人間の定量化と低評価について

 私は基本的にネガティブである。喜ばない。その背景には,相当に凝り固まった価値観があるのではないかと思う。13年前に人生が終わってドロップ・アウトしたことは13年かけて解消できたが,もともとの人格に由来するものはなかなか変えられない。その鍵というのが定量化である。

人は産まれてすぐに数字を与えられる

 産まれてきたことのことを覚えているだろうか。これはフリで,覚えているかどうかは特に関係ない。ただ,日本で産まれた人間なら,少なくとも産まれた瞬間に2つの数値が与えられることがわかる。生年月日と出生時体重である。

 この2つは,既に人間の優劣をある程度決定する。年度初めが4月であるため,2月生まれと5月生まれは学校においては幼少期には成長に差があることがわかっている。その優劣は時として一生を左右する場合もある。

 出生時体重については,低いと「未熟児」とされる。私は9ヶ月で産まれた2000gである。持病を持つ母から産まれた時に死にかけていたようで,そのまま死んだほうがよかったのだが,病院においては手と足がついているということで生かす決定がされた。手と足がついているが,あとからいろいろ障害が見つかって困っている。

フェアな数字は人を定義する

 小学校のことを考えよう。身体測定,学力テスト,体育などで1年で自分に関する数値が大量に生産されることがわかるだろう。まあただ,多くの数値は茶番であり,参考にしかならない。

 その中でひときわ異彩を放つ数値がある。偏差値である。これは1つの大学に落ち着くまで人間を序列化するもので,その後の人生でもしばしば言及される。偏差値は小学生にとっては唯一無二の力を持つ。1つには中学受験が人生を決めるということもあるが(これはある程度正しいが,ある程度以上は正しくない),それは副次的だ。

 重要なのは,偏差値によって全国で同じ条件・基準で計測されたユニバーサルな順位がつくということである。他の指標ではそうはならない。例えば平均身長というものがある。しかし,身長に全国順位はつかない。塾ではつく。だから,小学生は自分を定義する指標として偏差値を導入するしかないのである。

 もう1つ重要なのは,偏差値の教育的機能である。一旦数値が決まると,それをもとに何をすべきか推論する。自分がどこの中学に入れるか予測できる。そういった,定量化に基づく意思決定を一通り学ぶのである。この偏差値という数値そのものが妥当かどうか,またその後に役に立つかはさておき,数値によって自分に関する物事を取り扱うということそのものは,今後のものの考え方を左右することになる。

定量化できない世界において人は数値を求める

 さて,時間を飛ばそう。人は一定を超えると偏差値から解放される。同じ条件・基準で計測されたユニバーサルな順位は存在しなくなる。あえて言えば年収だろうか。しかし年収は相当程度に恣意的なので(官僚が課長級まで横並び出世なのは,偏差値競争にさらされた人間が過度な競争をしないようにするアレだと思う),自分がどういった人間かを示す指標には一定以上はならない。年収だけで人を見ると多くの場合破滅する。

 しかし,比較され続けた人間が指標から解放されることは難しい。偏差値の代わりとして社会に登場するのは,莫大な「あの人はこれができて,あの人はできない」である。例えば彼女がいるいない,技術があるない,面白い人間かそうでないか,などである。

 これらについてはいくつかの選択肢が存在する。1つには定量化をしないということ,2つ目は統計を使うというもの(例えば彼女がいるいないは,毎年調査されている),最後ができたことに1,できなかったことに0を付与することである。

無茶な数値化は人間を自滅させうる

 この最後の手法が危険で,使い方を誤れば人間を簡単に破壊する。まず,同じ条件・基準が一見存在するように見えてそうでないことが挙げられる。例えば「彼女がいるいない」においては,同じ日に同じ対象と会ってスタートという条件は通常揃わない(揃っちゃった場合があって…この話はやめておこう)。基本的にはその人固有の人生の中で達成することである。このため,「彼女がいるいない」で0と1を付与したところで,それは優劣を意味しない。しかし,0と1を付与することそのものが,無駄な比較を行わせる。

 もう1つが,指標を自分で設定できるということである。偏差値は指標を誰かが決める。しかし,世の中には指標となりうるものは数え切れないほどある。その中でどの指標を選ぶかというのは,自身の評価を自身で決定することにほかならない。指標的世界観に則れば,指標の選択がうまくいったかどうかの指標を考えなければならない。それは,おそらく指標をうまく使いこなして人生をうまく生きることができたかということだろう。

 私はそこで最悪の選択をした。自分ができたことは胡散臭い。できなかったことは確からしい。だから,自分が0を取るような指標を徹底的に採用した。ここがユニバーサルな指標と異なる点である。「採用しない」ということが許されるのである。その結果,「自分は何もできない」という結論に至った。もちろんこれは単なる指標であって,私が生きているということは何もできないことはないということだろう。しかし,私はそう思えなかった。世の中はできないことで満ちている。そして私は無力である。そういった価値観でずっと生きてきた。

不健全な数値で自滅する癖のついた人間に,健全な数値を与えても駄目だった

 さて,私は働きながら博士課程に所属しているが,だからこそ仕事に役に立つこととか研究者としてのキャリアなどは考えず,難しい問題に時間をかけて取り組みたい。生涯学習の視点である。結果的に研究分野から立ち上げることになった,というか,研究分野が作られるまさにその時点にいる。非常にエキサイティングであるが,この戦略が博士号取得そのものにとって良くないことは様々な資料で指摘されているが,それはおいておこう。

 研究は,健全な数値指標が普及している数少ない分野である。つまり論文の本数やIFである。これが健全かどうかは疑義に付されており,様々なオルトメトリクスが提案されているが,例えばソフトウェア開発案件の見積もりに比べたらだいぶましだと思う。ちなみに,ソフトウェア開発については私は常に0点である。ソフトウェアには完成がない。

 その中で研究分野を立ち上げるということは,数値に現れない作業である。例えばある研究者が極めて筋の良い思いつきで研究をして成果を発表する。それをもとに,自分も成果を出せるのではないかという人々がたくさん集まってきて自分の領分で研究をする。それが積み重なった結果「自分たちは一体何を対象に何を明らかにしようとしているのか?」ということが明確ではなくなる。それを明確にしていく作業は骨が折れる。

 骨が折れる数値に表れない作業は,何でもかんでも0点を与える人間には不向きである。学会発表は何度かしたが,投稿論文はまだ一通も出していない。人文では割とよくあることではあるが,自身の論の正当性を論じるには必要なフェーズである。そして,それは本体の相当程度を占める。進んではいる。しかし0点ではあり続ける。優秀な学生は修士論文を雑誌論文としてリライトして投稿し,1点を取る。私はそれができなかった。もう4年目が終わる。0点。

 この0点は,私が自身に与えたものである。論文の本数という健全な数値指標を装っているが,そもそもそれは「研究者の成果」の指標であって,「研究という活動」の指標ではない。回り道をして,間違え,至らず,至りそうで,そうやって行き着くのが「1点」である。それを無だと断ずることはできない。

 ようやくいけそうなところで,上に挙げたような心理的な妨げになっているものを発見した。0であり続けた人間が,否定できない1を得るのは怖い。今戦わなければならない。博士課程からは既に研究の技法以外に多くのことを得ている。過去を克服でき,そして今を肯定できるかもしれない。

競技というもの

 その過程で競技スポーツに関心を持った。私は体力がないので,もちろんゲームである。リアルタイムアタック(RTA)というジャンルがあるが,そこではルールが厳格に決められ同じ条件でタイムを競う。とは言っても私はゲームが下手だ。なんかを競技としてやりたいが,できそうなのはないか。

 そんな事を考えていたら現在開催中の「アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ」のイベント「Needle Light」が始まった。このイベントは推しの上条春菜が上位報酬のイベントで,おそらく次はないだろう。前からイベントでできるだけ早く10000pt報酬のアイドルをお迎えするというのはやっていたが,今回は18000pt。本気で最速を目指してみよう。暇がないというのもある。

 さて,これは競技の条件を満たしている。まず,明示されてはいないが15時という横並びでスタートして全力で走る人間が一定数いるということ,次に,ソシャゲの最終的な順位は課金によるのでこれが外部要因になりうるが,18000pt程度なら課金する必要がないということが挙げられる。つまりこれはフェアだ。ちなみに動画記録をする気はないのと,レギュレーションが共有されていないので,RTAではない。

 さて,始まった。ランキングは一定時間で更新されるが,皆全力で走っているので更新のタイミングによっては滅茶苦茶である。私は最高9位だった。だんだん離されていく。時間あたりのポイントが高い曲は難しく,終わったら手が動かなくなって結果的にポイントが下がる。曲をプレイするたびに「アー」とか言ってその分がロスになる。たまにランキングを見てしまいこれもロス。最後の方は嫌になる。嫌になったらとにかく手を伸ばす。走れる。最後の2回をやる直前に,上条春菜役の長島光那さんから「チョクメ!」が届く。読みたいが,ここで走りを止めたらだめだ。

 そして5時間13分の戦いが終わった。もともと理論値と比べて2割ほど低いことを概算していたが,最速は4時間弱のようだったので(人間は理論値にたどり着ける),概ねあっていた。34位くらいだったようだが,まだランキングは暴れていた。この,34位という数値に意味はない。ただ1つ言えるのは,俺はこれをやったということだ。