「動くものを作る」という呪縛

前回の記事では自分の経験に基づいてどうやってプログラミングで食うに至れたかについて書いたが,ここでずっと不思議に思っていたことがある。

soudai.hatenablog.com

ここでも言及されていたのだが,

もし、質問者がすでにプログラミングとしての基礎、言語はなんでもいいけどを書くことができるなら次は「動くもの」を一つ作ることをお勧めする。 

この「動くものを一つ作る」という,10年以上前から言われ続けていたワードだ。私に関しては,仕事を始める前には,自分が果たしたい目的を満たすようなものはたくさん作ってきたが,人に見せられるクオリティのものを作れたためしがない。前回の記事から,職を得るまでに1人で作って一応完成したものを列挙すると

  • 2004年(工学系学部1年):mixiからスクレイピングして今で言うソーシャルグラフを取ってきて,ネットワーク構造の特性を分析するソフトウェア。既存のソフトウェアだと取れる特徴量が限られていたし,恐らくRにはあったがゼロから覚えるのが面倒くさかったので数式から実装した。例えばレコメンデーションエンジンの基礎的なものを作れたとしたら,その手の会社にアピールできただろうが,関心はなかった。
  • 2009年(社会学修士1年):iOSで写真を回りながら撮っていくと合成して1枚のパノラマにするアプリケーション。当時画像処理やコンピュータビジョンに対する認識が欠けていたので,自動で特徴点をマッチング→アフィン変換という方法などをとれなかった。球体に貼る形にするとうまくいくらしく,既存のアプリでそのような実装があった。本アプリではUIでカバーする方針をとり,前に撮った画像を右端に半透明でオーバーラップさせることで,それっぽいものを人が目で見て判断して貼り付けるという方針をとった。ただ,作った段階で面白くて満足してしまい,大量に存在するカメラアプリの中で自分一人で完成度を高める自信もなく,頓挫。
  • 2010年-11年:(社会学修士2年):半球ミラーを上から撮影した画像を,OpenCVで処理して全方位画像を作るアプリケーション。それ自体は悪くないし,RICOH THETAVRコンテンツなどを見るに,需要はそこそこあったように思う。しかし,そもそも半球ミラーを東急ハンズで買ってくる必要があるアプリケーションは敷居が高いし,落とし所がなかった。結果としてどうせならもっと高度にしようということで,3Dで半球のオブジェクトにマッピングしなおし,さらにARマーカーを使うことで手で操作できるようにして卓上でパノラマを見られるようにした。しかし,そもそも人間の視覚に対して不自然なものだったので,有効性を実験して学会発表の草稿を提出した。学会発表は当日体調を崩したので行けなかったのだが,その日東日本大震災が発生した。

 プログラミングを仕事にしている今なら,どれに対してもそれなりの落とし所は考えられる。ソーシャルグラフからのマイニングなんて枯れた技術だし,データを持ってるところならいろいろ組み合わせたり機械学習をやったりすればそれなりの成果は出るだろう。カメラアプリにしても画像処理の一連の知識はあるし,iPhone XのTrueDepthカメラなどを使えばより幅が広がるだろう。ARも地味にソリューションとして浸透しつつあるので,全方位画像と組み合わせれば情報提示の幅が広がるんじゃないか。当然どれも簡単ではない。しかし良いものに広げていくには何が足りないかはわかる。

 しかし,しかしだ。仕事にする前は全然そこまで思いつかず,中途半端なものを作り続けていた。はっきりいって「人に見せられる動くものを作る」というのはハードルが高かったし,むしろ「動くものを作る」という言葉が呪いのように劣等感を刺激していった。既存のものと比較し,こんなもの人に見せられない…と嘆いていた。

 結局自分がものを作れるようになったのは機会である。Railsで何度も挫折した私も,仕事でLAMP環境でのMVCフレームワークを使った開発に参加したら割とすんなりできた。全方位画像で培った技術は詳細は言えないが仕事で十二分に役立っている。やればできるくらいのスキルセットはあったといえる。しかし,仕事でないとできなかった。

 はっきり言おう。私はプログラミングで仕事をしようとする人に対する「動くものを作る」というアドバイスが嫌いである。それは自身の経験もあれば,人に無責任にアドバイスして不毛だった経験でもある。

 そもそも,「動くもの」というスコープが曖昧である。単に何でも動きゃいいというのなら,Hello World!で良い。そうでないことは明らかで,それ以上のものが求められている。その中で,「動くものを作る」というアドバイスは具体的に何を要求しているかを覆い隠してしまう。

 次に,敷居の高さである。自分で目標を設定してゼロから登頂するというのは,仕事で人から言われたものを作るより難しい側面がある。完成品を作るより,技術自体に関心を持って掘って,未完成でもいいからいろいろ触った痕跡を見せるだけじゃだめなのだろうか。そもそも「動くもの」で見られるものは,動くもので使われているスキル以上のものではなく,関心を持っていろいろやっている人間からしたら氷山の一角に過ぎない。プロダクトに現れない埋もれた技術をどう引き出すかは,今働いている人にとっての問題でもあると思う。

 じゃあある人を採用するにあたってどのように見たらいいかというと,やはりタスクを与えてみることじゃないかなーと思った。元記事ではインターンについて言及されていたが,インターンやバイトの門戸が広がると良いと思う。やばい会社を事前に見つけて逃げることもできるだろうし。

プログラミング,どうやって学んだっけな

note.mu

が話題になり,様々な意見が飛び交う中,そういえば自分はどうやってプログラミングを学んだかなと考えていた。ここでいう「プログラミングを学んだ」は仕事で売れるレベルのプログラムを書けることを指す。私は今プログラミングを仕事にしており,死んでいないので,「学んだ」といえるだろう。

 結論から言うと,完全な独学でもないし,学校での演習にも限界があった。しかしいろいろな積み重ねが現場での経験でコードに結びついたような感じだ。

 最初にプログラミングに触れたのは中学に入る直前の98年だった。プログラミングに興味はあったのだが,親が厳しかったのでパソコンは実質的に使うことができなかった。このため,親にとって意味不明な機械であるポケコンを買ってもらった。当時既にポケコンはひどい時代遅れで,電気屋では「こういうのは買わないほうがいいと思いますよ」と言われた。工業高校では生き残っていた。ポケコンにはBASIC,CインタプリタCASLが入っていたはずである。なんだかんだいってBASICを使った。変数やループなどの基礎的な概念はそれで学んだように思う。

 で,BASICには限界がある。そもそも私が買ったポケコンは予算の問題からグラフィックを出力できず,見栄えの良いものを作れなかった。図書館にあった本で勉強していたのだが,図書館のBASICの蔵書はN88-BASIC中心のため,いろいろ言語上の制約もあった。途中でやめてしまった。

 中学時代は母親が統合失調症を発症したので家にいられず,パソコンはネットカフェで使っていた。今もネットカフェに行くと安心する。しかし,ネットカフェなので開発をするならポータブルな開発環境が必要で,しかも当時の記録媒体の中心はフロッピーディスクである。ブラウザで動くJavaScriptで学べ?何年前だと思っているんだ。JavaScriptの実行は危ないから切れって言われてた時代だぞ!ということでいろいろ駄目で挫折した。

 高校は東工大附属というところに入ったのだが,そこでプログラミングの授業があった。486のPC-9821 CanBeにFreeBSDを入れたクソ遅いX環境でMule(多言語対応のEmacs。のちに本線に統合。当然Emacsなのでメモリを沢山食う)を使い,C言語を学んだ。内容としては最初はこの記事

kirimin.hatenablog.com

にあるような,簡単なアルゴリズムから始めたが(ひし形を横に並べるとジャイアンの服の柄になる),同級生の中にはターミナルで大文字と小文字の区別ができないなどして挫折したのもいた。電子科なので,プログラミングに向いていない人はハードウェアに行った。プログラミングをさらに学びたい人はXlibを使ったGUIプログラミングや,8086アセンブラに触れ,課題研究などでやっていくことになった。私は友人とIA-32 プロテクトモードで動く原始的なOSを作ったが,友人と能力の差がありすぎたためコードはほぼ書かず,2chFlashやMADなどを見てゲラゲラ笑っていた。これが平成ネット史である。

 自分で何かいじってみようと思ったのは高校を出る直前である。当時2ch「繰り返し囚人のジレンマ」のアルゴリズムを戦わせる大会があり,大会の運営形式がスレにCプログラムを投稿するというものだった。洗練されたバージョン管理などはなく,一人の人間がとりまとめていた。私がこれを知ったのは大会が終わったあとだったが,コードはあったのでそれに自作アルゴリズムを追加して勝てるものを作ろうと思った。結果的に興味関心はブレていき,アルゴリズムだけでなく大会の運営コード自体をいじり,「デフォルトの設定では勝てるが,そもそもこれはパラメータによって勝敗が異なるような大会だ」ということにいたった(この辺はゲーム理論の領域である)。基本的には既存の小さいプログラムの修正にとどまっていた。

 大学は04年に電通大の情報通信工学科に入ったが,正直大半のことは高校でやったので3年前期「アルゴリズムとデータ構造演習」に至ってもまだ物足りなかった。Pascalは嫌な言語だった。個人では当時勃興していた社会ネットワーク分析に関心があった。Pythonを使ってmixiから引っ張ってきた人間関係のグラフの解析や,その構造に基づいたシミュレーションを行うプログラムを書いたりしていたが,バリバリ大きいプロダクトを作ったり,OSSに貢献するには至らず,途中で文転した。

 さて,07年から文転したので文章が主要な戦場となったのだが,はてなブックマークはやっていたし,プログラミングに関する興味は消えなかったので,ちょいちょい最新の技術はいじってはいた。最初にgitに触れたときはおおっとなったし(のちにsvnを仕事で使ってウーンとなった),VM立ててなんかやったりした。あと当時はiPhoneというものが流行っていて,アプリで一儲けすることを思いついたが,大したものは作らなかった。ちょっとずつ画角を変えて複数の写真から360度画像を作るものなどは作ったが,Objective-C部分はほぼコピペで,ほぼすべてをCで書いた。全方位画像に関してはなぜか関心があり,OpenCVを覚えて実験をいろいろやっていた。

sites.google.com

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Androidへのポート

http://www.interaction-ipsj.org/archives/paper2011/interactive/0282/2INH-12.pdf

 その間にOpenPNEというSNSを作っている手嶋屋でバイトを始めた。文転して修士課程にいたものの,プログラミングは飯を食う手段としてはいいんじゃないかと思い,はてな含めIT企業のバイトを受けては落ちていた。手嶋屋では手嶋屋トライアルという試験一発で採用という仕組みがあり,Linuxサーバを1つ与えられ,Webサーバの立ち上げからOpenPNEのデプロイ,小さいプラグインの開発までやるものだった。全部やるとそこそこ広い知識を要求されるのだが,そこは器用貧乏がうまく働いて完走し,バイトを始めた。

 ということで

github.com

OpenPNE3が私が関わった最初の大規模プロダクトである。そこで,初めて大規模なプログラムに携わるということを学んだ。コードを読み,構造を理解し,そして小さい修正をする。それならできるし,その経験が結果的にゼロから作ることにつながったように思う。主にバグ修正だったが,バグチケットの粒度が適切だったのが成長を促した。

 とはいっても,最初にスタートアップに関わってそこそこ大きなプロダクトを作ったときは大失敗だった。iOSアプリのコードベースは最終的に手のつけられないものになった。なぜか莫大なメモリリークが起きていたが,その原因はわからなかった。

 その後,某大学の研究成果である物体認識手法をiOSに移植するという仕事をした。C++OpenCVの,学生が書いたような,というか実際に学生が書いたプログラムを渡されて,それをほどいてObjective-C++につなぐというものなので,スキルに合っていた。その仕事を振ってもらった社長に拾ってもらって就職し,今に至る。いろいろな仕事をやったが,基本的に既存のプロジェクトやOSSの改修,もしくは小さいアプリケーションがメインだった。今の仕事は初めてゼロから書き始めた中規模なアプリケーションで,基本的にコード側は試行錯誤しながら今に至る。いつできるようになったのかは不明である。

おまけ GNU/Linux をどう学んだか

 RMSの理念を支持し,コンピュータというものに向き合えば自然についてくる

日記

いろいろあって人との関わりを減らしているのだが,誰かと喋りたいことは少なからずあり,一部の友人との会話が激増していて良くないと考えている。かといってツイッターで今までやってきたようにコミュニケーションを求めない形で書いていくのもどうかと感じている。結果として日記を書こうと思う。

LenovoのサポートにPCの修理依頼を出し,今日引き取りに来るとのこと。9時から18時と広く取ってしまったので予定が取りづらい。早めに引き取りに来たら,Tokyo 7th シスターズの4Uのライブ映像が新宿で流れるのと,少女歌劇レヴュースタァライトの宣伝トレーラーが新宿を通るのだが,ちょうどライブ映像の前を通るようなので,両方写っているのを撮影できないかと思ったが,やめておいた。10/2にもう1回新宿にトレーラーが来るのでその日にしよう。

その間仕事でもするかと思い,10/2「ARの教科書」勉強会のスライドを作成。短い章なのだが,基礎技術に関するまとめの章でもあるので,自分の頭の整理も兼ねて今までやってきたこと,トラッキング,較正,位置合わせがどういうことかを前段で丁寧にまとめた。本文の方では,数式をあまり使わないつもりだ。証明が載っているなら説明の必要もあるが,プレゼンでそこまで丁寧に説明する事項でもないだろう。それより本文の数式を丁寧に読むことが重要だと思った。最後に,本当に短い章なので,尺が余ったときのために「よもやま話」として事例紹介を行おうと思ったが,Confidentialなので口頭での説明に止めよう。45分で20枚は正直短いが,議論などを活発にできればと思う。オンラインでの勉強会なので議論は試行錯誤な感があり(発話の権利配分がわからないのではと考えている),うまくできたらと思う。

その後,学会のスライドに着手。こっちで45分話したいが,15分しかない。アウトラインで構成を考えたら15分ぴったりそうなので,そのままスライドに起こしている。

結局引き取りは17時40分に来た。眠い。無償修理で済めばよいのだが。

眠いので怪盗団のゲームをやっていたのだが全然進まない。もともとアニメで表現しきれない「雰囲気」を求めてやっているので,ダラダラとやっている。そうこうしている間にアニメの最終回が始まった。ここまでいくのにだいぶ時間がかかるだろうなーと思いつつも,重要なところで幕引き。年末の特番で終わらせるようだが,その時までにクリアできるだろうか。

寝ていたら夢を見た。旅館の大広間みたいなところで酒盛りをしていて適当にやっていたら,「今日は〜さんの誕生日です」という言葉が聞こえたので,誰かは知らないが適当に祝ったところ,間違えて別の人を祝ってしまった。誕生日を迎えた人物は台湾で博士号も取ったようで,博士号を取った人がかぶるあの帽子で記念撮影をしていた。その後キャリアの話になり,「就職あまりないすよね」と話したら「そこまでひどくないけどまあ…」と返ってきた。「俺はコンビニの工場で,弁当がベルトコンベアで来るのを監視して,悪いのがあったら除けるバイトでもするかな」とか喋っていたら目が覚めた。

空間に時間のマネジメントを埋め込む

また普通の人には役に立たないクソみたいなライフハックを書くぞ。

私は時間を守れない人間だ,というと正確ではない。「時間を守れない」と言った場合,特定の時間を認識しており,それを守る守らないの次元だが,よりもさらにダメなのだ。

どういうことかというと,時間に区切りを作ることができない。もっとも,区切りがはっきりしていてすぐに終わるタスクはどうにかなる。例えばトイレは水を流して手を洗うという明確なゴールがある。しかし,仕事や研究などの生きていくのに重要な多くのことは,すぐ終わりが見えないくらいには長い期間やることになるし,一区切りついたとしても,次何やる?という話になる。そういったとき,時間の感覚を全く作ることができない。時間を守るためにあれやれこれやれみたいな仕事術は全部一瞬で失敗した。

特に厄介なのが娯楽である。インターネットには終わりがない。終わったときは私の人生の終わりだ。延々とコンテンツを享受し続けることには終わりがない。そして実際に延々と享受する。結果的に,時間を守れないようになる。逆に,仕事とか研究のことも寝ている間以外は常に頭にある。しかし,それをちゃんとできるように時間を区切ることができないのだ。無限にやるか全然やらないかのどちらかになるし,最終的に気分に左右されてしまう。

さて,そんな私でも割と区切って作業できる条件がある。外だ。カフェで作業をしまくっているし,カラオケとかネカフェでやることもあるし,本気の時はホテルもとる。そういったノマドワーキングの利点欠点は様々に議論されているが,どれも本質ではない。例えばこれらは快適な環境とは限らない。ホテルは快適だが,疲れているときにカフェにいると雑音で集中できないし,カラオケなんてやばい。ネカフェは脳が慣れた。いずれにせよ,家やオフィスに比べたアドバンテージはない。

ではなぜそういった場所で作業ができるかと考えてみたところ,時間制限があるからではないかと考えられる。ホテルはチェックアウトという明確な期限がある。ネカフェやカラオケは基本的にパックの範囲内だし,従量課金による圧もある。カフェも,事実上数時間いることはできない。

そうなると,「ここはいつまでに出なければならない」という制限ができ,時間の区切りが強制的に作られる。それをそのままやることの区切りとしてしまえばよい。これを,空間に時間を区切らせると解釈することができる。

そうやっていろいろ捗ってきた。皆様の参考になるかは知りませんが。ちなみに,この記事は気分で書きましたし,重要なことをいろいろ放置しているので,カフェに行きます。

停滞こそが前に進むことなのかもしれない

社会人博士課程を始めて3年余になるが,進んでいるかどうかよくわからなくなってきた。人文の研究では多くの知識と緻密な読解と論理が必要になるが,ここにきて根本的に浅かったことに気づく。論文を150本,次いで200本と読んでいくたびに自分の立ち位置が大きく変わっていく。今までにない研究は,多くの分野にまたがった視点で見ないと立ち位置を精確に見ることができない。そして一旦立ち位置が変わったら気づくのだ。今まで見てきたものは単にウィンドウショッピングに過ぎなかったのだと。能力のある人間なら早い段階で「見える」のだろう。

私は根本的に能力が足りない。私の生活スタイルはニートと類似している。起きるのはこの時間(12-14時)で,寝るのは4時前後,生来自己肯定感を得ることがなかったので現実世界にいるのが辛く,それを補うためにインターネットを行い,残りの時間を仕事や研究にぶち込む。

自己肯定感の低さや発達障害特有のコミュニケーション負荷はメンタルの総量に直結し,すぐにやられて蟄居の状態になる。その間はPCをACアダプタにつなぐことすらできず,さっきようやくつないだPCのバッテリー残量は38%である。これはさすがに相対的にひどい状態だが,数日かけて緩和される。こんな状態で仕事や研究が進んでいる方がむしろおかしい。なんかのスイッチが入るとできるようになり,それは進捗を出すのに十分な頻度なのだが,それが入るのはランダムである。

まあ正直,同じような気質で心が折れてニート生活保護になった友人は多い。むしろ私は彼らより日常を生きる能力自体は低いので,もっと早く心が折れていてもおかしくはない。何らかの点で私は狂っていて,それゆえにいろいろやっているという側面は否めない。

そんな中,過去一緒にバイトをしており,いつからか生活保護を受けていた友人のツイッターを発見した。主にVTuberをフォローしており,人間と関わりたくないのではと思う。実際にどうだかはしらないが。

それを見て幸せそうだな,と思う側面もあった。というか,なぜ私はこの道を選ばなかったのだろうか。能力はない。現実は厳しい。降りても良いはずだ。研究なんてやめて,仕事は最低限にしたほうがインターネットにより長くいることができる。それでいいんじゃないか。

研究をやる理由はいくつかあるが,1つ取り上げると主にインターネットで独立した生産活動が行われつつあるのに,それがうまく流行らず,現実の社会システム,最終的に飯を食っていくこととつながっていないという問題がある。LinuxGitHubで配布されたOSSがどれだけの富を現実世界にもたらしたか,そしてそれをどれだけ誰も考えていないかを考えれば良い。そのためには,インターネットで共同作業を行うとはどういうことかを知る必要がある。それが確立されれば,私はもはや現実世界と関わることはないであろう。現状では現実の人間は現実の枠組みでしかものを考えない。それはとてもつまらない。

まあやる理由はいくらでも挙げられる。やってはいけない,やらない理由はない。しかし,やらなければいけない理由はない。そんな中でやっている。だとしたら,研究なんて人に任せてしまえばいいのではないか。今の指導教授は凄いが,凄いね〜と傍から眺めているだけで良かったのではないか。論文なんて途中でだるくて読むのをやめれば良い。

博士課程に入った強い理由として,祖母が亡くなったことで天涯孤独になり(両親と他の祖父母はいない。父は生きているかもしれない),心が空白になったことが挙げられる。それはある意味で自由になったことでもある。なのでしばらく世俗から離れてみようということがあった。博士課程での厳しい訓練はそれを大いに可能にした。しかし,恐らくそれはもう必要ない。気がついたら時間が解決していた。

もういいのではないか。できれば生活保護でも受けて,楽に生きたほうが人生という面では進歩になるのではないか。社会は私を評価しない。私も社会を評価しない。無として終わるというのもありなのではないか。

逆の視点から見たら,私はあまり良い人間ではない。自分も一時期そうだったから感じるのだが,何もしていない人間から活躍している人間を見ると激しい拒絶感に襲われる。しかし,私がやっていることも,彼らが逃げ出したくなるのと同じような理由で,辛いことではある。

「降りる」決断をしていないだけかもしれない。そんな中で仕事や研究の次の段階がやってくる。

私の大学編入学について

あれの話をしますか。編入学をしたことがあります。

haikara-city.com

 まずとりあえず何か言わないといけなさそうなので,編入学が「裏口入学」かどうかについて。一言で言えば,んなことを気にしている人は了見が狭いのではないか。大学が誰を受け入れるかというのは大学が決めることなので,受かった方法についてどう感じるかは個人の問題である。その中で「苦労して皆と同じ勉強をし,一般入試に受かった」ということの特権性をどこに感じるのか,何年経ってもわからない。

 いや,わかっていた時期はあった。高校入試までは,当時存在していた代ゼミの模試で偏差値72くらいあったので,そこそこ頑張っていたと思う。その中で,推薦で受かった連中をずるいと思うことはあった。「偏差値の高い学校に行く」ということは絶対的な尺度だった。学校独自の特色はたかだか二桁程度の数値に圧縮され,どれも同じに見える。そして,その数値が本質に見えるのだ。数値は簡単な指標を与える。つまり,高ければいい。

 高校の一般入試の結果が出始めた頃,俺が筑波大附属に落ち「俺の人生こんなものか」と思って登校したところ,隣の女子が「慶女受かった〜〜〜〜〜!!!!!」と全力で喜んでいるのを目にした瞬間に,自分の絶望的な知性と才能の無さにうんざりし,卒業まで実際に狂っていた。その時,俺は数値でしか自分を見ることができなかった。それとは関係なく,俺には絶望的に知性と才能がないと思う。

私が編入学に至ったきっかけ

 さて,本題に入りますか。大学3年のとき,編入学をしたことがある。その関係で2回3年をやっている。しかし,いろいろあって大勢を占める「高専からの理工系大学への編入学」とは異なる。違いをまとめると

  • 同大学(電通大,情報通信工学科昼間から人間コミュニケーション学科夜間)への編入学
  • 情報通信工学ではなく,社会学をやりたくなった

 工学系だったのだが,2005年後半からいろいろな界隈に顔を出しており,本も読んでおり,社会学を学ぶことを検討していた。現スマートニュースの鈴木健氏もその中に含まれていたと思う。主に知識と社会的行為への原理的な関心と,情報化社会論への関心である。その過程でいろいろな大学について調べていた。1年,2年はもうやりたくなかったので,編入学である。

 とはいっても,本当に編入学するかというと躊躇する部分はあった。社会学は趣味で良いのではないか,今の大学をとりあえず出てからの方がいいのではないか,とまあ行かない理由はいくらでも思いつく。しかし,一つきっかけがあれば決断は一瞬で進む。

 きっかけは実験である。工学の実験は恐ろしい。留年の主要な関門の1つである。特に厳しい講義や演習をくぐり抜けて精神がナーバスになった人間は,実験のレポート期限を守ることができず,さらには書くことができず,留年していく。そして次の年,精神が万全でない状態で,さらに留年という新たなカルマを背負って実験に挑んで,破れていく。そういったループに陥った人間を,私は何度も見てきた。

 ちなみに,本学では大学3年で「高専から編入学した人々」が合流する。そこで驚くのが,彼らの実験・レポート作成能力である。苦労する高校から入学した大学生を尻目に,「こんなものか」と実験やレポートをそつなくこなしていく。そんなサラブレッドが高専生だった。彼らは楽して編入学するのではない。その実力ゆえに編入学するのだ。

 私に関しては,情報通信工学科という海外で言うEECS,電子工学とコンピュータ科学の両方をやる学科に所属していたのだが,電子工学の方には完全にやる気をなくしていた。携帯電話オタクではあったんだが,その仕組みではなく「携帯電話で何ができるか」の方に関心があった。それは数年後スマートフォンという形で大変革を迎えることになる。そんなこんなで電子工学の実験はまるでできず,それに前年母親が亡くなったことによる鬱症状も加わってまるでレポートを書けなくなってしまった。

 2006年6月2日に「万事休す」となった。通学に間に合わなくなる12時が過ぎるのを秒針を見ながら確認し,「リスカ」をした。2006年にはいろいろあったのだが,この6月2日を暫定的に「人生破滅」の日とし,2016年に10週年を新宿「養老乃瀧」で行った。あの養老乃瀧は,10年以上渋い話をするのによく使っている。

 一回万事休すになったのだからある意味でその後は自由である。次の年実験で単位を取れるかと言うと取れないと思う。だとしたら進路を変えるしかない。次の日には編入学を決めた。

私の編入学

 編入学をすると決めたものの,現況を考えると選択肢はほとんど存在しなかった。まず鬱病でそもそも勉強ができない。手持ちの知識でどうにか受験するしかない。次に,単位認定の問題である。編入学にあたっては前の所属の単位が認定されるが,完全な文転だと理系の単位はほぼ認定されない。さらに,今入学できたとして,次の年に鬱病は治っているのか。そうでないとしたら学業は続けられるのか。

 以上を満たす大学の学部学科は1つしかなかった。まず,同じ電通大なら1-2年の基礎科目,つまり編入学試験に出る科目はだいたい同じである。次に,同じ大学なので全く同じ科目が存在する。単位認定の問題もOKである。最後に,電通大には夜学があり,夜学なら鬱病でも通える。

 そして,電通大には正統な社会学部・社会学科ではないが,社会学やメディアについてある程度学ぶことができる文理融合型の学科,悪くいえば寄せ集めの「人間コミュニケーション学科」が存在した。その頃,私が卒論指導を頂いた先生の院ゼミに参加させていただいていたのだが,そのときに読んでいたのがバーガー・ルックマン「現実の社会的構成」と「ハーバーマスルーマン論争」だった。前者については先日読み返した。十分なレベルだろう。

 ということで電気通信大学電気通信学部夜間主人間コミュニケーション学科に決定した。さて,受ける学科は決定したものの,即座に2つの巨大な問題が襲いかかってきた。まず,受験は7月中旬である。1ヶ月半しかない。さすがに短すぎる。次が受験倍率である。いや,あれは倍率などというものではない。学科ができた99年以来,人間コミュニケーション学科の夜間に編入学できた人間は,私以外には1人しかいない。そもそも,他の学科も夜間は基本的に受からない。昼はたくさん受かる。参考までに私が受けた年の結果を以下に掲載する。

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 これは夜間の学力試験(推薦じゃないやつ)の結果である。この結果を掲載したことで話の流れが滅茶苦茶になってしまったのだが,結論から言えば,私はこの年,夜間の学力試験でただ1人合格した。夜間には推薦でもう1人別の学科に受かっていた気がする。雨の日の合格発表で,私だけのために巨大な模造紙が掲示された。

 ちなみに,昼の方は全学科合計で53人(推薦36人,学力17人)合格した。学力試験の方の倍率は1.7倍だったようだ。そこまで高くはないが,「裏口入学」などといったものではない。入試システムはまったくもって機能しているといえる。

 話は前後するが,1ヶ月半何をやっていたかというと,毎日夕方に起きて己の不遇を嘆き,それを忘れるようにウイスキーを飲み屋に飲みに行き,帰って寝ていた。それだけである。細かくいえば「サブカル」界隈などでいろいろあったのだが,忘れよう。少し勉強した気はする。実際のところ,同じ大学の同じ基礎科目は,少し勉強すれば思い出す。さきほど「巨大な問題」と書いたが,そんなもん実際はどうしようもないのだ。結果が全てを肯定する。

俺にチャンスをくれたっていいじゃないか

 ということで,私は編入学制度を,高専生のようなまっとうな用途に使わなかった。申し訳ないと言っても良い。しかし,開き直りたい部分もある。結果的に,私は社会学を大手を振って行うことができ,それは博士課程にいる現在に続いている。実際に,文系の学生で途中で関心を移し,編入学制度を利用する学生はそれなりにいる。進路に修正が効くことは,学問への関心のある人間には強い武器となる。それは世界共通である。いわゆる大学院での学歴ロンダ問題についても,「学問に関心があって他の大学に行く人間なんてごく一部じゃないか」との主張を聞く。その「ごく一部」は少ないかもしれないが,学術コミュニティを支える一員となる。そういった人間にチャンスをくれても良いんじゃないかと思う。

 ここから先は私個人の話になるが,私自身は上述のような純粋に学問に燃える若者として編入学をしたわけではない。人生に行き詰まって,その時学問をやりたかった。それだけである。持ち直すこともあろうが,そうでないかもしれない。今も「持ち直して」いるかどうかはわからない。あの時うまくいっていて編入学をしていなかったらどうだっただろうか。その可能性は少なくとも消えた。それゆえ,私がドロップアウト組の1人であることには変わりはない。だが,しかし,

 夢が終わっても人生は続くのだ。

 生き延びた人生の先で、より美しい花を見つけることは確かにある。

(つづく)

「あの時負けていれば」――人生を賭けた一局、夢が終わった後に続くもの - ねとらぼ

 

 

世の中の可変性について

要約:人は誰でも,世の中のここが変えられてここが変えられないということを,頭の中に持っている。可変性の軸を導入したらいろいろわかりやすくなるのではないか。

本文

 例えば働き方を柔軟にするとか,オープンコラボレーション的な方法でインターネットを創造的にするとか,発達障害独自のコミュニケーション様式を作ったら良いのではないかとか,いろいろな「世の中を良くする方法」は思いつくのだが,どうも空転してしまう。「やっていきましょう!」と言う人も「そんなこと机上の空論だろ」と言う人もいるのだが,どちらも大した根拠がないし,私もそんなもんは持っていない。だからといって,「とにかくいろいろ試してみる」というやり方は好きではない。

 ということで,視点を変えて今実際に世の中を変えようとしている人の方を見てみる。例えば与野党の対立は2回の政権交代を経てわかりやすい形で激化しており,発達障害者の身の処し方についても議論しようとすれば,適応する方向と世の中側が認めていく方向に分かれると思う。オープンの思想は世に問われ続けており,そのエコシステムに依存している末裔であるWebなどの開発者は,新しい働き方や物事のやり方について変えることに比較的抵抗がないように思える。

 そういっていろいろ見ていくと,雑駁な意味での保守・革新というか,「世の中のここは変えられるけど,ここは変えられない」という考え方が,隠れた対立点になっているのではないかと思う。議論の前提と言っても良い。これをとりあえず「世の中の可変性」と呼ぼう。世の中の可変性に対する考え方が異なると,「どうすべきか」という方向性や「こうやっている」という行動が異なってくる。例えば

  • 裁量労働制に関する議論を見る限り,推進者は「労働時間を自由にしたほうが良い」という極端な性善説を持ち寄ろうとし,反対者は「定時に出社して定時に帰る,それが労働者を護る方法だ」という,人によっては非常に負担を強いる考え方を変えることはなかった。彼らは,そもそもの定時出社のあり方について考えようとすらしなかった。
  • 「Webは世の中にゴミのような情報を増やし,その結果人々は見たいものしか見なくなり極端な考え方をするようになった」「Webにおいてはその場その場の盛り上がりが原動力になるので,物事が蓄積されず非生産的である」といった考え方は,今やWebの本質とも捉えられている。しかし,既存の事例以外にも人々が協働する方法はいくらでもあり,例えばオープンソース活動やWikipediaなどの一定の成功を,より多くの人々や課題に対して開いていくという考え方もできる。
  • 発達障害に関して,当事者間での認識は異なるように見える。頭の良い人は個性だから自由にやっていけば良いみたいになるが,彼らは恵まれているからそういうことが言える。一方,「治療」は多くの人に指針を与え,社会とのコネクションを調整するきっかけになるが,往々にしてうまくいかず,最悪死に至る。いずれの立場にせよ,「発達障害に適したように職場や世の中の方を変えていく」ことができるかどうか,できるとしたらそれはどのレベルでどの程度かについては議論があると思う。

 なんか揉める議題を複数持ってきてしまったので,お前はどっちの立場だみたいに言われると非常に困る。というか「お前はどっちの立場だ」から始めることが揉める原因になっていると思う。というのも立場の前提となる,世の中の可変性への認識が異なるため。定時に働くという近代以降の働き方ははたして不変のものなのか。はたしてインターネットではどういうやり方をとっても情報が滅茶苦茶になって刹那的になってしまうのか。はたして人は,というか日本人の社会は発達障害に対して寛容になれないのか。そういった問いには課題が山ほどある。

 世の中を変えるか変えないかの議論をする前に,可変性を考えることは一見して非生産的に見えるようで,議論のベースとして重要であるように思う。しかし,「どうするか」のレベルの議論にはどこかで決着がつきやすいが,「どういうことが可変で,どういうことが不変だと考えているのか」について人々が合意することは難しい。そういった話になると水掛け論になるのではないかと考える方もいるだろうが,水掛け論になるとしたら,どうすべきかの議論も不健全である。

 こういった議論は,「メタ議論」みたいに扱われることが多く,議論の本線に対して斜に構えているといった変な嫌われ方をすることが多い。というか本線が不毛すぎてしらけているので斜に構えているのは事実なのだが,「メタ議論」というカテゴリがあったとしてもそれは議論なので,世の中の課題をどうにかするのに必要ならすべきであると思う。

 ここまで考えたが結論はない。WIPである。