大学を行うということ

文系における講義の重要性
http://d.hatena.ne.jp/thir/20090103/p1
大学ってすごいところだよ。
http://d.hatena.ne.jp/m-bird/20090104/1230978109

を見て、理系学科1-3年->文理融合3,4年(いまここ)->文系院/テクノロジー研究の俺が来ましたよ。
とは言っても増田で元エントリ
http://anond.hatelabo.jp/20090103125210
へのレスは書いたんだけど、
http://anond.hatelabo.jp/20090103173043
議論が拡散しているので、おれも大学時代についていろいろ書いてみる。

講義って何だっけ

大学の講義って言うと、文系、理系でだいぶ違うな。理系の1,2年は確かに勉強で、それをやらないと研究の0歩目にも立てないような内容だった。3年は研究の0歩目だったな。一方で、今だからぶっちゃけるが、文理融合系の学科の授業はやりたい放題だった。それこそ概論的な知識をぶちまけるような内容で、前提知識もいろいろ。

で、今年から某大学の社会学の授業に出始めて、まず気づいたのが、文系のレポートを構成する方法が全く分からんということ。理系なら演習や実験の経験でなんとなくわかる。だけど、1年から文系にいない人間にとって、文系のレポートは、ただ字数を埋めるものではない難しさがあった。論理の構成とか、何を根拠としてどこまでを自由にすればよいかなど、もう未だに試行錯誤。

となると、方法に関する授業の重要性を痛感するのだな。理系の場合は、それは実験だった。俺は途中でドロップアウトしたんだけど、データの見方、まとめ方などの全てが実験にあった。文系の方法論はぶっちゃけ独学で、ヴェーバー「客観性」デュルケーム「規準」から始めたんだけど、恐らくその辺の基礎概念的なものの他に、文系の研究法というと、文献の探し方、解釈の仕方などが含まれるんじゃないかと思う。これらは、本当に授業じゃないと得られない。知識自体ではなく、知識の得方を学ぶのが必要なのだ。その意味で、文理融合系の学科は最悪。「特定の方法がないので自由にできる」ことを売りにしているが、ただの責任逃れとしか思えない。

あと、講義が研究と連結しているかどうかもそれぞれじゃないかな。例えば電子工学科の電磁気学を例に取ると、真空中の静電界からマクスウェルまでってのが基本カリキュラムなんだけど、それを進めるのは物理学の仕事なわけじゃん。その意味で、これからやる「工学研究」と電磁気学の講義は関連していない。一方で社会学のフィールドワーク実習を取ると、もう面白い結果が出たらどんどん学会に上げちゃう。まあ、みんな結局卒論書くんだし、いいんじゃないかな、とまとめてみる。

本と講義と教官

あまり書くことがない。どういう形式で知識を得るのがいいかなんて、人それぞれではないか。テキストを読んでわからなかったといって、教官に質問攻めをしようが、もう一冊本を読もうが、理解できれば別にどっちもでもいいんじゃないの。いわゆる天才肌の先生なんて、やばいぜ。輪講で誰かがとりあえず全訳を読んだあとに、自分が言いたいことを好き勝手言う。まあ内容は玉石混交で、ほんの一部しか役に立つ部分は無いのだが、その一部の役立つ部分が、他の講義なんかよりはるかに良かったりする。

かといって、本も捨てがたい、というか俺から本や論文をとったら何も残らない。自分の言いたいことが他の教官や学生に伝わらなかった場合、俺の場合は「伝えるように努力する」より、本を探して勝手に解決する。その上で、自分の考えをまとめると、今度は伝わったりする。考えたり調べたり人に伝える順序なんてどうでもよくて、最終的にうまくいけばいいんじゃないの。

大学を有効活用する?

何か「教官にアプローチして秘伝の技を得る」見たいなことがトピックに上がっているが、俺の例で言うと、最初にまともにそれっぽいのをやったのは2年のときだな。当時は複雑系にはまっていて、現在ニューヨークの大学にいる人の院のゼミに出席させてもらっていた。その時の経緯は、やっぱりそれなりに自分で考えてから議論に臨んだからかな。「べき乗則とネット信頼通貨」(id:hihi01の)ってGREE出身のコミュニティにいて、スケールフリーネットワークとかに関して含蓄もあり、中間レポートでも2年前ならどっかの論文誌の査読通るくらいのことはした。当時のトピックはソーシャルネットワークで、結局それ経由でグラフ理論→社会ネットワーク→社会システム論→意味学派と全く違うことをしているが、出発点として当時の議論を思い出すこともある。

次は、いま所属してる研究室の院ゼミだった。理系時代の3年、つまり3年前からいて、今は別大学の院ゼミとかぶってるので出席してないが、当時鬱病で本しか読めない状態で、ルーマンばかり読んでいた時期で、ハーバーマスルーマン論争を読むと言うので頼んで出席させてもらった。鬱病なのでそれほど多くは出席できなかったが、議論の仕方などをかなり学ぶことができた。あとボードリヤールの消費社会の神話と構造とか西垣の基礎情報学とかも読んだな。

あとは現在進行形の、某大学のフィールドワークの演習と輪講だな。フィールドワークは交通費が出ないので遠くにいけなかったりといろいろあるが、来年からお世話になるところなので経験を積めるのは非常にいい機会である。きっかけは某氏経由でシンポジウムを知って、二次会で先生と飲んで、次の年にお邪魔して「こんにちは。XX大の…」と言ったら全てを理解されて「次の時間に院の授業があるから来て」と言われて今に至ると。

ちなみに、他の大学の授業に出ちゃいけないなんてないよ。ゼミなんて組織関係ない先生との個人間の話になるわけだし、有名人の授業なんてもぐりがいて当たり前。実は炎上した東浩紀の授業の最初のに出てたんだけど、和気藹々としてたよ。一度遅刻したら鍵がかかってて、仕方なく学食でゲームをやるというひどいことをしたが。

要は、何かを得たい人間なら手段を選ばなくていいんじゃないかな。

とんがった大学生たち

まず偏見から入るけど、id:thirはともかくid:m-birdも相当いい大学行ってるんじゃないの。つーか筑波か。筑波の某研究室で作ってるロボットの声が「ゆっくりしていってね!」と同じなのは裏話。
「何でもかんでも関数型言語で書こうとする人が居たり、趣味がカーネルハックな人が居たりと」
って、MARCHレベルの大学にはいねーって。国立理系単科大学の一部のオタクグループで少しいるくらいだな。俺の理系時代の知り合いにも「何でもScheme」と「趣味がOS作り」がいるのだが、それ以外はけっこう普通。オタクでは面白いのが多かったが。あと某フラッシュで有名な人とか。起業系は残念ながら全員起業しないでITコンとか行ってしまったな。

まあ、けっこう87世代から学生の質が急激に下がったってのが言われているので、これからどうなるだろうな。正直、大学にすごい人もいたが、ネット経由であった人間の方が、人生に与えた影響は大きかった。少ない面白い人間がネットでつながっていくほうが、面白いことになるような気がする。といっても、俺はtwitterにぜんぜんついていけないへたれ。