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圧倒的な人間についていくことについて

私がどうやっても到達できない次元に,1年で到達できる人間はいる.その上でどう生きるか.

 何年も気にかけていたことがある.前の記事で書いた事例なのだが,2006年に失恋した際に,もはや自分には認知すらできない次元で恋愛という戦いが行われていたと感じた.私は高円寺で呑んだくれ,ステージの上にいる人間と下にいる人間は違うと愚痴った.今はなきバーのマスターは,そんなものはない,人に大きな違いはないと返した.その界隈では,人は皆似たようなもので,それぞれ生きていくという感じで,それが一般的な認識なのだろうと思う.

 一方で,圧倒的な次元で戦っている人間がいるという確信は,日に日に増していった.学問で言うと計算機科学,哲学,社会学,仕事で言うとプログラミング,執筆などいろいろ渡り歩いたが,やはり私の10倍の能力を発揮している人間はいる.そして,私自身も他の人の10倍の能力を発揮することもある.プログラミングの一部の領域や,論理学,社会学の分析などでたまにセンスを発揮することがある.

 その程度ならまだ良い.失恋して呑んだくれてから10年経ったが,あっという間だった.10倍の能力がある人の1年には,10年かけて追いつけば良い.もっと少ない時間でも,何倍かやれば良い.それは恐らく努力でどうにかなりうる領域であり,少なくとも一定の訓練をすれば模倣まではできるだろう.私に本当にセンスがなく,凡人未満の領域の場合は,まあ諦める.

 しかし,学術や技術の進歩を見るに,私の100年分の進歩を1年で,もしくは一瞬で成し遂げた人というのは一定数いる.そして,そういった人間は偉人としてまとめられた過去のものではなく,現在もそれなりにおり,しかもそんなに遠くない関係にある.一定の能力を持った人間のコミュニティの最も凄い人間から,さらに数人たどれば,そういった人間がいる.会ったりもできる.

 私は,彼らに追いつくのに100年をかけることはできない.死んでしまうからだ.頑張ってもそこまで縮まらないだろう.そこで諦めることもできる.「私ら凡人は普通にやっていこう」みたいに言うこともできる.実際に,圧倒的な才能の壁にぶち当たって挫折する人を多く見てきた(それこそが,天才がいることの証明でもある).

 しかしながら,彼らのやっている領域についてある程度センスがあり,彼らのアウトプットを一部でも理解でき,それを利用したり考えたりできると,その魅力に取り憑かれてしまう.その高い世界を,同じ世界を見ることはできないにせよもっと高い世界を見てみたいと思ってしまう.

 そうなったら,もはや彼らに「天才」といったレッテルを貼って遠ざけることは適切ではない.むしろ,彼らにかじりついていって,自分のできる限りの世界を見てみたいという一種の執念にかられ,やっていくしかなくなる.これはどうしようもない.壁はある.圧倒的な才能もない.しかし,私はその場にいつづけることを選ぶ.あ,人間関係がアレになった場合は除きます.社会怖いですね.

 そうすることで,分相応に生きることと比べて何が良く,どんな利益があるか,と言われるとまあ微妙である.ちょこっと圧倒的な成果を出したり,応用するには良い環境だろうが,恐らく環境が良いだけで成果そのものの質はあまり変わらないだろう.一方,やはり圧倒的な環境にいると消耗するし,自分の無力さもまあ感じる.その環境に時間や人生を使うコストもかかる.やはり同じ能力を持った人々と関わったほうが楽だ.というところまでは損ばかりである.

 結局はそれを肯定するのは,そこにある圧倒的な世界そのものだと思う.凄いことが行われていて,それに少しでも関われて,人生の一部となる.そういったことの良さは他には替えられないし,これを味わえないなんて損だと思う.実際は他の人にとって損でもうらやましくもないのだろう.そんなある意味での独りよがりな世界に今日も旅立っていくのである.