ニコニコ動画はメタメディアである、パソコンがそうであったように

ニコ動とmixiの共通点 - 花見川の日記
http://d.hatena.ne.jp/ch1248/20080309/p3

初っ端から結論言うと”閉鎖性”。
両方とも「登録会員制サービス」であり、
mixiがサービス提供側が閉鎖性を作り上げているのに対し、ニコニコ動画はコンテンツの増殖度と成長度が自然と閉鎖性を作り上げる。

この閉鎖性を語る上で重要なのが、閉鎖している集団の(明示されている/いないにせよ)共通のコード、あるいは規則、ルールと言われているものだ。つまり、閉鎖性はあくまで個人ではない、社会的な分析で現れる。


その意味でこの分析での閉鎖性には私は少し違和感を覚える。


「コンテンツの楽しみ方が非常に複雑になっていたりする」を「複数の楽しみ方がある」と捉えると、まさに「共通のコードがもはや存在しない」ことを示している。つまり、閉鎖している集団など存在しないことを示している。あえて言うなら、「同じ楽しみ方を共有している」集団が複数あることになり、その意味で複数の村社会があるともいえるし、現状をみるとそれはそこまで間違ってはいないだろう。しかし、それは文中の「閉鎖性」ではない。


だが、ここでいう「閉鎖性」を否定はできない。だって確かに

「こいつらは一体何を楽しんでいるんだ・・・?!」

は多くの人間にとって正しいから。そして私も一部それを感じることもある。それは文中の「複雑性」が原因だろう。ただし、複雑性は閉鎖性でなく、ただ単に理解できないというところに帰結する。


さて、この「理解できなさ」はなぜだろう。mixiは理解できる。ニコニコは理解できない。その違いはどこにあるのか。


それは、「ニコニコには複数のメディアが存在するから」だ。


多くの人間は一つのサービス=メディアとしてニコニコ動画を見てしまう。しかし、ニコニコ動画はユーザーの使い方しだいでまったく違うメディアになるのだ。例えれば、テレビとラジオと新聞が一緒くたになった機械だ。それでテレビを楽しむこともできるし、ラジオを楽しむこともできる。しかし、その機械全体を楽しむのは難しい。ニコニコのコンテンツは一つの動画+コメントという形式のコンテンツを提供しているように見えるが、その実、テレビ番組と新聞記事が入り混じっているくらい違う性質のコンテンツがある。


違法動画を観てテレビ代わりにしている人間と、
そのMADを発表する人間と、
「ウマウマ」で同じ動画に同じコメントを書き込んで楽しむ人間と、
「踊ってみた」をうpする人間と、
「日記タグ」で自画撮りの動画をうpする人間と、
その他私の知らない様々な動画を楽しむ人間は、
単なるコンテンツ/文化の違いだけでない、まったく別のメディアとしてニコニコ動画を体験しているのだ。


ニコニコ動画はコンテンツの増殖度と成長度が自然と閉鎖性を作り上げる。」は間違っている。コンテンツが複数ある、つまり複数の文化が生まれては消えていくという形式なら、まず全体の使い方を覚えて自分の好きなネタや流行しているコミュニティを探すだけで良い。しかし、メディアが複数あると、ニコニコ全体としての楽しみ方というのが存在せず、完全なカオスとして現れる。だから、ニコニコに初めてアクセスした人間は、それをコンテンツとしてさえも理解できないのだ。


これは、パソコンという概念が産まれた当時の状況に近い。パソコンの概念を完成させた人間の一人であるアラン・ケイは、パソコンはメディアを創るメディアと定義した。要するに、使い方によって違うメディアとして現れる特殊なメディアだということだ。そして、「使い方」そのものが重要で、その部分をユーザーインタフェースとして取り上げた。それは、最近のウェブやプロダクトが進みつつある道でもある。