読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

俺のレールと人生について

「レール」という言葉をきっかけに男たちが人生について語っている.

大学院在学中にレールに乗ったまま起業した話 - chokudaiのブログ

本の虫: レールに沿わない人生を送っていたら、未だにレールに乗れていない人間のお話

俺もちょうど人生の節目が来ているので,人生について語るとする.全部入りは初めてだと思う.

良かった頃

 俺は1985年,東京葛飾に産まれた.出産は東京女子医大だったと思う.柴又ではなく立石なので寅とは関係ないが,様々な場所に出入りして女性と出会い,別に何もせず「こういう女性っていいな」と思いながらその後会うことはなくなるというのを何度かやっているため,寅の精神,スピリット・オブ・トラは継いでいると思う.

 小学校3年まではまあ凡庸だった.父親は電話設備の会社をやっており,光ファイバーを引ける数少ない人物として重宝されていた.給料も良かった.母親は重度のてんかんで何度か死にかけており,俺が小学校2年の時にいよいよ死ぬ可能性が高まったため,当時治験中のVNSという迷走神経を刺激して発作を止める装置を入れた.結果が医学論文にイニシャル付きで掲載されているのを数年前にインターネットで見たが,なくしてしまった.VNSは「安全だ」と言われているが精神に悪い影響を及ぼすようで,母親と同じ時期に装置を入れた人間は死んだり狂ったりしてしまった.その時期父親が何を狂ったか銀座のクラブにはまり,借金を5000万ほど作った.家には大量の督促の電話が届いた.

成績は良かったが家庭は壊れていた

 結局駄目になり,母親と東京中野の実家に夜逃げした.父親とは1年後に離婚した.この時小学校4年であるが,中野に受験塾の四谷大塚の本校があり,入塾試験を受けたら俺がとても偏差値の高い人物だということが判明した.それから母親の頭に火が付き,しかし金が無いため過酷な自宅学習を受けた.朝食前に覚えてもいない漢字テストをやらされ,当然できず,怒られるところから始まり,夜は1問間違えたら延々と怒られ,怒り疲れたら寝るというありさまだった.それでも俺は信じていた.良い中学に行って良い人生を送れるということを…

 開成と筑駒と城北を受けた.城北だけ受かった.城北も悪くないところである.行けば良い人生を送れるだろう.しかし母親は言った.金がなくて私立には行かせられない.結局,区立の中学に行った.そこが周辺でもっとも荒れた中学だということを知ったのは10年後のことである.中学が始まった直後,祖母と母親と俺で暮らしていたのだが,祖母に2000万の借金があることが判明した.いろいろ揉めた結果追い出されることはなくなった.その冬,母親が俺の受験と祖母の借金でいよいよ疲れたのか,狂った.なんだかよくわからないことを言いながら徘徊する生物となり,とりあえず救急車で東京女子医大に搬送された.緊急なれど病床がなかったため手術室に寝かせたら,手術道具を全部壊して帰ってきた.俺に「お前は馬鹿だから最初から教えないといけない」と言われ「あいうえお」から教わった.

 俺はぐれた.ホームレスになり,タンポポを食べたりして生き延びた.半年後帰宅した,精神科の治療が効いたのか母親は割とまともになっていた.俺は原宿の代々木ゼミナールの授業料を免除され,高校受験を目指すことになった.インターネットを始めたのもその頃である.正直,受験は嫌になっていた.もらった夕食代を全部インターネットカフェに使い,代ゼミでは授業の最後の10分テストが出席を兼ねていたため,それだけ受けて帰っていた.10分テストの成績は1位だったが,新しい生徒が入ってきて2位になったので1位を取り返した.

 高校は東工大附属に行った.中学から「お前ADHDだろ」と言われたことがあるし,突然ブチ切れたり精神が不安定なのは自覚している.規則にも従えないし時間も守れない.だったら校則のほとんどない学校に行けば良い.高校では定期券が秋葉原を通ったため秋葉原に毎日,週8で行ったこともあった.高校自体については以下を参照.

niryuu.hatenablog.com

 東工大附属は凄く,どんなにブチ切れたり問題を起こしてもテストの結果さえ良ければ良い成績が取れた.このため,推薦で電通大の情報通信工学科に進学した.

人生が駄目になったので死ぬつもりで社会学

 大学入学後1年間は割りと普通の理系大学生をやっていたと思う.成績は上の下程度,オタサーの姫もいたし,駄目な人間もいた.1年後,母親がVNS装置のもたらす負担についに嫌になって,装置を外してもらった.その1ヶ月後,亡くなった.俺は大丈夫なように見えて徐々に弱っていった.2006年6月2日,必修科目「情報通信工学実験A」を落としたのが決まった.いわゆる留年である.

 完全に理系への自信をなくしていた.もしかしたら情報工学科でプログラミング言語論や計算論などをやっていたらそれなりに才能を発揮できたかもしれない.しかし,情報通信工学科は電子工学を含む.そこはからっきしだったのだ.もっとも,そういったことは些細なことである.その頃「べき乗則とネット信頼通貨」というコミュニティに所属しており,そこで社会学の重要性を教わって独学を始めた.やるべきなのは,面白いのは,社会学だ.社会学をやる.電通大には人間コミュニケーション学科があり,そこで社会学の文献を読んでいる情報経済論のゼミがあった.転科は2年次でしかできないので,3年次編入学試験を受けた.鬱で昼間外に出られないのと,金が無いので,夜間にした.夜間で合格は俺だけだった.情報通信工学科は退学したので,留年ではない.

f:id:kybernetes:20160920200353p:plain

 人間コミュニケーション学科は良い学科で,教授も素晴らしく,無事卒業できた.途中で発達障害と診断され,今に至る.その後,社会学の一分野たるエスノメソドロジーに人生を賭けるべく,埼玉大の文化科学研究科の修士に進学した.埼玉大ではヒューマンコンピュータインタラクション,特に当時流行っていた拡張現実感技術がどう人に使われるのか,もっと言えば空間というものがどう会話や身体的相互行為によって扱われるのかを研究した.ここも素晴らしかった.しかし,自分で決めた研究テーマだったし,コードも書いて社会学的分析もしてというのは難しかった.その時の経緯はここにまとめてある.

d.hatena.ne.jp

追記:この記事の段階ではまだ研究は終わっていなかった.あと1回実験をやり,そのおかげで空間というものを人がどう理解しているかについての深い洞察を得て修論は完成した.遅きに失した部分はあったが少しは光明は見えていた.研究については情報処理学会にて発表をしようとしたが,当日に嫌な予感がしてサボってしまった.2011年3月11日の話である.

社会学は厳しかった,しかし社会はもっと厳しい

 正直俺には研究は向いていないと思った.修士2年の5月,オープンソースSNSの会社でバイトを始めた.将来そこに就職できたら生きることはできるだろう.そして修士修了直前の1月,海外のスタートアップのCTOを探しているという話があり,おっCTOと思って飛びついてしまった.その結果は以下のとおりである.

niryuu.hatenablog.com

 まあこのことは置いていこう.修士を出てCTOとして破滅して9ヶ月間は曖昧に過ごした.オープンソースSNSの会社に出戻ってバイトをやったり,映像配信機器のテスターをやったり,Android開発の先生をやったりした.2012年の3月,いよいよ金が尽きそうになった.1月に今の社長と最先端のコンピュータビジョン技術をiOSに移植する単発の案件をやったのだが,それが良かったようで今の会社の正社員となった.正直正社員などできると思っていなかったが,勤務先自由,完全フレックスという破格の条件である.また,基本的には地理情報に関する経路探索などのアルゴリズムの研究開発ということだった.できるかもしれない.

 入社したところ,研究開発はなかった.案件を3つやって,3つ目で俺特有の人とのコミュニケーションで負担を感じたり悪意を感じやすい性質と,ブチ切れてしまう性質が発してしまい,案件から離れることになった.1年間自社サービスを作っていたがどうも成果は出ず,申し訳ない気持ちになった.そんな中,社内での人のリソースが足りない状態で難しい技術が必要な案件が始まったので,「できるかどうかわからないがやってみる」と決意し,案件に戻った.

俺,どうなってしまうんだろう

ここからの人生はいろいろなことが錯綜する.

 1つが実家の壊滅である.2013年,叔父が脳卒中心筋梗塞をやって働けなくなった.バブル期に借りた金が億単位の借金になっており,それがまだ少し残っていた.祖母が連帯保証人になっていた.このままでは家がなくなってしまう.俺は稼ぐために本業の他にフリーで案件をやった.デスマーチを1つ引いてしまい,とてもひどかったのでスライドにした.一部の人々には見せているがまだ公開できない.その後,叔父の妻が亡くなって死亡保険金で借金は払えることになった.その数ヶ月後,祖母が倒れた.脳卒中だった.このあたりについてはあまり書きたくないのでリンクを貼る.

niryuu.hatenablog.com

niryuu.hatenablog.com

 1つが博士課程進学である.案件から離れた次期に,日本社会学会の大会があった.そこで知的に興奮し,才能はないが研究は続けたいと思った.数年間ゼミに潜らせてもらった.その途中で実家が壊滅した.資金面や生活面(介護)などで強い制約を受けてしまったのを経験したため,人生でやっておきたいことがあるなら今どんなに無理をしてでもやるしかないと思った.ちょうどその時今の教授が院生を取れるようになった.今しかない.今度は慶應義塾図書館・情報学の院に入学し,社会学をやっている.社会人院生でまた多少難しいテーマをやっているため苦労もあるが,今度の学会発表はうまくいきそうだ.良い師に恵まれていると思う.

 そして仕事である.案件は3年目を迎えた.案件の進行上,最先端の技術だけをやるわけにはいかず,どうしても顧客とのコミュニケーションが必要になる.また,この案件はマネジメントが難しい状態になっていた.正直,社会人院生のためデスマーチに巻き込まれるのは勘弁して欲しい.その思いから常に気が立っており,状況を悪く捉え,顧客とのコミュニケーション上の新しい技術なども導入したが限界が来てしまった.今年の9月16日,これ以上は無理ということで案件から離れた.やはり俺には案件は無理だったのだ.

 今,絶望の中で,学会発表の予稿の合間にこの文章を書いている.今後どうなるかはわからない.最悪のケースを考え,今年2月に休職した際の傷病手当金の期限を計算した.また,失業保険が障害者の場合300日まで延長されるということを知り,障害者になれば博士課程3年までもつということがわかった.その上で会社でできることを探していくことになる.社長はこんな俺にもまだ能力が高く,可能性があると言ってくれている.

結論

 俺にはchokudaiさんのような才能はない.しかし,それでも良い人に導かれればそれなりのことができるし,そういう意味でのレールというのは素晴らしいものだと思う.また,俺は江添亮が嫌いであるが,結局運だということについては同意する.それを踏まえた上で,レールに乗るか外れるかなんて考えていられる時点で,恵まれているということをわかってほしい.