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「安心・安全」の脅威について

腐りきった世の中を、ネットを、もっとカオスにしたいと思っている - はてな村定点観測所

駄目だ,これを言っても何にもならない.インターネットが「普通の人」に意見を表明する力を与えた結果どうなったか.そして,普通の人が普通にやっていることが,インターネットとリアルにどんな悪影響を与えているかということを考えれば,意見を表明しても意味が無いことがわかる.

現代において人に最も圧力を与えているものの一つは,意外にも「安心・安全」だ.殺されないほうが良い.さらにいえば犯罪の被害者にもなりたくない.それは当然のことだ.社会はそれに対処するための仕組みを持っている.それは基本的にはうまくいっている.ただし,国家権力の「安心・安全」への対処は,犯罪を処罰する以上は基本的には行われない.圧政を敷かないようにそういうように制限を加えているのだ.

しかし,十分な「安心・安全」が確保された後にも,「安心・安全」が満たされていないという不安は残ってしまう.交通事故が非常に低い確率でしか起こらないとしても,それに対する恐怖は誰しもが持っている.つまり,犯罪が稀にしか起こらなくなったことで,「安心・安全」を求めるモチベーションは具体的な脅威から漠然とした不安になる.その漠然とした不安は,時に暴走し,もしくは利用される.

暴走とはどういったことか.それは,「安心・安全」を主張する「普通の人々」が,「犯罪」の範囲を超えて,「犯罪を起こしうる怪しい人」「迷惑」そして「普通でない」といったように自分の快適さを脅かす人々のスコープを増やしていくことだ.元々の「安心・安全」と,個々人が求める「快適さ」の間には大きな溝がある.しかしそれらが漠然となった不安と入り混じったとき,なぜか個々人のエゴにすぎない「快適さ」とそれに基づく異物の排除が正当な主張となる.昼間から酒を飲んでいる人間はいなくなった.飲み屋で騒ぐ若者も減った.昔会社に一部はいた変な人は就職できなくなった.そして,公園から子どもが消えた.

一方,漠然とした不安は利用されうる.何か普通から逸脱した人を叩きたいなら,「あいつはおかしい」とインターネットで主張すれば良い.それに乗ってくる人間がいるかどうかはわからないが,少なくとも叩きたい人には叩く権利がある.もちろん,たまに恐喝の領域まで踏み込む人間もいるのだが(つまり,普通でない人が普通でないだけで犯罪に晒される),基本的に彼らは罰せられることも,止められることもない.法律で縛られている警察や司法と違い,疑いだけでいくらでも攻撃することが可能になる.

さてそういった事情から,世の中はどんどん窮屈になりつつある.ここで重要なのは,最近は「変なことが自然淘汰されて無害なリアルやインターネットになった」のではなく,「普通な人々の漠然とした不安が普通でない人やことを単に殲滅した」ということである.その状況下で普通の人に何かを語りかけても仕方がない.本当に重要なのは,漠然とした不安によるヒステリーを解消することだ.具体的に何が不安なのかを特定し,また,具体的でない不安に基づいて行動すべきでないというコンセンサスを取ることが重要である.

といったところで,それが実現されるのはおそらく来世紀のことだろう.私は人類にそこまで期待はしていない.結局のところ,パブリックでない場所で,人目に触れずコソコソとやっていくしかないのではないか.