緊急事態宣言に向けて

基本的にこのブログでは自分の人生のこと以外はネタにしたくないのだが,事ここに至り歴史的な事態となりうるため,いくつかメモランダムを残しておく。

現在の体制について

 そもそもなぜ感染症でここまでの事態になったのかについて,私の認識を示しておく。100年前と比べて,感染症で人は圧倒的に死ななくなった。それは,「人を死なせない国家にすべきである」という特にベトナム戦争以降の先進国に対する考え方から,最優先事項の一つとなった。感染症対策は他のことすべてを犠牲にしてでもなすべきことであり,微妙なバランスによって成り立ってきた社会の成り立ちにも容赦なくメスを入れていく。その過程で芸能を中心とした文化の消滅や,少数の死者が出たとしても仕方がないという立場だろう。これを止めることは難しい。戦争を目的とした総動員は悪だが,感染症対策を目的とした総動員は悪ではないからだ。そして,感染症対策の専門家は意図せずして強い政治的発言力を持つことになり,彼らはより権力を求めることを目的とする集団に積極的に協力することになるだろう。

警察力の強化について

 これは高確率で起こると考えている。というか,外出自粛という話が出てきた当初から,可能だった。例えば交通安全キャンペーンなどで,街中に警察官が多く配置されるのを見た人は多いだろう。また,点数稼ぎのために自転車泥棒を捕まえるべく怪しい自転車利用者を片っ端から止めるのを見た人もいるだろう。実際のところ,ある程度の動員は定期的に行われており,その延長として主要な交通の結節点,駅周辺や幹線道路の交差点などにあまねく警察官を配置することは可能である。そして,彼らが片っ端から職務質問を行い,その後に「家に帰りなさいよ」と言えば,それを無視して移動したがる人は多くないだろう。

散歩について

 どうしても人と会いたい場合,散歩は許可されている有用な手段となる。散歩という大義名分がある以上,止めることは難しい。世界的に有名な散歩として「汎ヨーロッパ・ピクニック」がある。複数人で場所を決めて散歩することは可能であろうし,小規模な集会も可能だろう。もっとも,現状においては外を出歩くことは危険であり,いつ感染してもおかしくない。最小限行う最後の抜け道の一つにすべきであると考える。本来必要もしくは急を要することであっても,政府や警察にとって「不要不急」と解釈される可能性はある。