好きに生きて死ぬということについて

昨日,博士課程の最後の在学延長書類を提出してきた。

祖母が亡くなり身寄りを失った障害者になった中で,「これで終わりか。無理に決まっているが博士号だけが心残りなので,一通りやって,好きに生きて,それから死ぬなりなんなりすればいい」と覚悟を決めて入学してから,書類が通れば6年目になり,1年後に単位取得退学となる。

正直,職業研究者にはなれない。優秀な人は一瞬で私を追い抜き,とっくの昔に私からは見えない場所にいる。入学してからこの年まで,業績という観点では私はビリであり続けてきた。社会人学生であることを鑑みてもあまりにもひどいといえる。今日も論文に向き合っているが,26ページを25ページにおさめるのにどこを削ったらいいか皆目見当がつかない。

一応大義名分として,インターネットという障害者である私がある程度平等に振る舞える場が,どのようにうまくいっている(もしくはいない)のかを研究するということがある。しかしそれが私の生きやすい世につながるかというと研究だけでは足りない。率直に言って,自分の知性がどこまでいけるか試したいという願望だけがあった。

私はそれに多くの犠牲を強いた。2015年以前の多くを失ってしまったし,30代前半という一種の人生の地ならしをする期間に何をやっているのだというのもある。また,この数年間会社に居続けられたのは奇跡としか言えず,関係する皆様には感謝しかない。

この時期になると,「次何をするか」を考えないといけない。今までのことを続けても数年は生きられないだろう。かといってさっさと死ぬのも怖い。だから新しい生産や社会参加の手段をいろいろ模索したり,新しい心の拠り所としてVTuberを開拓したりしている。

それら外部のことが整って初めて研究もうまくいくものだろう。人文の研究は実家に恵まれていないとできないという身も蓋もない話があるが,私に実家はない。もしくは才能があればやり遂げることができるが,私にはなかった。しかしそれでも,ある程度まで続けてしまった以上この研究テーマとは1年後も付き合っていくことになる。

結果的に中途半端な生き方を続けていくことになる。まあそうなると思っていた。それも因果だと思うしかない。そういう生き方をしなかったらとっくに死んでいる。

そこで人生の「最期」というものが見え始めてくる。死ぬとき私はどういう状況にあるのだろうか。粘って社会にかじりついて日銭を稼いでいくか,それとも諦めて破産して生活保護を受けるか,他にも絵空事を含めて色々浮かぶがどれも現実味がない。現実味はないが現実はやってくる。そんなに遠くはないだろう。体感で15年ほど人生の猶予をもらってきた。しかしその先の15年も私の存在が許されるとは思わない。

「好きに生きる」ことのゴールとしての「好きに死ぬ」ことは,私には贅沢すぎる。