表現の練習 vs. 人格批判

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2

を読んでから感じてきた、この違和感をどうにか形にできるような気がしてきた。表題とは離れてしまったが、トラックバックを既に打ってあるのでこのままで。(id:next49氏の関心からは離れていると思われるので、まともなリプライは期待しない)

「理解」というキーワードでこの問題に迫っていこう。まず、「表現」と「表現の練習」は、ここでは明確に区別されている。

「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2

端的に、これは「発表」の場においては間違っている。発表は1回限りで、それが理解されたかどうかで成否が明確に分かれる。つまり、発表には「失敗」がある。「そのときの発表での失敗」は、発表後には取り返すことができない。また、自身のアイデアは、大半の場合、最初から理解できる形で出てくるわけではない。

このため、表現には「理解できないアイデア」から「理解できる表現」にフォーミングしていく過程が必然的についてくる。その一手段が「発表の練習」であるといえる。その性質から、発表の練習は「理解されない」ということを内部に抱えることになる。

「理解されない」ということは、自分の意見が理解された上で否定されることよりも、はるかにストレスの溜まることである。理解されないから、まずその部分を内容面でどう直したら良いかわからないので、話が進まない。また、理解されるためには結局「共通の知識」に頼ることになることが多い。そこでやはり「共通の知識をもつ人間」と「持たない人間」の格差が生じるため、指導教官と学生の関係は非対称になる。

ここまでで、「学生の発表の練習」の問題を一つ述べることができる。学生の発表練習の失敗は、指導教官が持つ「共通の知識」を持っていないこととして(学生にとっても指導教官にとっても)理解される可能性がある。それは、一種の「模範解答」であるとも言えるため、指導教官がもし「それを理解できるようにするにはどのような共通知識を知る必要があるか」を提示しなかった場合、「模範解答を求める」学生にとってそれはフラストレーションになる場合がある。また、そもそも理解できない発表に対して、指導教官がそれを与えるのは難しい。

また、発表練習では「発表の方法」への助言が多く見られるが、それも「発表をする人間」に対する言及を必然的に含んでしまうので、人格批判に至る場合が多い。このような問題は、発表自体でも、発表内容でもなく、「発表練習」特有のものである。

この後のエントリで挙げられている表現への3つの段階

  1. 素朴に疑問に思ったことを口に出せる
  2. 正解がない事柄に対して自分の主張を述べられる
  3. 他人に自分の主張が正しいことを説明できる

http://d.hatena.ne.jp/next49/20090225/p2

を全て満たさないような、つまり「理解」されないようなことが、発表練習では多く起こる。それは、共通の知識を持っていることに慣れており、そこから一つの回答を導き出せると前提する「模範解答を求める」タイプの学生には、またそうでなくても非常に辛いことである。このような場では、以下に注意することが効果的であると思われる。

  • 発表が理解できないのは、どちらのせいでもないし、共通の知識のあるなしであるとは限らないという前提に立つ
  • どこが理解できないのか明確にすることで、人格から理解の問題を切り離す
  • 「発表の方法」に対する助言の場合、特に気をつける

ちなみに、私の例を挙げよう。私は、卒論を執筆した年度の12月に2週間引きこもった。そのきっかけは、一つの院生を交えた発表練習である。個人的には努力したと思って構成を考え、レジュメを作成した。しかし、その結果が「で、君は何をしたいの?」「君のことは全く理解できない」「難しい本ばかり読んでいるから難しい言い回しをする」などの、人格批判に肉薄した発言である。それを改善する方法や、内容面に関する助言はほぼなかった。結局、私は卒業研究の当時進んでいた分の7割を捨てることになった。つまり、わかりやすさを評価軸にテーマを変更したのだ。