天才は作るモノの特徴ゆえにそう言われる

天才ハッカーと企業とのつきあいかた
天才コンプレックス
- shi3zの日記
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20080508

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一応、2記事セットで引用させてください。

主に「天才ハッカーと企業とのつきあいかた」。


この議論の核になっているのが、天才を分類した表にあると思うのですが、この中で「誰が天才か」という根本的な線引きがなされています。ただ、彼らが天才と呼ばれる、あるいか認識されるのは、これを見る限り、彼らの成果物にかかっていると思うんですよね。ということは、技術、あるいはメディア、サービス、何でもいいけれど成果だけを見れば既に「これは天才の産物だ」とわかるわけです。


その中でも、まさに天才特有のものを抜き出して見ると、それがいかに特殊な特性を持っているかがわかります。特に私の専門である人間の知能を拡張する道具に絞ると、以前の日記で私が取り上げたPC概念のアラン・ケイ氏とニコニコ動画のkoizuka氏が当然のようにあがっています。あと、ニコニコ動画に関わっている天才といえばUEIの功績は計り知れず、shi3z氏自体も欠かせない。記事の分類で言うと「ビジョナリー」ですかね。「情報技術が与える経済的・社会的インパクト」なんてものに関わっているのでそりゃ登場当初の状況は欠かさずチェックですよ。


で、この2つはざっくり言うならメタメディア性、人の使い方によって違うメディアとして現れることは

ニコニコ動画はメタメディアである、パソコンがそうであったように
http://d.hatena.ne.jp/kybernetes/20080310

で既に述べました。ですが、この特性がある、まさにそのことによってこれらのメディアは凡人には作れないものになっているのです。


順に追っていきましょう。まず、ここで取り上げるメディアを「人の使い方によって価値、意味づけの形がまったく変わるメディア」とします。これを、普通のIT企業がサービスをリリースするプロセスに乗せることを考えて見ましょう。どこで頓挫するでしょうか。なんと最初の段階です。つまり、企画の段階で、これらのメディアは決定的に完全なプレゼン、収益予測が不可能なのです。


まず、これらのメディアは使い方なしでは存在できません。ECサイトなどのように「こう使う」ということがあらかじめデザインに組み込まれており、誰が使ってもある程度同じ使い方ができるものなら問題はないのですが、これらのメディアは使ってみないとわからないし、使いながら使い方を発見、創造、共有していきます。その場合、一度世に出てある程度使い方が観察できるようになって初めて「このメディアはこういうものだ」ということがまがりなりにも言えるようになります。その上で、各使い方に応じたビジネスチャンスも当然生まれてくるでしょう。しかも、もちろんそのメディア像が常に更新されるということを考えなければなりません。何しろ、既存の使い方に関わらず新しい使い方が生まれる可能性があるのですから。


たとえば、twitterの例を見てみましょう。普通のtwitterに関する説明は、「今何をしているの?を共有できるゆる〜いメディア」といったところでしょう。twitterはまさにこれを使い方の代表としてプレゼンし、世に出されたものです。しかし、twitterはあまりに簡単すぎるため、人によっていろいろなつながり方ができるようになってしまいました。要するに、一部でゆる〜いコミュニケーションと対極の、深い議論が行われるようになってしまったんです。議論の場合、「今何をしているの?」の時間軸ではなく、「発言1」→「発言2」→「発言3」→…と言ったような、時計的な時間ではない議論の前後関係による時間概念が生まれます。


これを「間違った使い方」ということはできないでしょう。ましてや「twitterの流行によりゆるい関わりがネットで主流になってきている」という分析も怪しくなってきます。確かにそれがマジョリティということもできますが、ユーザーにとっては自分が使っていることが唯一であることは誰にも否定できません。


となると、全体としてのパーソナルコンピュータ、ニコニコ動画twitterを誰も知らないし、知りえない。使ってみて、観察して、今を理解していくしかない。メディアが世に出てさえそのような状態なのに、企画の段階でプレゼンする時点でメディアの可能性のどれだけがプレゼン、試算の範囲に含まれるのでしょうか。たいがいの場合非常に的外れなものになるでしょう。たとえば、アラン・ケイの場合はPC概念を作ったはいいがゼロックスは製品化に失敗して、PARCの輝かしい時代は終わりを告げた、というのが通説だったりもします。長い目で見て初めて評価されたわけです。


少し脱線しますが、実はPARCでは失敗作のStarが出た時期からまた非常に面白い潮流が生まれています。社会学の緻密なフィールドワーク手法を使って人間が機械、インタフェースを使う状況を分析するものなのですが、まあ日本に表面的ではなく、バックとなる理論、分析の態度などまで理解できる人間はほとんどいないでしょうね。社会学の連中は逃げちゃったし、工学者は理系にしか目を向けていない。2001年ごろにようやく米国で日の目を見ているようですが、また日本は10年以上の差をつけられることになりそうです。まあ私もひたすら洋書を読んでいますよ。


で、なんでこのようなメディアが実際に世に出ることが可能なのか。不可能だ!おかしい!だから、作った人間は天才と呼ばれるのです。ということは、天才が自分の仕事を理解されない理由は、むしろ彼らが作ろうとしているもの自体の特徴なのかも知れません。もちろん、そんなことを考えるから天才だという考えもありますが。


もっと言えば、これが「天才がみんなを幸せにできる」理由の1つでもあります。ターゲットユーザー、決められた使い方、それらがないからこそこれらのメディアはあらゆる人間に、それぞれにあった世界を提供できるわけです。


さて、会社にいてそんなアイデアを持っていたらどうなるか。まずプレゼンしても理解できないしつまらない。そもそも仕事しないで変な考えをしててうわついていると思われる。最悪ですよね。しかも1回思いつくと癖がついてしまい、2つ3つと思いつくこともある。そんな社員は、「特殊な人」といわれても当然だといえます。特にこの日本においては。


だから、むしろ「おもしろさ」を重視する会社や、人間や社会と切り離して技術的なアイデアだけを評価する会社のほうが、逆に天才を生かしてより社会に貢献するということも、当然出てきます。それがMS ResearchやGoogleの利点でしょうね。ちなみにAppleは確信犯なので、なんとも言いません。一応上の脱線に絡んでいます。あとMSも最近噛んでます。まあ、つまるところ天才には自由な環境が必要だというなんだか漠然とした結論になりますね。実は東京に住んでるニートや引きこもりが一番適してるんじゃないですかね。