忖度(そんたく)の正当性と暴力

そんたく 1 0 【▼忖度】
(名)スル
〔「忖」も「度」もはかる意〕他人の気持ちをおしはかること。推察。
「相手の心中を―する」
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%D7%D6%C5%D9&kind=jn&mode=0&base=1&row=0

だいぶ前だが、何回りか上の先輩に「人の気持ちを忖度する力を身につけて」と言われた。
要するに言葉を内容だけで判断せずにどのような気持ちでそれを言ったのか推し量った上で物事を判断しようということ。私のような本読みは常にそれを忘れがちだし、「人の気持ち」は会話のリソースとして役に立つ。ひねくれて否定することもないだろうし、良い助言だと思う。

しかしながら、忖度しているかどうかを実際の場面で確認する場合は、事態は一転する。
例えば私が人の気持ちを推し量って「〜と思っていたのかな」と言ったとする。それを忖度したか、もしくは曲解、ひねくれた、穿った見方をしたかどうかは、完全に受け手の判断による。人の気持ちはベールに包まれており、そのように記述されるため、当然「間違い」は日常的に起こる。しかし、それは忖度した上で間違えたとは判断されず、「忖度していない」と判断される場合すらあるのだ。

次に、私が忖度して「〜と思っていたのかな」と言ったとして、「それは穿った見方だ」と言われたとする。ここで相手は私の気持ちを忖度したのだろうか。その判断は今度は私にゆだねられる。そしてその判断も一種の忖度である。

つまるところ、忖度したかどうかを確認する手段などはない。本当の気持ちというものは本人にも分からず、コミュニケーションに現れる際は行為の理由付けなどのリソースとして使われるに。だから、客観的に人の気持ちを推し量ることも、推し量ったかどうかを判断することもできない。

だから、「忖度」とか人の気持ちに関する言葉は、そのまま暴力的な魔女裁判につながることも多い。理解しようという努力は一瞬にして無に帰す。そしてその場に居る全員が批判を始める。「もっと人の気持ちを理解するように努めよう」と彼らは言うが、そう言われたところで今直す部分があるかというとないし、人を理解するのには時間がかかる。にもかかわらず彼らが裁判をするのは、彼らが無意識だからと思う。

はっきり言って、これは胸くそが悪いし、そうでなくてもこの段階で話が止まってしまい、本題の議論もできない。だが、どんなフォーマルな議論でも「自分が相手をどう位置づけているか」は有用なリソースであることは否めない。それをどれだけ出すかを相手によって変えるのが効果的だが、それも一種の忖度だ。

忖度は道徳的に考えたら暴力につながる。しかし、会話のリソースを出していく点では確かに有効だ。絶対的な、心の中心におくべきものでもないし、むしろ後付けでもかまわない。そういうものだ。

「コミュニケーション能力」とかもそうだな。