コロナ後に「平時」を取り戻す際の考慮をしたかった

Twitterの投稿がバズったので一時的にあまり見ないようになった。このような投稿がバズるのも世相を表しているとは思うが,バズは人間の汚い部分や偏見もさらけ出すのであまり好きではない。

 ここ数日,私にも「コロナ慣れ」のようなものが来た気がする。あからさまな鬱症状は普段に戻りつつある。現状に対する不満も消えつつある。これを単純に良いと捉えてよいかというと,微妙である。「自粛」「三密」「行動変容」といったよからぬ環境に対する不満というのは正常な反応で,それに対する感覚がマヒしている印象がある。どちらかというと死の受容のプロセス

ja.wikipedia.org

に近い。

 さて,前の記事でも指摘したように,感染症対策に対する総動員体制を批判することは難しい。感染症対策の専門家の意見は一般の意見を変える政治的な影響力を持ち,保守,革新,穏健,過激を問わずほとんどの政治的スタンスは自主的に行動を制限する方向に向かった。それに異を唱える声はかき消された。私にも公開できなかった記事がある。

 状況は少し変わり,医療従事者内部,評論家などから過度な行動制限の促進を危惧する声が出てきている。

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 両方が「家畜」という表現を使っているのは恐らく偶然で,あまり好きではない。しかし,「医療による死の恐怖は、まるで国民全体を徐々にカゴの中へ誘っているのかのようだ」「世界はコロナの恐怖に駆り立てられ、自由や人権についての議論をかなぐり捨てつつある。」といった危惧がようやく出てきたというのが重要な点だ。

 もちろん,これは今コロナ対策の手を緩めるべきということではない。程度や認識はともあれ世界的に先進国がとっている方策と離れているようには見えず,実際にある程度の効果はあげるだろう。COVID-19のもたらす健康的・経済的・社会的影響を抑えるためには今しばらくは現状を続けるしかない。それがいつまで続くかはわからない。個人的には慣れてしまったもんは仕方がないのだからその方が都合がよい。

 さて,重要な論点が「コロナ対策が終わった後,適切に制限を解除し,自由を確保できるのか」という点である。今,自由は制限されている。確かに,緊急事態宣言下でも我々は自由に国内を移動でき,危惧していた警察力の強化も,警察官の感染コロナ対策にキャパシティを割くことによる基礎的な治安の悪化の懸念などから二の足を踏んでいる。しかし,私たちが基本的に消費社会の下に生きている以上,そしてその多くが未だ対面で行われる以上,「不要不急」店舗の閉店は私たちの実質的な行動の自由を奪っていく。インターネットにおいても,そもそもCOVID-19関連の情報が洪水状態にあり,多様な情報に触れ,発信する機会が急激に減った。

 下手なことを言っちゃいけないと思い,Wikipediaの「自由権」の項を見たところ,驚いた。今の状況で,精神的自由権経済的自由権の多くが制限されているではないか。礼拝は三密で制限されている。学校は閉鎖。集会やデモは元から終わっている。今海外渡航したり,都民が疎開したら村八分。夜の仕事は選べない。今まで整理しなかった私が悪かった。

 正直,この記事を構想した段階では,表現の自由,集会・結社の自由についてだけ述べるつもりだった。そして,日本にデモを許容する文化,健全な議論や政権運営を行える野党など,それを支える基盤がないことも述べるつもりだった。だが,実際の状況はそれより悪い。もう少し整理してから続編を書くことにする。皆も考えるとよい。