RTAとしての人生、人生としてのRTA

holyangelnyako.hatenablog.com

正直、この人間がなぜこんなに自身を卑下しているのかわからなかった。

私はニコニコ動画の割と初期(テーブルマウンテンTAが流行った頃)からRTAでキーワード検索して気になった動画を視聴するのを日課にしており、今に至るもそのためだけに10年以上プレミアム会員を続けている。私はゲームが上手い方ではない、というかクリアできずに投げ出したゲームの方が多いほどのド下手な人間なので、すごいプレイを見るのを楽しみにしていたのだ。最近は「東北きりたん実況プレイ」タグも追っている。というか今の生きがいであるVTuberも東北きりたんもRTA動画の文脈から知った。ニコニコ動画のどうしようもない定型コメント「生きがい」を感じる。

RTA in Japan」が始まったとき、とうとうここまでポピュラーになったかという感じだった。「嵯峨」氏の記事にある通りRTAはある程度記事にされるようになり、盛り上がった動画なら視聴者もまあ多い。その中である意味到達点、すなわち「万博」としてRiJができたのは必然だろう。その走者や解説者は「認められた」ものとなる。

だからこそ、私は「嵯峨」氏の葛藤に以下のようにはてなブックマークでコメントした。

表に出してはいけない人間になるくらい己を削り切ってタイムを出すしかない世界/RiJの走者や解説者になっている段階でそこそこ名はあげてると思うんだけどなぁ

これは実際のところ私のRTAに求める像そのものだった。e-Sports界隈がプロゲーマーとストリーマーに分れたように、カジュアルに注目され名をあげる者もいれば、黙々と記録更新をして掲載し、再生やコメントも一切付かない者もいる。ある種その懐の深さが見られるからこそ、「注目されない」ことがなぜ問題になっているのかわからなかった。

しかし、先日どうしても観たいゲーム(名前は挙げません。ゼノギアスは家で観ました)があって「RTA in Japan Winter 2023」の現地に見に行ったところ、私の予想は完全に外れることとなった。私の穿ったRiJ像では、そこに集う者たちは

  • ゲームのみならず日常生活でも常に精悍な目をして臨む者
  • 感情を失ってずっと曖昧な笑みをしている者
  • 自身の「ラン」が終わったら他には目もくれずさっさと帰る者

などを想定していた。実際はそんなことはなかった。世界記録レベルの人々が集っており、その洗練されたランに圧倒された。しかし終わった後には彼らは普通に人と交流するゲーマーで、いつものメンツとコミュニティで集まって楽しくやり、すごい者は相応に人気だった。

まあこれを見てしまったら、「嵯峨」氏の記事への認識をあらためざるをえない。記録は最も重要だ。しかし、2番目に重要なのは「人気」…なんかそう思わせるものがあった。

私は…RTAという急速に状況が変わるジャンルの中でできるだけ把握しようと精悍にランを観覧した。観終わった後、この素晴らしいランを実際に目の前でやってくれた走者たちに「すごいものを見せてくれました!ありがとうございます!」とでも言おうかと思っていた。しかし、既にいつメンの「輪」ができており、そんな状況にない。曖昧な笑みをしてその場にあった「無」を取得しながら「輪」の少し後ろに立ち尽くしていた。そして、何も言わず帰宅した。

私の想定していたRiJ像を、現場でランもできない私自身が体現してしまった。結局のところ、私も「同族」を探しにきていた側面があり、一つの人間関係のタイプを求めていたに過ぎなかったのだ。その意味で、私もストイックとは程遠い。会場から持ち帰った「無」が私にまだ無になれていないと訴えかけてくる。

タイムのみが本質だ。しかしそれだけを追求するのは難しい。

みんな頑張っているね!応援しているよ!

38年間生きてきた人生もままならず、世の中には嫌いな人間の方が多いと知り、実際にインターネットでは皆攻撃性が高く、少しの失敗もいさかいの元になる。嫌になって引きこもり状態にある。そんなおかしい人間のための処世術を紹介する。

まあ、色々な人々と出会ってきた。

  • 恵まれた人間とそうでない人間
  • うまくやっている人間とそうでない人間
  • 成功した人間とそうでない人間
  • 自身の行動に自覚的な人間とそうでない人間
  • 悪口を言う人間ともっと酷い悪口を言う人間

その中で劣等感に苛まれ、情報や人間関係の波の中で「俺はもうだめだ」と20代の間言い続けた。

人の助言や仏教的な世界観によると、人のことは気にしないのがよいので、「不快な発言を見聞きしても、頭を切り替える」「上を見たらきりがない」「自分もこれだけのことをやっていると考える」などいろいろ試してみたが、どうもうまくいかない。また、もともと人に関心を持ちやすいたちのようだ。

もちろん、気が合うというか純粋に良いと思える人も多い。そのような人々は純粋に尊敬なり応援なりしてきた。そのような方々との閉じた交流が心の支えになってきた部分はある。今はない。

そんな中で表題の『みんな頑張っているね!応援しているよ!』という若干茶化した言い回しを心の中で使うようになった。最初は純粋に頑張っているけど関われない人に向けてだったが、ある日不快な情報を見た際にふと思った。「ここであのフレーズを使ってみてはどうか?」

効果はてきめんだった。悲しいニュースからインターネットの過激発言まで、あらゆることにそう思っていなくても『みんな頑張っているね!応援しているよ!』と心の中で言うことで今までにない距離をおくことができるようになった。とはいえ本当に無関心な方々にはまだ及ばないので更なる精進が必要である。

一方で、本当に頑張っていると思い、応援している人に対しての関心も薄まっていった。「みんな」の中に吸収されていき、宝石は砂漠の中に埋もれて行った。これは寂しいことだが、寂しさは常に感じているので問題はない。心のやり取りではなく情報や知識のやり取りをすればよい。

今年、リアルでもインターネットでも急激に人間関係が減って、もしくは減らしていった。一方で研究はかつてないほどうまくいっており、困難さも増している。そんな中で押しつぶされ蒸留された結果こうなった。多くの人間にはおすすめできない。

この記事を訪れてくださった方々にかける言葉があるとすれば、この一つである。

みんな頑張っているね!応援しているよ!

「若者」時代の終わり

niryuu.hatenablog.com

の続き。5年後どうなったか。

「高円寺は若者の街です!」つきあいで参加した高円寺再開発反対デモの参加者が叫ぶのを聞いた。しかし、その実は参加者の多くは「若者」とは言えない年齢だった。彼らが「若者の街」を守るべきなのか、本物の若者に任せるべきではないのか、そのような思いもありながら私も既にアラフォーだ。ちなみに再開発に対しては反対寄りのニュートラルである。そもそも街に一定以上の活気がなかったら、古い街を活かすこともできない。箱だけに目を向けては解決しない。

だがまあ、「若者の街」という表現は合ってはいる。この街は、年齢に関係なく、一般的な価値観ではない何かを達成しようとして道半ばの人間が非常に多い。だいたい才能のあるやつは20代後半には去っていく。というか、追い出される。その間、高円寺は拠点、居場所、棲家、そんなものを与えてくれる。その意味では若者にとって良い街だと言えるだろう。

あれだが成功できなかったやつはどうなるか。高円寺に居続け、夢を見ながら街に同化していく。年齢を重ねるにつれ成功の可能性は下がる。30代では職について結婚してと一般的な方向に進んで去っていく連中が多い。そうでなかったら飲み続ける。どうにもならない日々を消化しながら。もちろんそうでない人も多い。高円寺そのものに向いている人々、高円寺で多くの友人に恵まれ、活動をし、店などをやることができた人々などは、一種の成功者と言えるだろう。そのほかにもいろいろある。

とまあ高円寺で成功するといい意味で追い出される。私はというと、ただの飲んだくれで終わるのだろうと思っていた。その意味で、拠点としていた飲み屋がなくなっても、他の場所で少し居心地の悪さを感じながら残っていた。

そんな日々に終わりが来た。先日の記事

niryuu.hatenablog.com

で「最終的に自分の挫折にケリを付け、前に進み始める意志を持つのは自分の力しかない。それができるだろうか。」と締めた。結果的に前に進むことができた。詳しくは言わないが失ったものはあった。学会発表は成功し、いろいろ良い話が動いている。シンポジウムにも呼ばれるようになった。本物の若手だったらアカポスも夢ではないだろう。その後どうなるかは分からないが、できるところまでやってみようと思う。

そして、高円寺から「追い出し」の時が来たように思う。正直現役でやっている人間に対しては周りの視線は冷たい。徐々にそれは強まっていった。ちょっとしたいざこざはつきものなのだが、ある事件をきっかけに私は常連客だったバーに行くのをやめた。高円寺では飲まないだろう。追い出しの時が来たのだ。

「若者」卒業だ。

そんなこんなで、人間関係全体がいろいろあった結果、自分の専門分野の学者数名と、今関わっている活発なプロジェクトのメンバー、そして腐れ縁になった。正直これは理想としていた。「こういう交流をしたい」というものが今ここにある。しかし、それに至る過程には多くの別れがあった。心の整理はまだできていない。

まあ本音を言うと独特の存在感は出してはいたが、成果出したの38だしなー。今関わっている方々はさすがに皆もっと若く結果を出している。キャリアとしてはかなり変な感じで扱いづらい。遅咲きすぎる訳では無いが、すでにとっくに諦めた人間が多いほどには遅い。あと、いわゆる中年の危機もあり、人間関係再構築の時期でもある。悪いことだけは普通の人と同じ時期に来るのがしゃくだ。

結局色々ごちゃごちゃした状況になったが、今は前に進むことを考えた方がいい。今を逃したら次のチャンスはおそらく50、少なくとも再挑戦なんてできないし、生きているかもわからない。

私はなぜ無能か

私のことを無能だとか低収入だとかなんとか言ってくる人々がいるが、そのようなことは百も承知である。いまさらなのだがあらためてまとめておく。

CVはこちらです。

github.com

一言で言えば、労働市場に参加する資格がないからである。

まず大前提として、以下のディスアドバンテージがある。

  • 完全に壊れた家庭で育った:片親は難病と統合失調症だった。そこそこ偏差値の高い中学に受かったが貧困で行けなかった。その後そもそも家で過ごすのが危険になった。実家が太くて幸せな経験しかしていない人とは見ている世界が違う。
  • 発達障害:いろいろあるので障害名だけでは説明したことにならない。詳述はしない。医師からは就職は無理、働かない方がいいと初診から言われている。
  • 鬱病ドロップアウト:まあ学歴があればどうにかなる。理系の情報系の学科にいたのだが、20歳で母親が亡くなって鬱病をやってしまった。そこそこ良くなったのだが、戻りたくもなく社会学編入学し、就職後博士課程まで行った。

とはいえ、そのような状況で高収入を手にした人もいくらでもいる。幸せなのは良いと思う。ではなぜ私がまともな労働をしていないか。以下に致命的なファクターをまとめる。

  • 就職活動をするコミュニケーション能力がない:そもそも、おそらく障害由来で、人に自分から話しかけることが非常に苦手である。それゆえ、職に関する話を転職エージェントなり知人なりとするのも困難である。同様の理由でフリーランスも困難。今まで働けているのは全て向こうからのオファーである。
  • 決まった時間働けない:おそらく1日に守れる時間は1回が限度である。資格学校の先生で週3日働いていたが、3ヶ月で限界になった。また、集中力が持たず1日1時間半を3回くらいが限界。あとは曖昧な稼働になる。だからフルリモート、フルフレックスで働いている。実情としてはフルタイムではないが、フルタイム扱いになっている。社長にも正直に話してあり、結構働いており、案件はちゃんとこなしているので表では問題にはなっていない。逆に働きすぎる月もある。

とはいえ、そのような状況で高収入を手にした人も多少いる。幸せなのは良いと思う。ではなぜ私が現状維持をしているのか。ここに2つの選択肢がある。

  1. オファーはあるので、転職して高収入でバリバリ働く:なくはない。しかし、おそらく仕事だけで一杯になってしまい、他のことは何もできなくなってしまうだろう。多少の趣味は必要である。無理をしたら恒久的に精神を病む可能性がある。例えば3年働いて経済的な安定を得るという選択肢もあるが、メリデメ、リスクを考えると失敗する可能性が高い。
  2. 今の会社で働き続け、そこそこ自由に研究や趣味をやる:常に収入面では不安であるが、低すぎるわけではない。また、11年務めたため私の特性についていろいろわかってもらっている。本気で論文などを書くとなると大変だが、割と楽して楽しく生きている。

私は後者を選んだ。それを無能と呼んでもよい。

FAQ

  • そもそも、あなたの人格に問題があるのでは?
    →特定の状況で非常に不適切なことをすることはあります。しかし、馴染める場所もあるし、その点で生き延びられる場所は限られます。八方美人ではないです。
  • 頑張れよ
    →歳なので体鍛えたりリスキリングしたり論文書いたりいろいろやっています。
  • でもお前低収入でしょ
    →はい。
  • 有能な人は高収入を得ながら仕事と研究を両立させてるよ?
    →業績をあげてる人が言うなら全くその通りなのですが、そのようなことを言う人ほど自分の業績を隠すのですよね。私にかまっている暇があれば研究したほうがよいのでは?
  • 学部電通大の人間コミュニケーション学科でしょ。低学歴では?博士課程で慶應に行ったロンダ野郎。博士取れなかった無能!そもそも文系の博士なんて意味あるの?
    →はい。確かに高校で学歴レースは諦めましたよ。なので技術面の教育は工業高校卒となります。コロナでオンライン授業になった時期が博士課程最後の学年なので、いくつか情報工学の学部と院の授業を受けましたが、OS、コンピュータアーキテクチャ、計算モデルなどについては割とわかっているようです。そりゃ東大の理情の博士に匹敵するとは思いませんが。結局私は文系です。でもね、今の研究最高に楽しくて止められないんですよ。
  • 先に金を儲けてあとで自由に研究すればいいのでは?
    →それ、失敗例すごく多いんですよ…歴史に興味があるけどがむしゃらに仕事してて、定年で復帰したら陰謀論に行っちゃったり。というか、そのような人々の欲望を利用しているのが陰謀論や過激な政治思想です。現役のうちから色々学んでおくに越したことはありません。

対話型AIから自身の考えや問いを引き出す手法で、人類のための技術にする

 ChatGPTなどの対話型AIが話題になっている。その出力は人が活用できる程度に洗練されており、対話というインタフェースも相まって様々な分野で活用されている。

 対話型AIにたいしてまことしやかに言われていることが、「頭の良い人でないと使えない」という問題だ。具体的には、問いを立てる能力、明確に指示をする能力などが求められる。そして、そのような能力に欠けている人間は対話型AIをうまく使いこなせないという格差が生まれるという筋書きだ。確かに、これらの能力を研究者として鍛えてきた私は、対話型AIに指示をする際はそのようにする。

 しかし、この考えには情報技術が普及して以来何度も直面した問題がある。パソコン登場以降のコンピュータの歴史は、人を支援する技術としてのコンピュータの歴史でもある。しかし、多くの場合、頭の良い人やできる人ばかりを支援してきたように思う。例えばソーシャルメディアは、文章などをアウトプットできる能力を持った人を積極的に支援してきた。

 それではだめだと思う。能力に恵まれていない人こそ、AIによって支援されるべきだ。諦めてはいけない。人類が対話型AIの恩恵を受けるべきだ。だとすれば、問いを立てられない、指示をできない人に対してはどうすればいいのか。問いや指示をすることを支援してやればいいのだ。

 人間には、記憶に埋もれてしまっていること、漠然としているが思考に現れないこと、考えたいが言葉にできないことなど、様々な隠れた問いや考えがある。それらは、表に出てくる言動に影響する。人同士なら、一種の空気を読む技術や、一緒にいた経験で補うことができたりできなかったりする。それらも、表に出てきた言動を手がかりにして行うことだ。

 よって、AIにやらせるべきタスクを1つ考案した。「自分が考えていることについて、深堀りしたり欠けているものを提示する」ことだ。このための1つの手法として、人間同士のやり取りにインスピレーションを受け、「与えた文章に質問をさせる」という手法を考案した。よい質問は、相手が何を考えるべきかについて的確に突いてくる。そして、そこから考えを言語化し、問いや本当に必要な指示を引き出すことができる。それが対話型AIにできたならまさに言語化が難しい人に支援を提供できる。

 しかしこれは難しい。対話型AIの典型的なタスクは、質問に答えることだ。質問をさせるというのは、逆のタスクであり、論文を調べたところ難しいことがわかった。ChatGPTでも微妙だった。ところが、ふと思い立ってBingのチャット機能に「以下の文章に質問をしてください。[文章]」と入力したところ、実に的確な質問をしてくれた。BingがGPT-4ベースであることに気づいたのは1ヶ月後だった。GPT-4ベースのChatGPTでも明らかに的確な質問をしてくれたため、明らかにGPT-3.5と比べて能力が向上していると考えられる。

 これをもとに、まさに問いと不確実な情報を扱う作業である、学術研究を支援することを試し(順番としてはもともと研究支援に関心があり、対話型AIを使った)、3月28日に「大規模言語モデルに基づいた対話型AIによる研究支援に関する初歩的分析」という表題で学会発表をした(予稿)(スライド)。このブログ記事は研究発表から話題を広げたものだ。

 対話型AIは学術研究のような難しい問題にも、専門家には及ばないものの研究者なら普通にするような的確な質問をしてくれた。だとしたら、対話型AIは様々な領域に対応できるため、例えば仕事などで悩んでうまく行かないときや、考えがまとまらないときなどにも役に立つのではないか。実は、仕事をする際に既にそのような使い方をし(匿名化、オプトアウトなどは前提)、様々なプロジェクトで問題となっていたコミュニケーションの問題に着手しようとしている。しかし、表に出せないのが残念だ。

 多くの対話型AIの使い方は、文章を生成させることだ。それには、対話型AIが生成型のAIだという出自も関わっているだろう。しかし、せっかく対話型AIがあるのだから、対話によってなされてきた様々なことを支援させてみるのはどうだろうか。とりあえず「以下の文章に質問をしてください」を状況に合わせてカスタマイズするだけである程度はいけます。

研究者としての挫折から立ち直るのは難しい

前回の記事から1ヶ月強経っただろうか、

などを行い、2年折れていた心でゆっくりと進み始めた。しかし、単位取得退学した今、研究を続けることは難しい。このため、ChatGPTが研究に活用できないかということについて考えていた。

大学を去ってアクセスできなくなったことはいろいろあるが、最も大きいのはゼミにおける議論だろう。OBも発表はできるが、慣習上一定の出来でやらなければならないし、現役にも申し訳ない。

このため、ChatGPTから研究に関するフィードバックを得る手法を検討していた。しかし、質問や指摘をさせる能力はChatGPTには不完全だった。

そんな中、Bingのチャット機能へのアクセスを得た。どうやらChatGPTとは次元の違う能力のようだ。質問をさせてみた。できる!しかも実用的だ。

この段階で頭は研究としてまとめるように動き出した。札幌でより理解の深まったエスノメソドロジーの方法なら、今行ったチャットの記録だけでもいけるだろう。あとはいくつか肉をつければいい。自然言語処理に関する基礎知識はCertificateで得ているから教科書的に述べれば良い。それをどう現象とつなげるかが重要だ。

なんか揃ってきた気がする。しかしこれは研究として成立するのか。1週間後、出身のゼミで発表をした。ChatGPTには既に多くの人が注目しており、議論が盛り上がった。その中で「できるだけ速く発表したほうがいい」というエンカレッジメントをもらった。

しかし時間的制約がある。3日でアブストラクトを仕上げ、そこから1週間で論文を書かなければならない。さすがにこのスピードは無茶だ。しかし、ここでやらないと「次」「次の次」となる気がした。研究者として復帰するなら、ここが分水嶺の気がした。私は発表の申し込みをし、論文を書いた。

さて、それから2週間、仕事が忙しい中なんとかスライドもいい感じに仕上がってきた。既に発表をするには足りるだろう。恐らく国内でGPT-4を分析した最初の研究というアドもある。しかし、なんとも言えない不安と恐怖が私を襲う。

私は、挫折したのだ。他の人がわかるものを科学哲学の力を借りて何年もかけ、雑誌論文は仕上がらず、ろくでもない社会人院生だった。社会人としてもだめである。そんな私が、学会で発表してなんになるのか。

つまるところ、私は自分が研究者として活動を再開することに納得できていない。実際は既にしている。しかし、その直前には挫折がある。背水の陣からの出発である。今の「できている」とともに、多くの「できなかった」が未だに背中にのしかかっている。基本的に、成果を出せなかった人間がいきなり大成功することはない。あとは発表をすればいいだけ、しかしそれをやるのはできない俺だ。

先日ある方を励ました際に、自分は挫折してきた人間だから励ましの言葉は気休めにしかならないと知ってしまったと述べた。恐らく心情としては、そこから脱しきれていないのだ。いくらCertificateを得ようと、論文や発表の完成度が上がろうと、最終的に自分の挫折にケリを付け、前に進み始める意志を持つのは自分の力しかない。それができるだろうか。

発表までの日時が迫ってくる。

AIでポジティブ・シンキングを外部化する

天性の才能か継続的な訓練を積まなければ、人はポジティブであり続けることはできない。ChatGPTはそれができる。私が入力したconcernに、かなりの割合でポジティブに、建設的に返してくれる。それはある種、私が物事をポジティブに考えることを外部化しているとも言える。ChatGPTは確かに人間のような創造的なことはできない。しかし、モダリティはポジティブである。

その特徴が「学習」からいかに生み出されたのかはわからない。しかし、Webの登場、ソーシャルメディアの隆盛の事例を考えれば、それらに熱狂した人々は技術が存在するだけで人はポジティブになれた。とりあえず自分にはなにもないが何かこの技術でやってみようという気になった人が、多く斃れ、少数が成功した。ある技術をその仕組みと実世界での人による経験(インタフェース)の組み合わせだとすると、AIもそれに関わる人をポジティブにさせる側面がある。情報技術の負の側面である、社会の分断や過激化への寄与は、現在起こっている疫病や戦争を悪化させ、絶望的な未来を照らしている。その中で、ひたすらポジティブな技術が現れた。

ChatGPTのような大規模言語モデルを中心とした深層学習は、様々な問題を抱えてはいるが、それそのもので多くの人に未来を感じさせる段階まで発展した。また、ChatGPT自体からの応答もポジティブなものである。人にとってはこの2つは区別されず、ポジティブさが一体化された形で流入してくる。

もちろん、ポジティブであることが必ずしも人間の精神にとって良いわけではない。ウェルビーイングの立場では、適度に感じ、落ち着いた態度を取ることが適切だろう。その点で、ポジティブさを与えることはカウンセリングではない。しかし重要なのは、私が自分が持っていないポジティブな感性なり態度を利用できるようになったことだ。一般に人が生きていく際に、オプションは多いほうがいい。

以上のことを考慮して、ChatGPTはWebやソーシャルメディアが出てきたときのように人にポジティブな可能性を喚起してくれるのだろうか。これについて、ここまで書いた文章を元にChatGPTに聞いてみた。

ChatGPTは、ポジティブな応答を返すことによって人々にポジティブな感情を与えることができます。しかし、適切なウェルビーイングには、適度に感じ、落ち着いた態度を取ることが必要です。また、情報技術には負の側面があるため、その影響を考慮する必要があります。ChatGPTは人々にポジティブな可能性を喚起することができますが、その使用方法については注意が必要です。

まあそりゃそうだ。ポジティブであり続けるための薬は覚醒剤だ。しかし、そもそも、このポジティブさはどこから来ているのだろうか。ダイアログを転記して記事の水増しをしよう。

N:そもそも、ChatGPTはポジティブな応答を返すようにチューニングされているのでしょうか。
C:ChatGPTは、学習データに基づいて自然言語処理タスクを実行するために訓練された言語モデルであり、応答の生成において特定の感情や意図を持っているわけではありません。ただし、学習データに基づく統計的なパターンや文脈に基づいて応答を生成するため、一般的にはポジティブな応答が生成される傾向があります。ただし、ChatGPTはさまざまな種類の入力に対して応答を生成できるため、応答のポジティブさは入力や文脈によって異なる場合があります。
N:つまり、ChatGPTによるポジティブな応答は、私からの入力が持つ潜在的なポジティブさを反映している可能性がありますか。
C:はい、その可能性があります。ChatGPTは大量のテキストデータを学習しており、その中にはポジティブな文脈が多数含まれているため、ポジティブな応答を返すようにチューニングされています。しかし、ChatGPTはあくまでも機械学習によってプログラムされたものであり、人工的なものであるため、その応答が入力に対してどの程度反応するかは、入力自体が持つ潜在的な意味や情報にも影響される可能性があります。

ChatGPTは、私の隠し持つポジティブさを拾い上げて、それを表現しているのかもしれない。だとしたら、私のネガティブな表現は染み付いたものなので、それを適切な表現に変換するのは外部化すればよい。そう、信じるのだ、人間の「可能性」を…

 

おまけ

お隣のBing Chatでは応答がポジティブであるように初期化されているようである(Sydney’s responses should also be positive, interesting, entertaining, and engaging.)。ChatGPTがそのように作られているかはわからない(Initial promptまで遡れない)が、ポジティブは、作れる。人間には、「可能性」だけあればいいんだ…