ドラえもんの最終回的現象

といっても、いわゆる噂で出回ってるのび太科学者説とか植物人間とかそういうのではなくて、最終回の内容自体でもない。

F氏が最初に最終回を書いたあとに、新作のキャラクターを考える段階で、どうしてもドラえもんに似たものしかできなくなってしまい、葛藤した結果最終的にドラえもんを描きたくなり、続行に至ったというエピソードについて考えたい。彼はなぜ実質的にドラえもんしか描けなくなったのか。いや、何が彼をドラえもんしか描けなくしたのか。

まず、これは明らかに出版側、または周囲の人間の要請ではない。ドラえもんのようなものを描けと言われたわけではないのだ。となると、ドラえもんを描かせたのはF氏本人であると考えられる。つまり、彼のドラえもんを描いてきた経験、または思い入れなどが、最終回以後も強い方向性を与えたのだ。しかし、これなら問題自体がないように見える。描きたくて描いたなら、そもそも葛藤など起きないはずだ。

もう一度エピソードに戻ってみよう。最終的には、ドラえもんを続行したのは作者と読者の意思だろう。しかし、最初の段階では、新作の製作に取り掛かっているためこの意思はなかった、あるいは表明するほどではなかったと思われる。つまり、途中で心変わりを起こしたわけだ。その心変わりに、ドラえもんしか描けなくなったというのが大きく影響しているというのが、私の主張だ。

特にゼロからの作品の製作には、文字的な思考や計画が影響することは少ない。製作者は、「何を作っているか」が完全にわからない状態で、その都度次に何をするかを理解しながら物を作っている。つまり、ドラえもんを作ろうとして作っているわけではないのに、明らかにドラえもんに似たものが作られていくという乖離が明白にそこには存在する。

つまり、この現象には異なる2つのメカニズムがある。ドラえもんと違った新作を作ろうという文字的な意思と、ドラえもんを作ろうとする実践だ。

さて、こうして出来上がった作品を見ると、私たちは「何だ、やっぱりドラえもんじゃん」と、また「Fはドラえもんを作りたかったのでは」と容易に理解できる。ここで注意したいのが、これはFにとっても同じだということである。つまり、F自身にとっても「何だ、やっぱりドラえもんじゃん」「Fはドラえもんを作りたかったのでは」は理解可能なのだ。となると、Fは「ドラえもんと違った新作を作る」という本来の意図と、「Fはドラえもんを作りたかったのでは」という作品の意図との矛盾に直面する。それこそが、心変わりに関わる2つの意思の接点だったと考えられる。つまり、Fの葛藤がF自身にも、また他の人間にも理解できるように暴露されてしまったのだ。その結果、彼は続行するという当初なかった判断を下すことになる。

以上のキーポイントは、「自身が表明している意図」と「作品を通じて理解できる意図」の違いだ。この問題は、誰にも発生しうる。私自身も現在直面している。もし何かを行う際に方向性が決まらなかったら、まず作ってみることだ。作品は、何らかの意図を提示する。

(もちろん、これはすべてを説明できるものではない。例えば、「同じ作者の似た作品を見て、元の作品を作りたいとなぜ理解できるのか」という問題に、この考察は答えていない)