論文というやり方には限界がある

先月の今日、大規模言語モデルコミュニティの懇親会で言われたことがある。

「なんでそんなに論文にこだわるんですか」

私はこう答えた。

「書く必要があるでしょう。研究者として」

この回答は、論文を提出した直後だったから気が張っていたというのもあるだろう。

今振り返ってみると、一昨年の今日から、2月25日から論文というものに振り回されていた。

そして、正直こだわる必要はないと感じた。

以下に、その理由を述べる。

前提: ここでいう論文とはなにか

例えば以下の書籍では、「論文とは、アーギュメントを論証する文章である」と定義されている。

つまり、分解すると「主張したいこと」と「その主張が適切である理由」を、「構造=論証」をもって提示するものが、論文である。それゆえ、まずはっきりした主張が必要である。次に、文章という構造に制約された形、つまり「わかりやすい形」での論証が必要である。いったんこれを前提とする。そのうえで適宜様々な側面について触れる。

(1)論文を書くことそのものが研究作業であり、研究方法を強いる

これは書いている人なら直観的にわかると思う。分野にとってはテーマを決めたら論文を書き始め、研究を進めるとともに論文も書き上げていく、というスタイルがあるくらい、論文は研究そのものと密接にかかわっている。

さて、ここで問いたいのは「研究」と「論文」の関係である。「研究があり、それを報告するものが論文である」とはいえるだろう。論文とは、研究のコミュニケーション手段の一つである。しかし、本当にそうだろうか?

論文を書くことは、「読むだろう相手にとってわかりやすい文章を書く」ことでもある。特にピアレビューにおいては、わかりやすさが重要になる。だとすれば、「わかりにくいものをわかりやすくする作業」が論文に含まれる。

この「わかりにくいものをわかりやすくする作業」は、まさに研究そのもの、何かの物事を解明することではないのか。例えばよくわからん人間の行動を統計で解明する、AIの知能をベンチマークで測るといったことで、人間やAIといった対象が「わかりやすく」なる。論文を書くことによってわかりにくい対象をわかりやすくするというのは、まさに研究方法である。

だとすれば、どんな分野でも最終的な成果が論文になるとすれば、さまざまな分野の研究方法に加えて、「論文を書く」という「研究方法」がついてまわることになる。それは、この方法が研究に向いているかどうかによらない。もっと言えば、論文化できないことは研究では扱えないのだ。

(2)「研究方法」としての論文執筆の限界

論文を書くものにとって「パラグラフ・ライティング」という言葉を聞いたことのない方はいないだろう。つまり、段落を分けて、各段落の役割を決めて並べていく。そしてパラグラフの集まりが「アウトライン」という章立てを構成していく。

これは、論文=研究を構成する各要素のかかわりを、連鎖的な構造(前後関係)と階層的構造(章立て)に制限することになる。それに加えて、IMRADなどのテンプレート的な章立てがかかわってくる。

しかし、連鎖と階層だけで、要素が相互に関連しているような研究は表現できるのだろうか。例えば対象、方法、結果の関係を見てみよう。方法を決めると「対象をどう見るか、どう定義するか」が変わる。結果が出ると対象の性質に加えて、対象と方法の関係もわかり、変わっていく。そして、対象が変わると方法や結果の性質も変わる。

論文は、この相互作用を断ち切ることで成立する。対象、方法、結果は「とりあえず今の段階の」対象、方法、結果になる。それによっていったん意味が定まり、コミュニケーション媒体として成立する。

しかしそれであれを決めたらこれが変わる、これを決めたらあれが変わるといったダイナミクスを表現できるのか?例えば、ハイパーテキストはそれを緩和する一つの手段である。おそらくハイパーテキストにも当然限界はある。しかし、論文というフォーマットに何十年も前のハイパーテキストすら導入されていないということは、ダイナミクスを扱う「気がない」のだろう。

そして、大規模言語モデルのような「対象が何なのかまるでわからない」ものを扱う際に、論文の持つこの問題はクリティカルになる。たとえば「大規模言語モデルにおける指示とは何か?」それは相当程度に研究を進めても決まるものではない。なんなら分析をすればするほど定義できないことがわかる。「定義をしろ」とレビュワーは言った。わかる。Working Definitionは重要だ。しかし、それは対象を覆い隠して、それ以上迫ることを困難にしてしまう。十分にわかっていない状態でやることではない。

ゆえに、「論文を書く」ことは研究対象を分解し、整理しなおすという「方法」だが、それには限界があると考える。特にAIやLLM系の論文を読んで驚くことが「Appendix」つまり付録の多さだ。本文10ページで付録30ページは普通だ。それだけ論文の「本文」にできない「研究」があるのだ。

(3)「論文を書き続ける」ことで研究は進むのか

研究によっては、ものの見方を根本的に変える必要があるフェーズがある。しかし、それは「論文」で表現できるのだろうか。

言い方を変えよう。「わかりにくいものをわかりやすくする」、さらに「わかりにくいものをわかりやすくする」、その玉ねぎをむき続ける作業でどこまで対象に迫ることができるのだろうか。わかりやすくしていった果てには、根本的にわかりにくいものが残る。

根本的にわかりにくいものが残ってしまったら、「わかりにくいまま」研究して提示していく必要がある。それは本質的に論文にはならない。しかし、核心をとらえたかったらやるしかない。その作業は、論文の枠組みを超えてしまう。

哲学や理論的な書籍では、「難解な」ものが知られている。私の分野ではGarfinkelのStudiesやフッサールの論理学研究などがこれにあたる。サッチマン「プランと状況的行為」なども割とクリアだと思うが難解で知られている。それらを「論文」という「方法」で書くことはできるのだろうか。

確かにできるだけわかりやすくする努力は必要である。しかし、その先はわかりにくさを抱えた世界になる。

小括: 俺はしばらくは論文を書きたくない

このような文章を書くくらいには、俺は論文が嫌になっている。正直、先に挙げた「大規模言語モデルにとって指示とは何か」は「わかりにくい」ことがわかった。それを研究する新しい研究プログラムが必要だということがわかった。そのためには、「難解な」本を読んで突破する必要がある。その過程で、「難解な」ものに慣れてしまったのかもしれない。

あと、単純に俺は物事をわかりやすくすることが苦手だ。実に苦手だ。どこに行ってもわかってもらえない。割と頑張ってる方だ。だけどだめだ。論文の書き方の本、どれだけ買ったと思う?なんかダメなんだよ。

論文というやり方に則れば、名声なり取り逃がしたPh.D.への道もあるだろう。しかし、それらを蹴って得ることのできる価値があるか、という判断があり、多分その価値はあるんだろうな…損な人生だよ。

ゆえに、俺は少なくともしばらくは論文を書くということにこだわらない。一生かもしれない。もちろん、それによって進むことがあるなら書くが。

なんだろう、徒労だった。