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そもそもなんでUI/UXを変えるのかについて

hatebu.me

blog.onpu-tamago.net

 面白い話題で、お二方とも知り合いなので私も議論に参加したい。風邪を引いて復帰中の駄文なのでそのあたりはご容赦を。

prerequesties

 ↑を両方読んで下さい。

abstract

 新しい技術なり概念なり使い方が現れてきたならUI/UXは必然的に変わるが、そうでない場合は保守的な方向に向かうのも必然に近い。

私たちにとって「パソコンとは何か」に対する見方は変わったのだろうか?

 論点の骨子は、「OS/情報機器のUIが新バージョンで変化する必要はあるのか」という点であると思う。かたや「使い慣れたものを使い続けたいだろう」ということであるし、一方で「環境が変わりつつあるなら変わるべきだ」という視点もある。

 私はWindows, Mac, Linux(Ubuntu)の最新バージョンを使っている(ごめんなさい嘘です、Macは少し古いです)。しかし、実際のところ私がやっていることにほとんど変化はない。相変わらずVT100にルーツを持つターミナルは常にどこかにあり、ウェブブラウザも常に開いている。ワープロソフトを不満を持ちながら使い、開発環境のatomも洗練されているものの基本的にIDEと柔軟なテキストエディタのいいとこどりをしたものだ。研究やライター業などの執筆環境については、ここ15年全く変わっていない。サクラエディタ(Wineで動かしている)とLaTeX。これが定番。PDFビューワーはそれなりに融通が効くものならどれでもいい。

 この実例で何が言いたいかというと、私個人としては「パソコンで何ができるか」ということの認識に対して15年以上何も変わっていないということだ。そして、それ以上を何も求めていない。執筆作業については、たまに気分を変えたい時にDOSにもどってしまうくらいだ。PC-9800系の暖かみのあるフォント…素晴らしい…というのはおいておいて、正直、使い方、そして何が使えるかという面では何も変わっていないのである。

 かといって昔に戻りたいとも思わない。最近のOSに搭載されたスナッピング機能(2つのウインドウを左右に並べる機能)は明らかに生産性を上げている(あー、Macだけ標準ないと思っていたら、Sierraで搭載されたのか。上げるか)。しかし、これも「タイル型ウインドウマネージャ」という昔からあり、多機能すぎて使いこなせなかったものを簡略化したものと解釈することができる。

 結局求めているものは既に昔からあるのだ。その上で、自分にとって既に快適充分なものをゴチャゴチャいじっていくのは好きではない。その点で、私は齋藤さんに賛同する。

スマートフォンは変わった

 一方で、スマートフォンについて見てみよう。基本的な思想としてデスクトップパソコンのUIをモバイル向けにしたWindows CENOKIASymbian OSの試みは、iOSAndroidにことごとく駆逐された(Windows Phone 7以降については…あれは物凄くよくできてるんだけど、ねえ…)。

 スマートフォンに期待されていることは、パソコンとは時間的空間的に全く異なる。時々刻々とソーシャル・ストリームで人とつながり、その場所に合ったように情報を取得し、発信する。屋外においては、これらはシンプルな形で実現されなければならない。そして、人間が小さいデバイスを手に持っている間の多くを占めるのが「暇」だ。それゆえ多くのシンプルなゲームが復活した。

 こうなれば、「何ができるか」はパソコンとはほとんど異なる。だから、UIも変化の必要があるのだ。そして、それは「パソコンもスマホの要素を取り入れるべき」ということを必ずしも意味しない。これについては次節で述べる。

スマホからパソコンへ」に見られるパソコン観の根本的な変化

 ここで1つ事例を挙げる。たまに若い人間がパソコンを欲しい理由として「スマホとかと違って映像とかをきれいに配信したいじゃん」などというものを挙げているのを聞く。彼らの「パソコン」への視点は私が先に挙げたものとは全く異なる。いや、俺も昔は…いいか。

 ここで言いたいのは、彼らがスマホをベースとしてパソコンを見ているということだ。我々はパソコンのサブセットとしてスマホを見ているきらいがある。こうなると、彼らがパソコンに求めるUI/UXは我々が慣れ親しんだものとは違うかもしれない。例えばタッチ操作がそうだ。タッチ前提で育ってきた彼らにとって、タッチを前提としないパソコンは大きなストレスになるだろう。だとしたら、パソコンもそれに対応すべきだ。だから、Windowsは8以降迷走しながらも完成度を高めつつある。

 もう1つ読み取れることは、例えば私がパソコンを主にドキュメントやコードを書くことから始めたのに対し、彼らは映像から始めるということだ。YouTuberの映像編集の過程を記録した動画を見たことがあるが、あれはあれでドキュメントとは全くやっていることが異なる。従来からの映像編集とも割りと異なる(凝った映像編集ではなく雑なんだが、雑にはフォーマットを統一できるという利点がある)。そしてそれはやってみないとわからない。

 「やってみないとわからない」これが1つのキーポイントであると思う。パソコンをドキュメントやコードを書くものとして見ているとしたら、いつまでもパソコンはそのままであり、またそのままでよい。しかし、パソコンでできることや役割も拡大しつつある。開発側がそれを考慮していることもあるだろうし、それによるUIの変更は「やったことのない」人間には不快に感じるだろう。

結論

 結論としては、パソコンについて昔から同じ使い方をして同じ見方をしてきたとしたら、UIの変化の必然性はない。しかし、パソコンには我々のやったことのない様々なことがあり、また、スマホからコンピュータに触った人々もおり、それらを考慮して設計者はUIを設計しているかもしれない。

 そして、その全てを満たすUIの設計は難しく、様々な人々の「使用」あるいは「使用観」が含まれている。ある意味で新しいUIに人間が慣れなければならないというのは、例えば若者の見ている視点と合わせなければならないということも意味するのではないか。その点で、私は高見さんの意見にも賛同する。

最後に、1つエクストリームな例を挙げる。

 これは、私が全く同じ作業について、新しいUIと古くからのUIで改善を試みた例である。

 最近、スマホタブレットでも論文を書けることを発見した。タブレットの直感的なUIで資料をめくり、スマホevernoteで書いていく。フリック入力は充分に速く、長文も書ける。文字数は体に叩き込んであるので問題はない。そして何より良い点は、ウインドウという単位ではなく「物理的に」2つの環境を自由に移動できることだ。一部の作業においてはこの方がパソコンより生産性が上がる場合すらある。これは恐らくVRなどの情報空間の構成の仕方に近い。

 そして、同じ論文執筆作業において、パソコンとマウス/タッチパッドで追いつかない場合がある。そこで手に入れたのが「トラックボール」である。トラックボールは古くからあり、流行はしなかったものの一部の人々を常に魅了してきた。私はある日直観的に、「これでは頭の動きに操作が追いつかない」と感じ、トラックボールを購入した。なんと驚くことか、ウインドウが、クリック操作が、どんどん変わっていく。こんな世界を見たことはなかった。トラックボール、素晴らしい…

 

LOGICOOL ワイヤレストラックボール M570t

LOGICOOL ワイヤレストラックボール M570t

 

 

俺がフレンズになれなかった理由

長く書いてもしかたがないのでささっと済ませる。

けものフレンズの優しい世界観

 「けものフレンズ」は、最初の2話に至るまでのあらゆる下馬評を覆して2017年をトップスピードで駆け抜けていき、そしてその世界は未だに広がっている。その主な原因として挙げられるのが、人間関係や打算などの面倒くさいことなしに、人の良いところを褒め、それぞれの個性を尊重する世界観だったと思う。そんな簡単なことがなぜ我々にはできなかったのか、この問いは、それなりに多くの人の心を打った。

 「そんな簡単なことがなぜ我々にはできなかったのか」。これについては、私は端的な答えを与えたい。できる。事実、私は人の良い部分を見つける能力に長けていた。そして、高校2年からインターネットのオフ会などで交流をし始め、人と関わる上でそれがとても大切だということに気づいた。人の長所や個性というのは、その人を覚え、関係を維持し、離さないといった、人間関係のあらゆるところに影響する。いろいろな場所に出入りしてきたが、自然と私の周りには人が集まってきたし、それはリアルとネットを問わなかった。

一人だけ優しくても強いものが生き残る

 実のところそれでうまくいくと思っていた。本当に素朴である。仕事にもつながったし、それで食えるのではと思ったこともあるし、恐らく今もそのつてで食えるかもしれない。しかし、様々な弱肉強食の世界の出来事がそれを打ち砕いた。

  • 新宿の某トーク系ライブハウスにおいて、好きだった人がイベントの主催者と付き合ってしまった。私はそれなりに頑張ってきたつもりであるが、やはりガンガン動ける人間、そして自然体で魅力のある人間には勝てなかった。
  • 高円寺の芸術や社会運動の界隈に出入りしており、自分も人を組んで何かできたらと思ったが、10歳くらい上の世代はノウハウも経験もあり、自分が何かできる隙などなく、むしろ邪魔者だった。
  • 大学2年次に入ってすぐに母が亡くなり、両親がいない状態になり、しばらくはそれについて自動的に口から出てしまう状態だったのだが、幸せを謳歌している同世代は「おもんないよ〜」と言うのみであった。

 こういったことが連なり、徐々に私は自信をなくしていった。そして、ある1つの考えに至る。

 

ーー俺は、人の良いところを見つけているのではなく、俺が人より劣っているだけなのではないか。

 

 そして、私を慰めてくれる人がかけてくれた言葉の中に多くあったフレーズがあった。「田島さんは優しいから」。そうか、「優しい」のは、だめなのか。優しさは最終的に良い方向に働くという助言をもらったこともある。また、これらの問題は時間が解決する側面もある。しかし、もはや私にはそれを受け止める余力はなかった。ただだめになるしかなかった。

 けものフレンズに戻ると、ジャパリパークの掟は自分の力で生きること、自分の身は自分で守ることだということが1話で言われている。私にはそれはできなかった。

弱肉強食の世界からも降りた

 この状況を打破する一つの方法がある。私を潰した人々のように、強くしたたかに、人を踏み潰しながら生きることだ。しかし、私はその方針を「嫌」だと感じた。それは、他の「優しい」人間を潰すことにもなってはしまわないか。自分がやられたから人にも不幸になれというほどには、私は悪くなりたくはない。

 結局折り合いがつかず、厭世的になって今に至る。その点でコンピュータ系の技術者というのは技術だけやっていればある意味でどうにかなるし、大学院というのは社会と距離を取るのに適した場所だ。

 かといって、コミュニティなどで人と関わることを辞めたわけではない。確かに去ったコミュニティは多くある。しかし、新しく関わった人々も多い。そして、微妙に独自の地位を確立することがある。私は「優しく」なる気はないが、普段の会話の中で、無意識に人の長所や個性について言及しているためかもしれないし、事実そうしていると思うことはある。相談などにも基本的には乗る。

 まあそれらも全て、「俺が人より劣っている」ということを前提としてのことだ。これについてはこのブログを読めばおわかりいただけると思う。2010年頃から「俺はもうだめだ」というのが口癖になり、数年後に出たOLYMPUS OM-D E-M5(愛機である)にちなんで OMD と略している。

結局何が正しかったのか、そして世界ダメ人間選手権へ

 ここ10年で、私の「劣り」は相当の域に達してきたと自負している。多くの人と会い、その全員から長所を引き出し、そしてそれを全て「自分の劣っている点」にしてきた。相当に「劣り」は強くなっていると思う。はっきり言って私に「劣っている」という観点で勝てる人間はそうそういないのではないか。

 そして、私はこの信念に疑いを抱いてもいる。本当に劣っているだけの人間だとしたら、なぜ今まで生きてこられたのか、そしてなぜ「自分の劣っている点」がさらに増えるだけなのに積極的に人と関わっているのか。私はそれを素直に受け止めるほどの、つまり自分が劣っていることをやめるほどの度量がない。

 だから、俺より劣っていると、俺を打ち負かすことのできる本物の駄目な人間を探している。そのために、世界ダメ人間選手権を開きたい。ダメ人間というのは、生死に直結し、生き方でもあるという点で「武道」であるといえる。基準が曖昧なのでルールなどは一切ない。その試験的なことを、今月の25日に行う。我こそはと思う方はぜひ参加されたい。

https://www.facebook.com/events/261113414356006/

「わずか6問で成人期ADHD患者を発見」について

medical-tribune.co.jp

論文を入手し、当該部分を訳しました。意訳です。医師が使うための基準なので、医師でない方が自分の参考にするのは悪くないと思いますが、他人に対して運用すると良くない結果を招くと思います。また、私は医師ではなく、この基準に責任を持つ立場ではないので、心当たりのある方は医師にご相談ください。

追記:質問文の原文がこちらで紹介されています。論文本文の方はこちら

 

以下の質問に、「全然ない」「稀に」「ときどき」「しばしば」「とてもよくある」でお答えください。「全然ない」を0点として、「稀に」以上を、「とてもよくある」を質問の最後の得点とした形で割って点数を出してください。


1.誰かがあなたに何かを話しかけているとき、直接あなたに話しかけているときであっても、集中するのに困難を感じてしまうことはどれだけ頻繁にありますか。(5点)
2.ずっと座っていることを期待されている会議などで、どれくらい頻繁に席を立ちますか。(5点)
3.自分の時間があるときに、くつろいだりリラックスすることに困難を感じることは、どれだけ頻繁にありますか。(5点)
4.会話中、どれだけ頻繁に人が喋っている際に割り込んでしまいますか。(2点)
5.直前まで物事を先送りしてしまうことがどれくらい頻繁にありますか。(4点)
6.日常生活に必要なきめ細かにやらなければならないことについて、どれだけ頻繁に他の人の助けを借りていますか。(3点)


14点以上はADHDの疑いがあります。

 

Appendix

そもそもこの基準って何なの?なんでこの6つなの?わけわかんないんだけど?について。

その通りで、なおかつDSM-5における診断基準と驚くほど合致するという変な基準です。

そもそも、精神科における精神疾患の診断は、症状も様々で医師の主観なども関わる曖昧なものでした。それは長年問題になっており、とりあえず診断基準だけは統一することで、治療のガイドラインを設けたり、学会などで意思疎通ができることを目指しました。

その手段として使われるものが「操作的診断基準」です。つまり、「この病気はこういうものであるから、この人はこの疾患だ」というのではなく、「この診断基準に当てはまるから、この人はこの疾患だ」ということを第一の基準にする、診断の方法をもって疾患を定義する方法です。精神科医が用いる標準マニュアルDSMは、この考え方を基本に構成されています。もちろん、この方法に問題点はあるのですが、とりあえずの糸口として有効だということです。

しかし、ADHDなどは少なくとも診断面では流行している障害で、DSMを毎回厳格に適用していたらきりがないため、簡単ですぐに結果が出てそこそこDSMと比較して精度も出るASRSというものができました。それをアップデートしようというのが今回の趣旨です。

DSMでは多くの診断基準がありますが、「この項目が当てはまる人はまずこれも当てはまる」といったものが見られます。DSMには疾患を定義する側面があるため、恐らくそういった冗長性を認めています。しかし、例えば簡単なチェックリストを作る場合は重複しそうな項目は不要です。それを排除するために本研究ではコンピュータによる自動での判断、具体的には機械学習による判別を用いました。その結果、「なぜかはわからないが」この6つが残り、しかも充分な精度が出ました。

なので、ある意味でわけがわからないのは当然で、ちゃんと疾患について理解するのとは全く別の目的で作られたテクニカルなものだということは留意すべきだと思います。

例えば医者ロボみたいなものにこのチェックリストが実装されていたとして、医者ロボはADHDのスクリーニングはできるかもしれませんが、それがADHDを理解していることを意味しているかというと、私はそうは思いません。これは近年の人工知能一般にいえます。

リモートワークについて

はてなブックマークなどで「リモートワーク」に関する記事をいくつか読んでいるのだが、私の会社で数年間実践されていることとどうも合わないので、いろいろ書き留めておく。

Acknowledgements

以下に書かれていることは一つの特殊事例であり、読者の環境や感情に適合するとは限らない。組織の作り方、維持の仕方、テクノロジーの導入の仕方によって、時間的空間的にいろいろなやり方があるということを明記しておく。

Main Claims

  • リモートワークは、在宅など自由な空間で勤務するのみならず、時間も自由にし得る
  • リモートワークは、コミュニケーションを密に取る必要がある場合もあるが、無駄なコミュニケーションを省く基盤にもなる

本論

 近年「リモートワーク」を導入したという事例が特にソフトウェア開発の分野で盛んになっている。その中で、リモートワークは新しい働き方として認識されており、それをどううまく運用するかが一つの焦点になっている。しかし、現存するリモートワークのベスト・プラクティスにはいくつかリモートワークの可能性を狭めるような印象を覚える。

時間を管理するか自由にするか

 1つには、リモートワークが在宅勤務などの「空間を自由にする」働き方として捉えられているということが挙げられる。リモートなのでそれはそうだ。その中には様々な種類があり、完全にリモートに移行した企業もあれば、オフィスを持ち、一部の構成員が完全もしくは部分的にリモートで働くということもある。

 そこで即座に生じるのが、勤務時間の管理の問題である。オフィスがあれば、誰が何時に仕事を始めて何時に終わったかを把握できる(もっとも、ごまかしは横行しているが)。しかし、リモートだとそれができない。なので、擬似的に「出社」あるいは「タイムカード」を導入している事例が多い。もしくは、働いているかをカメラなどのセンサーで監視することもあるだろう。

 しかしながら、私はそういった会社で働くことができない。私は障害で時間を守ることができず、勤務時間が決まった会社では働けない。今の会社は「正社員、勤務先自由、完全フレックス」という条件で入社し、5年が過ぎた。現在は夜型の生活を送っている。それが最も効果的に働けるためだ。朝から働いたら精神を壊してしまう。「完全リモートワークで、週1日でいいから働いてくれないか」とのメッセージをいただいたことがあるが、その自信すらないので断ってしまった。

 また、勤務時間も不規則である、というか少ない。どれだけ少ないかというと恐らく週40時間働いているか怪しく、働いていない日もある(1日17時間働くこともあるが、ボロボロになった)のだが、「相応の働きをすれば問題ない」ということで問題視はされていない。そもそも知的作業に使える時間は1日の中で4時間が限度だろう。と書いたが絶好調なら5時間はいけるかもしれない。それ以上働くのは単純な事務作業なら良いかもしれないが、それ以上のことをやろうとすると生産性が一気に落ちる。というか、多くの場合マイナスになる。変なコードや文書を書いたら直さなければならないので。17時間働いた日は酷かった。

 ここまで読んで多くの人は「お前は給料泥棒じゃないか?」と思うだろう。週40時間働かないで正社員としてフルの給料をもらうなんておかしいんじゃないか。それに対しては一応「40時間は法定の基準であり、正社員かどうかとは関係ない」と述べておく。いわゆる変形労働時間制であるが、実質的に裁量労働制だともいえる。むしろ、賃金に見合う程度の成果を明らかに可視化しているし、そうなるようにキャッシュフローや会計面は把握している。

 ということで、時間も自由にして良いのではないか、それで問題ないのではないかというのが持論である。これに対してリモートワークはプラスに働く。通勤の問題と、オフィスの営業時間に縛られないためである。「時間を自由にすると働かなくなるんじゃないか」という意見もあるだろうが、それは人による。

コミュニケーションの問題

 リモートワークにすると、対面と比べてコミュニケーションが機会、量ともに少なくなってしまうので、密にコミュニケーションを取るようにしたらうまくいったというベスト・プラクティスがいくつか見られる。私に言わせてみれば、それだと困る。私はコミュニケーションにも障害があり、ビデオミーティングやチャットの曖昧な応酬だけでクタクタになって家でうずくまってしまう。

 さて、ここで考えてみて欲しい。そもそも、対面会話のように即座に伝えてレスポンスを受け取らなければならない情報というのはどれくらいあるのか。多くの情報はそうではなく、それにもかかわらず即レスを求めているのではないか。その場合、密にコミュニケーションを取ったら逆に混乱してしまう場合すらある。対面で、チャットでいくらでもそういった事例は見てきた。

 今はチケット管理システムやgit、ナレッジベースなどなど様々な非同期で情報を蓄積し、コミュニケーションを行えるツールがいくらでもある。それらをよく使えば、リモートワークもそうだし、オフィスワークにおいても無駄なコミュニケーションを減らせるのではないか。

 その上で対面のコミュニケーションが必要ならすればよい。私の場合、週1回の定例のミーティング(リモート参加がOK)のためにオフィスに行くことが多い。そこでたくさん喋ればだいたいのことは解決している。案件が炎上した場合、対面(わざわざ同僚に会いに新幹線で朝から移動したこともある)でもうまくいかなかった。

 もちろん、例えば企画職などで「対面で延々と話し続けないと仕事が進まない」種類の職業もあるだろう。あらゆる会話、書いたもの、見たものなどが重要になる種類の仕事だ。しかし、それらがリモートで可能になるのは時間の問題だと考えている。確かに今そういうことをリモートでやるのは不十分である。しかし、今後恐らくVR、AR系の技術が充分な密度の情報をやり取りできるような環境を提供できる可能性はある。

結論

 正直に言うと、勤務時間が決まっていて対面会話を再現すべく密にコミュニケーションを取る種類のリモートワークは、従来のオフィスワークと働き方そのものは変わっていないように思う。それより、テクノロジーをより積極的に使っていき、慣習を打ち破ってでも本質的な価値に集中したほうが良いのではないか。

 個人的な事情としては、時間を守れず、コミュニケーションもまともにとれない私が働けているリモートワークは、障害者など様々な働いていない人が労働に参加できる可能性を持っていると思う。それは働くことにとどまらないだろう。もっとも、政府のテレワーク推進がそんなことを考えているとは思わないが。

SAO 劇場版の地理空間情報的な見どころ

話の本筋のネタバレはないと思います.シン・ゴジラを見る際に行政学をやっていると思うところがあるよねーという程度の話をします.観たあとに読んでも,観る前に読んでも知見はあると思います.ただし一般には観てない人は観てからの方が良いと思います.

お前誰よ

地理空間情報,ARアプリケーション開発者です.総務省聖地巡礼は数回しました.ネタ本があるので2016年くらいまでの最新事情は追っています.土木,インフラに関するアプリケーションなので,様々な職種のチームワークによって現場が成立しているという観点では,私は「土方」だと思います.

見どころ1:基礎的な空間情報

SAO 劇場版が AR に関するものだということは公知だということにします.基本的に,一般的な現在の視覚 AR に対する印象は,以下の2つに分類されると思います.

  • (マクロ)GPS による緯度経度情報に基づいたマッピング
  • (ミクロ)カメラ画像からの特徴認識に基づく現実世界へのマッピング

これに対して,最近の動きとしては,空撮や Google StreetView カーの拡張で,レーザーとカメラで現実世界を数cm~m単位で取得しています.これが基盤として公開されたら,マクロとミクロの境目はなくなります.その中でも写真測量をやっている会社のノウハウは強いです.アジア航測が東京を特殊機材を使った空撮で3Dにしたのですが,これはシン・ゴジラの東京駅のシーンで使われており,あれは実は空撮ではなく全部3Dです.さすがに東京駅周辺の3Dモデルを全部作るのは手間なので,駅周辺の倒れる建物だけを組んで,後はアジア航測のモデルを使っています.しかし,違和感を感じた方は少ないのではないでしょうか.違和感を感じた方は映画を見ることに向いていないと思います.

まあ買いましょう

で,まあ現実世界の3Dモデルを作るのには当然精度の限界があるのですが,SAOの映画版では凄いごまかしが行われています.つまり,現実世界の3D空間に覆いかぶせる形でゲームの3Dモデルをレンダリングしています.これなら,ピッタリ合う精度でなくても,現実世界の物体に当たらずに安全にゲームができます.例えば実世界を計測した3Dモデルと現実が20cmずれているとして,ARで見せたいモデルに50cmバッファを持たせれば現実の物体には当たりません.ハッキリ言ってこの発想はすごいと思いました.また,コンテンツは今の VR コンテンツを作るのと同じ方法で作れます.

当然日本の道は狭いので,多くの道路では50cmも削られたら話にならなくなると思うのですが,恐らくSAOの世界ではARを使える部分と使えない部分がハッキリと分かれています.というのも,既存のスマートフォンタブレットが使われているシーンと,ARが使われているシーンが分かれているためです.

見どころ2:ドローンなどによるリアルタイム空間情報測定

この映画で一番気になっていた部分が,戦いのシーンをどうやってARで実現しているのだろうということです.デバイス側で人の動きを感知するセンサーとしては,スマートフォンにあるように加速度センサーやジャイロ,地磁気センサーなどがありますが,全力で剣を振り回すとブレます.そこの問題はある程度解決されていて,手に持った棒状のデバイスが武器になるのですが,あれは恐らくPlayStation VRの棒の延長だと思います.あの棒はアイドルマスターシンデレラガールズをやればわかるのですが,かなりの精度で追ってくれます.

しかしながら,それは棒を持っているユーザーにとってのみ位置が合うのであり,人と人が剣劇をやる際は不十分です.なので,外部から空間情報を送ってやらないといけないのですが,その辺の描写もしっかりしています.ボスが出てくる場所でドローンが動いているのがその証拠です.あれにはカメラと恐らくレーザーがついており(これ以上の情報は本編のネタバレになります),リアルタイムで空間計測に加えて人間を感知しています.カメラのフォーカスが動いている描写があったので,被写界深度を使っているか,全員にフォーカスを合わせて顔認識や人物認識をやっていると思われます.作中でディープラーニングという言葉が出てきて,まだ使われてるのかよと思いましたが,我々は2004年くらいに生まれたソーシャルメディアという言葉をまだ使っているので多分そういうものだと思います.もっとも,それで剣劇に使える精度が出るかというと微妙ですが.複数のドローンが飛んでいるので,それらを協調させて精度を出しているのかな.あとは室内,ショッピングモールや駐車場については多分監視カメラ周りに空間情報を取るセンサーがあるんでしょうね.

結論

劇中の,2026年にARゲームが普及するというのは,それなりにリアルだと思います.精度を上げる方法はまだまだあるので.ただ,地理空間情報屋としてはごまかしてゲームにしてパッケージングするという才能は全く無いので,クッソーうらやましいと思う限りです.あと,本職の研究者の方が見たら突然今実現できるよと言いだす可能性もあります.私は所詮後追いで金貰ってやってるだけなので.あと,ARは視覚だけじゃなくていろいろあるだろ,という良くある批判については,映画を観てください.

見どころ3,4があるのですが,仕事で応用が効くので非公開とします.

さよなら Mac

Mac を捨て、 Thinkpad に移行しようとしている。おそらく完全にさよならするわけではない。しかし、フェードアウトしていくのだろう。

Thinkpad と私

 高校時代、初めてバイトの給料で買ったのが中古の Thinkpad 535X だった。当時から Thinkpad へのあこがれはあり、実際に購入したらとにかくかっこよかった。実機を見てみればわかると思うが、完全に無駄のないフォルムである。出っ張りやへこみのない外観、打ちやすいキーボード、そして一杯に広がった液晶画面。「大人の翼」というキャッチフレーズ通りである。

 535X は 2003 年まで使っていた。別にデスクトップはあったのだが、家庭環境が悪く母親に破壊されてしまった。正直性能が厳しいので、Vine Linux 2.6 を入れて運用していた。 apt は 1 回壊れた。 Web サーバを立てようと思い、 Air H" PHONE で外につないでサーバを公開した。電波が悪く 800bps しか出なかった。しかし、私は自分の力で外にコンテンツを発信したのだ。

 次に買ったのは 2004 年の正月で、 600X のジャンクである。これは言わずとしれた最高級機種である。この機種の利点はまさにキーボードに尽きる。外付け、ノート含め 600X を超えるキータッチには未だ出会っていない。ライターを始めた時期でもあり、心強い相棒だった。

 そこからしばらく Thinkpad からは離れていた。母親が亡くなり、人生が厳しくなったため強力なノートパソコンを購入したのだが、結局予算との兼ね合いで DELL の Latitude にした。これは数年使った。

Mac と、 Thinkpad から離れられない私

 私が Macbook Pro を初めて買ったのは修士 1 年の 2009 年である。目的はただ 1 つ、 iPhone アプリの開発である。当時は夢があった。 iPhone のアプリを開発できるという特権的な環境を、どうしても手に入れたかった。ちょうど 13 インチのモデルが出て、持ち運びやすくなった頃である。このMac はまずメモリスロットが 1 つ、次に SATA ポートが 1 つずつと 1 年でどんどん壊れていったが、最後は USB メモリで起動して展示用マシンとして使い、天寿を全うした。

 その後、 iOS アプリの開発のために個人用、社用で Mac は購入、供給され続けていた。正直に言うと、今は iOS 開発はしていない。 Android 、クライアントサイド Web での案件が主である。起業に関わったこともある。しかし、あれは本当にきつく、当時の Macbook Air を「罰 MBA 」と呼称していた。今はもはや、 iOS アプリで一発当てるという時代ではない。しかし、まだ Mac は手元にある。来ないチャンスを夢見て…

 次の Thinkpad を買ったのは 2010 年である。バイトで PHPSNS の開発をしていたのだが、GNU/Linux 環境で検証用の VM を手元でポッポコ立てられる方が捗る状況だったため、 X100e を購入した。これは変な機種で、初めてアイソレーションキーボードを搭載したのと、珍しい AMD 製の CPU を搭載した機種である。そして、DDR2 で 8GB 積むことができる。 VM に 512MB 割り当てるとすると何個も立てることができる。ちなみに Macbook Pro が壊れたので修士論文もこれで書いた。

 X100e は AMD 製 CPU が曲者で、もともと省電力向けの CPU+GPU を搭載する予定が製造が間に合わず、やむなく既存の CPU を搭載したものである。要は熱が出るのである。それ以降の機種ではちゃんと省電力のものを積んだから問題ないのだが、よく熱暴走を起こした。そして 2013 年、ついに熱が下がらなくなった。ありがとう。

 さて、それからしばらく Mac ユーザーをやっていた。今の会社に入社し、Macbook Air 11inchを入社時に購入してもらい、その後 Retina の 13inch が出たから購入し、 3 年も勤めることができたので新しい Retina の 13inch を社用で購入してもらった。その直後、 Air と古い Retina Pro は壊れてしまった。だいたい気づいてきた。私の使い方では、 Mac は壊れる。

 そんな折、「 Thinkpad の中古が異常に安い夢のような店がある」という情報をもらった。私は秋葉原に行き始めて18年経つが、全く知らなかった。そして探し当てた店は、夢のような店だった。覚えておいて損はない。

 その店で Thinkpad X220 を購入したのは、 2015 年 6 月である。いろいろあって博士課程に進学し、社会人学生になったのだが、仕事用 PC と研究用 PC を分けたかったのだ。この世代になると、もはや CPU の性能は最新のものと変わらない。そしてメモリを 16GB 積むことができる。これを購入し、いろいろ改造した結果ベゼルに「 Thinkpad X230 」と記載されているが、中身は X220 である。

 この X220 には致命的な欠点があった。バッテリーがもたないのだ。ただでさえ二足のわらじを履いており、外に出る頻度が増している。また、 Haswell 以降の CPU に慣れてしまうと、それ以前のものが非常にバッテリーの持ちが悪いものに思えてしまう。その事情もあり、結局うまく持ち歩けず、自室専用 PC となっている。

さよなら Mac

 先日、社用の Macbook Pro 13inch 2015 の Magsafe 部分が焦げてしまった。 Apple Care には入っていない。もともと純正の AC アダプタが変な熱を持っていたので、無料で治る可能性はある。また、 69000 円程度のロジックボード交換がかかっても会社が負担してくれるだろう。

 一応普通に使えて充電はできているし、原理上、治せば済む話である。しかし、嫌になった。またか。私は確かに使い方が荒い。しかし、こうも何台も壊れてくれるとさすがに使う気がなくなる。

 そんな折、 Thinkpad X240 のジャンクが例の店に入荷した。一週間前のニュースである。「少量入荷」とのことなので、売り切れている可能性がある。私は急いだ。そして、最後の 1 台を購入した。状態はそれなり、メインマシンとして不足はない。

 X240 には様々な欠点や批判がある。主な論点はこの 2 つである。

  • X220 から X260 までで、唯一メモリが 8GB までしか積めないマシンである: X220, 230 はメモリスロットが 2 つついており、それぞれに 8GB まで積むことができる。 X250, 260 はメモリスロットが 1 つだが、新しいため 16GB 積むことができる。 X240 は古いくせにメモリスロットが 1 つしかないため、 8GB しか積めないのである。
  • タッチパッドがクソ:タッチパッドがボタンと一体になっているため、 Thinkpad 伝統のトラックポイントを使うと、認識がとても怪しくなる。そしてでかいため、指が触れて誤操作の原因になってしまう。
    これについては、 Mac から影響を受けたのではないかと考えている。実際に、タッチパッドのみで使っていると驚くほど Mac ユーザーにとって違和感がない。そこを従来のトラックポイントと無理に合わせようとしたため、中途半端になってしまったと思われる。実際、 X220 を使う際はトラックポイントを使っているのだが、 X240 では全く使っていない。

この他にも、ちょうど同じような境遇の方が Thinkpad X260 について様々な不満を述べている。この記事のタイトルは、当然この方の記事のパクリである。

さよならMac | めがねをかけるんだ

この中からいくつか反論しておく。

  • Windows が使いにくい→GNU/Linux を使いましょう。
  • キーボードが打ちにくい→個人的には、それで Macbook を使って大丈夫なのかという疑問がある。 Macbook Pro でも 2012 年モデルまでは十分なキーストロークを保っていたが、 2015 年モデルは露骨に質が落ちている。 Macbook はさらに厳しかった。もちろん、これはどういった感覚を優先するかによるのだが。個人的には、長文を仕事なり研究で書いてきた Thinkpad は、例えば今この文章を書いている間でも非常に快適である。
  • Wi-Fi の ON/OFF キー→これは私も危惧していたのだが、 GNU/Linux では逆になっており、普段はFキーで、 fn キーを押しながらだと Wi-Fi などの設定になるようである。

 今の Thinkpad には例えば X32 の時代と比べて様々な不満があり、人によって気にするしないはあるだろう。しかしながら、それでも、 X240 は良い。超低電圧版なのでバッテリーも持つ。 Full HD なので A4 の論文 PDF も内容次第だが楽に読める。 VGA 端子も Ethernet 端子もあり、とても便利である。

 そして何より、 X240 の最も良いところは、他の最近の X シリーズに比べて良いところが 1 つもないところである。 X1 Carbon のようなとがった機種ではない。メモリ搭載量では他の機種に、キーボードでは X220 に負ける。そして、タッチパッドは一番ダメ。

 だからいいのである。ブラッシュアップされたできのいいのを使いたければ、そういうものを買えばいい。しかし、本物のマシーンは欠陥があるから愛することができる。個人的には、根本の部分はしっかり安定して動いて、人が触れる部分は欠陥があるのが良い。私は、欠陥のある人間である。欠陥に悩まされていない日はない。そこで Thinkpad X240 に触れるとまずシャッキっとする。  GNU/Linux が起動し、臨戦態勢に入る。そして、快適だが少し引っかかりのあるインタフェースは、自分がこのマシーンを使っているという感覚を絶えず思い起こさせる。そして、自分とマシーンが一体になるのである。一眼レフやクルマの喜びに近いものであろうと思う。欠陥のある人間と欠陥のあるマシーンが inter-act することにより、いつしかその欠陥が融合し、欠陥があるがゆえに人間とマシーンが一体となるのである。

 Mac は対照的なアプローチである。まず完璧なマシーンがある。そして、それが人間を支援し、人間を徐々に完璧にしていく。確かにそれはお利口な方法である。しかし、私は自分の本質的な欠陥を Mac が支援できないことを知っている。だから、最終的には私と Mac は一定以上近づくことはできない。そもそも壊れてほしくないのだが。

 そういうわけで、この先 Mac を使おうが、常に Thinkpad を一定程度使い続けることになると思う。これは感性である。

 はあ、 Genius Bar に行かないと…

メモ:組織→協力→脱協力的生産に向けて

 自分の将来的な身の振り方について少しは考えなければならないのだが,そのための仕組みから考えなければならないのが実情である.

 私は生来の障害もあり,同じ場所にずっといることができない.具体的には定時を守ることができず,守れたとしても同じ人とずっといると精神が悪くなってしまう.そういった普通の企業組織で長続きした例はない.今の会社は完全にリモートで時間も完全にフレックスなので働けている.一方,大学院博士課程においては,数少ない拘束がある.ゼミでの発表義務,そして学会などの手伝いなど,私からしても小さい事柄だなと感じるのだが,それでもうまくできないことがある.

 今まで多くのオープンなコミュニティに参加してきた.固定された会社や大学などの組織にとらわれないで何かをすることは,快適で,私が世の中に貢献することの助けになってきた.しかし,これもまた突き詰めるとだるい.別に誰が嫌いというものはない.だが,顔を突き合わせるために場所あるいは時間を合わせて,実際に顔を突き合わせて,話す.それが何度も続く.それなりに重要な立ち位置になっていく.だんだん気を使うようになっていく.だるい.

 私は人間が何らかの生産や社会への関与をしないと生きていけないことを知っているし,そうしたいと考えている.それは,人との関わりにおいて行われる.しかし,その個別の関わりが負担になるようでは,長期的にはジリ貧になる.

 「そんなことではどこの社会でもやっていけない」と何度も言われた.その通りだ.それは充分に承知している.しかし,ここ20年の潮流を考えると,1つの方向性として,そういう人間でも何らかの社会へのコミットメントや生産を「なるべく人と関わらないように」できないだろうか.そして,それがある種の自由を生み出すことを可能にしないだろうか.このプログラムを暫定的に「非協力的生産」と呼ぼう.その芽は既に世の中に出てきていると考えている.まずはそれらを丹念に見ていくことから始めたい.そして,それは恐らく「協力」あるいは「参加」と呼ばれるここ10年の潮流にある.

 既存の組織におけるコミュニケーションの変革については,情報社会論やコミュニケーション研究,コラボレーションシステムなど様々な分野で議論がなされてきた.その中には様々な共通する軸があると考えられる.例えば,階層型組織とネットワーク型組織,同期型コミュニケーションと非同期型コミュニケーション,対面対遠隔,共有財,フラッシュモブクラウドソーシングなど.これらは,人と関わらない方法を少しずつではあるが開拓してきたといえる.まずそれを検討したい.