コンテンツと体験、そしてユーザー

コンテンツの終焉
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で、コンテンツから体験へという軸のシフトを提唱している。
現在のコンテンツ論は、消費社会論から来る情報社会論やサイバー法にかかわるものが多い。これらはコンテンツを取り巻く環境に注目しているが、一方でコンテンツ自体を見ていくにあたっては、メディア論とインタフェース論という2つの視点があり、その2つがまさにここで挙げられているコンテンツか体験かという区別にざっくり対応している。

確かに体験という視点を導入するのはよいことだ。しかしそれはコンテンツという視点を捨てていいということではない。それはどういうことか、ここではメディア論を垣間見てみる。

メディア論の大御所マクルーハン(「コンテンツ」という言葉を作った)の分析用語の一つに、「参与」がある。これは、あるメディアを通じて情報を受け取る際に、情報が少ないと受け手の人間の側が自分からメディアに関わって受け取っていかないといけない。その度合いを表した言葉で、他の言葉とセットで「高参与度=クール=低精細度」「低参与度=ホット=高精細度」という対応になっている。例えば、写真、ラジオは参与があまりいらず、漫画、テレビは参与が必要とか当時は言われていた。

この「参与」は、裏を返すと人がどんどんコンテンツに参与していくことで、その人から見てコンテンツ自体がどんどん変わっていくことも示している。そう、コンテンツといえば映像とか音楽とかデータとして与えられることが多く、固定されたものと思われがちだが、実は見るたびに姿を変えていくものなのだ。参与度が高いメディアではユーザーは常に新しい体験をし続ける。それゆえに人を惹きつける。

参与で新しい体験を得たユーザーは、それについて語りたくなる。哲学者のベルナール・スティグレールは、そんなユーザーを「愛好者」と呼んでいる。彼らは集まって、語り、新しい価値を生んでいく。コミュニケーションが面白くなるのは、そこからだ。まず、参与が必要だ。

さて、体験、インタラクティブなコンテンツを考える上では、落とし穴がある。情報社会分析では「ネット=インタラクティブ=高参与度」みたいなことがよく言われている。だが、ちょっと待ってほしい(朝日新聞風)。果たしてインタラクション=参与なのか。

よく新製品の広告で「新しいユーザーエクスペリエンスを与える」などとある。このような製品では、ユーザーはみな「このように体験してください」とガイドを与えられ、それに沿って新しい経験をする。遊園地のアトラクションのようなものだ。いつも、だれでも同じ体験をする。それって、参与なのかな?と。インタラクティブなメディアは、参与度が低い場合もある。体験だけを追い求めても、新しい情報は生まれない。

革新的なメディアは、参与によって受け手を変えてしまう。と同時に、変わった受け手はコンテンツとまた違った視点で関わる。だから、一回限りの体験なのは当たり前なのである。