皆でだらだらと適当に過ごせる場所について(試案)

 pha が郊外の住居(ギークハウス)に全然人が来ないし,他に都心に集まれる場所が欲しいという話をしており,俺も割と共感してそれなりに集まったりして議論を進めている.明日次回をやるっぽいが,それに際して適当に考えていたことをまとめる.

外のだるさ

 現代では休みたかったら家に帰るというのが基本なのだが,そもそも家に帰るのがだるい.帰る前にくつろいだり適当にくっちゃべっていきたい.そういうことはないだろうか.私はリモートワークで正社員の仕事をしながら慶應義塾の大学院で研究をしている.つまるところ,結構疲れるのだ.そういう際には三田から高円寺に帰る間に,秋葉原でちょっとカフェやらバーに寄って,チャットで「秋葉」とかいうと割と集まってくる.そうでない場合もある.まあ集まって適当に喋ったりインターネットをしたりすると割とくつろげたりする.

 このようなことは,最初は「朝活」だったのだが,朝に集まらないということがわかったので「活」ということで続いている.そんなこんなで,それを目的とした場所があったら楽なんじゃないかという感じで考えている.場所があれば1時間くらい寝てても文句は言われないし,人とも交流できるし,かなり良いこととなる.ただ,適当に作ったら多分めちゃくちゃになるので,多少の分析を行う.

集まれる空間の複合性

 ギークハウスはまさに複合的な場所だったと思う.まず数人で居住するというのがベースとして,頻度の差はあるが知り合いがふらっと立ち寄って適当にくつろいだり作業をしたり遊んだりすることもある.そして,たまにイベントが開かれ,人がたくさん集まる.

 これらはある意味で全く別個の活動で,わざわざ1つの場所でやる必要もないし,個別に切り出してもっと良い形でできるのではないかと思っていた.そもそも日本にある物件はこれら3つを全てやるのに適していない.例えばイベントに関して言えば,クラブやイベントスペースなどは多くあるし,そこでやればそれはそれで満足する.また,私は2年前に「ニアハウス」という構想を考案した.それは,知り合い同士が同じ家ではなく同じ町の近所に住み,それとは別個で町の中心部に場所を借りて集まればいいのではないかという構想だ.考えただけで何もしなかったが,似たようなことをしている人は周りに何人かいる.いずれにせよ,全部シェアハウスでやるのは無理があるのではと考えていた.

新しく作る場所は生産的である必要があると思われてきた

 ここで挙げた3つの活動のうち,明らかにおかしいのが「知り合いがふらっと立ち寄って適当にくつろいだり作業をしたり遊んだりする」ものだ.人間には居住が必要だ.また,イベントは日常と違った空間を提供する.しかし,普段において人と会って雑談をしたり,くつろいだりだらだらしたりするのに何の必要があるのか.そもそも活動かどうかが怪しい.ただ,なにか人と会ったほうが落ち着くこともあるし,人がいる環境では作業がはかどったりすることもある.その逆もあって1人になりたいこともあるので人間というのは変であるが,とにかく集まったらなんか良いということを経験的に私たちは理解している.

 従来から,「新しい場所を作る」ということは「新しい生産的な活動を作る」ということと同義だったように思える.まちづくりの文脈では何かNPOなどが活動を行えるスペースを作ったり,最近では行政と市民の関係を作るために場が作られることもある.ノマドワーキングコワーキングスペースでは人々は基本的に仕事をする.また,スコープが広くなるが「創造都市」「クリエイティブ都市」も明らかに新しい物を生産することを意図している.

 ギークハウスについても,そういう風にとっている人々はいる.ギークハウスはもともとインターネットが好きな人が集まって適当に暮らすという非常に雑なコンセプトで産まれたが,いろいろなものができていくにつれ,ITのスキルを持ったり学んだりしたい人が集まってシナジーを生み出し,起業を目指すというスタイルのものも登場した.特にそれをギークハウスにしない理由もないし,その意味で名前以外に統一性はなくなりつつあるのだが,ともかく場を作ることによる生産を目指す人は,ギークハウス界隈にもいる.

だらだらしたり寝たりする機能を街に開放する

 しかし,何も生産しない「だらだらする」「寝る」「雑談する」「遊ぶ」といった活動もまた,人の活動の重要な構成要素の一つで,都市はそれを提供する.しかし,それはあくまでインフォーマルな形である.一時期流行った「サードプレイス」の概念は家と職場の他の第三の居場所として,バーなどを提示した.バーは良く,酒もあるし雑談もできる.他にも,スポーツなどの余暇的活動も都市で提供されている.

 それを差し引いて考えると,都市に足りない要素がある.適当な姿勢でくつろいだり,寝たりするのは,実質的に家でしかできないのだ.家においては雑談や遊びとシームレスな形でくつろいだり寝たりすることができる.しかし,カフェやバーではそれができない.だとしたら,それを都市でやってみる可能性はあるのではないか.

 「住む」と「くつろぐ」は微妙な差がある.カフェでもとてもくつろげる場合はあるし,逆に崩壊した家庭では住んでいる場所でもくつろげない.恐らく,その間というものを考える必要があるのではないか.ついでに,都市でそういうことができれば,新しい生産のための労働力の再生産につながるため,その意味では最終的に生産につながると思う.