近未来思考システムZETUBOU

俺がまともにものを考えて言えるようになったとき、既にソーシャルメディアは存在した。割と難しい、日常生活以外の問題に関して、専門家でなくても、専門家がいても自由に議論をできる環境だ。まあ俺も新しいものや今議論の渦中にあるものにはいろいろ飛び込んで来たが、割と絶望している。

結局専門家以外が集まったところで、できるのはせいぜい知識を共有して各人が実行に移すことくらいで、まあそれはその世界を広げるのに重要なんだけど、何かクリティカルな部分、例えば、高度に依存しているが不安定な要素があったり、2つ概念があったらその2つの間が不特定だったり、そういう部分に関して何の答えも与えることができない。できたところを見たことがない。せいぜい専門家の割と距離を置いた回答を共有するくらいだ。

まあ、割といろいろ考えてそうな有望そうな人はいて、クリティカルな問題こそ避けているがいろいろ新しい発想が出たり、問題を掘り下げられる人間同士で集まったりはする。俺は割りと常にそっちの側にいた。そのほうが楽だし楽しい。ところが、やっぱりそういうクリティカルな問題に目を向ける人はいなくて、目下そういうのは必要ないと思ってる。

俺もいろいろ頑張ったが、やっぱりそういう問題をマイルドにでも口にした段階で、みんな口が凍るね。曖昧にする回答や、ふたをする回答はあっても、その理解を広げるのにつながることはみんな言えない感じだ。ひょっとして空気を読んでるのかもしれないし、目下目先の問題に取り掛かるために忙しいのかもしれない。そういった場合、俺は何度か絶望してきた。

だんだんそれは単に絶望してるだけでなく、一種の芸風として身についてきた。これ以上何も進展しないというポイントと、何が誰も知らないことなのかがわかってくる。絶望はするが、それは形式化された。そういうのが普通の結果だと思うようになった。

で、ある程度で議論のメインから外れ、自分ひとりで考えるようにしたのだ。まあ最初から考えるのが好きだってのはあったが、そうやって一人でできるところまで考えぬいたことが膨大にある。答えが大学にありそうだったら容易に大学の専門分野も変える。たまにそういうことを発表することもあるが、新しすぎて理解できないと言われる。ただ、そういうのは悔しいし、もったいないので必要とされるときまで1年、2年、3年も寝かす。

で、時間が経って業界がこなれたころ、そういう種の知識が突然必要になるのだ。そのときは問題も即座に体系的に捉えられるし、解決策が見つかる場合もある。最近そういうのが増えてきた。

こういう、根本的な問題に関してコミュニティから離れて一人で考え抜くシステムを、その中心である絶望からとってZETUBOUシステムと呼ぼう。誰も知らないところまできたら、アウトプットをやめよう。共有をやめよう。全てはそのうち思考にとって窮屈になる。誰も受け手がいない場所でメディアなど成り立たない。全てを内に込めるのだ。