職にあぶれ、死と隣合わせの迷宮で稼いでいる。その中で、街で一番強いギルドに偶然入ることができるも、迷宮でも下層にあたるところに現れたモンスターに、自分より明らかに強い面々が斃されてしまう。そこから様々な選択が出てくるのだが、物語の正式なルートでは、直後にどんな敵でも一瞬で倒すことのできる強さを持ったギルドが現れ、彼らに同行することに成功する。そして、迷宮の最上層に向かう直前で、最後の選択を迫られる。これ以上は同行させることはできないと言われるのだ。そして、これまで同行させてきた理由は、街で一番強いギルドが壊滅したトラウマにより、自分で自分の能力に枷を課していたように見えることであり、そしてそれが解消された今、自分の身の丈に合った「冒険」をすべきではないかということである。そこで「身の丈に合った冒険」をする方向に進むと、街で一番強いギルドの敵討ちをしようとし、死んでしまう。しかし、別のルートでは主人公は最後までついていくことを選ぶ。それを、圧倒的な人間はこう表現する。

一歩下がって過去と対決するのではなく
前に突き進む事で過去を葬り去る
その為の手段は問わない、方法は選ばない、自力にこだわらない
結果としての果実を手にする事で
全てを解決させる―――

 祖母が亡くなり天涯孤独になり、これからの人生をどうしようかと考えていた私は、これを読んで行くところまで行ってみよう、いや、行ってやろうと思った。一方で、この連載中に付いたレスではこう書かれている。

言ってることは決して間違いじゃないとは思う
自分の力で道を切り開けず野垂れ死んだものより、寄生してでも目的を果たせたものの方がいい、と考えるのはありだろ
他人の目から見てどう思われるか、とかそういうことを一切考慮しなければ……

 正直に言えば、私などは出来の悪い博士課程学生の1人に過ぎず、私の研究などに関心を持つ人などいないと考えている。その点で、私は「寄生して」いるだけであった。しかし、私が見たいのは単に寄生しただけでは見られないことである。

 この研究は恐らく失敗する。どうしようもない形として。しかし、それでも俺は圧倒的な世界を見たい。道が問われている。

 図を書いてみたが、恐らく答えは出ていそうな気がする。

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