引きこもってから14年,風邪にかからない秘訣

 「STAY HOME」の名のもとに日本人総引きこもり計画が進んでいるわけだが,私はこれが有効だということを知っている。なぜなら,14年間ほとんど夜にしか外に出ない生活を続けてきたからだ。そして,それ以前はインフルエンザや38度を超える熱の出る風邪にたびたびかかっていたにもかかわらず,引きこもって以降はかからなくなった。

 当然今のCOVID-19対策は集団に対してのものであり,ウイルスの様態も異なる。なので具体的な対策は各自正確な情報源にあたっていただくとして,私の習慣について経験を共有する。

私の持つ風邪にかからない習慣

  • 外に出ない:大学は夜学で多くて週3(通ってなかったかも),大学院修士課程は週1でしか外出していなかった。会社は完全リモート。博士課程序盤の週2回がつらかった。
  • 人と目を合わせない:これは引きこもる前からなのだが,90年代後半の東京の不良が多い地域では,目を合わせたら敵意を示すという文化があった。いわゆるガンというやつだ。その時の習慣がついて,人と目を合わせることはほとんどない。コロナウイルスの人-人感染は要は人の顔から噴出したものが人の顔にかかってなる。だとすれば人と顔を直線状に合わせないにこしたことはない。
  • 人と飯を食わない:これは生まれた時からなのだが,人に飯を食うところを見られるのが嫌いだ。私はとんでもない偏食で,頼むもの,食べるものの順番や食べ方が人と異なっているのだが,それを指摘されたくない。だから基本的に食事は一人で済ませる。これは比較的マイナーなコロナ情報なのだが,人と食べながら話すのは飛沫がガンガン飛んでやばいらしい。
  • 手を洗う:男性の引きこもりが手を洗う習慣を身に着けるのは,当然下半身を手でやるアレだ。さすがにアレのあとは手を洗う。私は回数が多いため,ガンガン手を洗う。そのうちなんか汚かったら手を洗うようになった。外に出たら基本的に汚くなるので,帰ったら手を洗うようにもなった。
  • 満員電車に乗らない:昔,精神が悪い状態で満員電車に乗ったら一瞬で調子を崩し,次の駅で降りて仲間に助けてもらった。対人恐怖症がそこまで進んでいるとは思わなかった。その時のことを繰り返さないように,満員電車には乗らないようにしている。自分が使う路線を複数熟知し,時間に合わせて路線を変えている。「あれっniryuuさん今日は~線なんですか」というのが多いのはこれが理由だ。
  • 息をしない:対人恐怖症の一種として,自分が臭いと思われているというのがある。なので,人込みではなるべく息をしない。実はこれが結構重要なのではないかと思う。そもそも吸うからウイルスが入ってくる。

おまけ

 ついでに引きこもるようになったきっかけについて書いておこう。20歳の誕生日の直前(5月),母が亡くなった。片親だったので両親がいないことになる。その後祖母と2人で暮らすようになった。いわゆる毒親だったので依存があったようで精神的ダメージは大きかったが,しばらくはうまくやっていた。

 明らかな不調をきたしたのは1月の成人式である。正直あれに参加しなければ持ちこたえられたかもしれない。成人式では,自分と同じ年齢で,同じ時を過ごした人々が一堂に会し飲むことになる。そしてわかった。彼らは幸せなのだ。私よりずっと。それに気づいた瞬間心がポキっと折れた。不調が見る見るうちに増していった。

 大学2年の終わりまでは乗り切ることができた。しかし,3年になってから通えなくなった。6月に留年が確定し,夜学に編入学した。その前後,失恋をした。私が好きになった女性は,いつも知らないところで付き合い始める。私はそれに気づけない。

 まあそんなこんなで,それまでいろいろ人間関係はあったのだが,どこに行っても己の不幸と「彼氏」への怨嗟をしゃべり続ける厄介な人間になってしまい,行ける場所がなくなってしまった。

 それ以来人が怖くなった。己の不幸を受け取る人間なんてこの世にはいない。外に出ている人間はみな私より幸せだ。外で歩いている人を見るのがつらい。気が付いたら対人恐怖症がかなりのところまで行っていた。これが人間の終わりである。

ポジティブな「俺はもうだめだ」

「俺はもうだめだ」が口癖になって10年になるが,実はそれにいたる元はポジティブな動機から来ている。

というのも,私は基本的に人に興味がない。人と話しても自分の話をするか,自分が面白いと思った話しか聞かない人間だった。

だから,自分が何かしようとするとき,人に助言をもらっても単に無視することが多かった。

一方で,世の中には自分の知らないことや,経験,能力を持っている人が多い。そのような人から適切に教えを請わないと,まともな成長は望めない。

そのために,無理やり人の話を自分に聞かせる必要がある。「すごいですね!」で終わらせてはならない。

その手段が,自分をだめであると明示することだ。私はこの能力についてだめだから,人の話を聞かなければならない。

それを追加することで,ようやく人の助言を活かすことができるようになった。

さて,そこまではよかった。その目で世の中を見てみよう。実は,一人一人見てみたら,自分はその人よりだめなのではないか。

恋愛ができる人は,恋愛ができない自分より良い。借金のない人は,借金のある自分より良い。自分より借金のある人は,借金ができる信用能力がある。

ある意味で,それは人の良いところを発見する作業である。しかし,発見すればするほどそれが重荷になる。

最終的に,私は自分は最低でどん底のだめな人間だと認識するに至った。

そうなると,今度はすごい人の助言を活かす際の精神的負荷が高くなってきた。助言は必要。受ける。そしてぶっ倒れウーだめだとウンウンうなる。活かせはする。

まあそれをどう健全にしていくかはわからず,試行錯誤しているのだが,そういう経緯がある。

自分のダメさを言葉にするというセラピー

少なくとも20年以上,自分のダメさと戦っているのだが,どうも理解してもらえないので書いておく。

まず基本的な点として,私という人間がだめであり,存在しないほうがいいということと,私が何かをするということは,頭の中で明確に分かれている。何かをするということについては,相当粘り強いほうだ。例えば半年の納期が2週間になったという場合でも,やるとなったらやる。6年間研究を頑張って何一つ期待した結果が出ないことがわかっているとしても,最後まではやる。

その上で,私という人間がだめであること,これを明確に定義するのは難しいのだが,頭の中で勝手に湧いてくるようになったのだから対処するしかない。腹減った,眠い,だめだ,そういう感じで,外界と接していると常にたまっていく。

で,どう対処するかだ。基本的に考えて言葉に出すか,何もしないかのどちらかなのだが,早く終わらせたほうが精神的にもなにかする点でも良い。だから,考えて言葉にする。考えて言葉にすると数時間程度で終わるが,何もしないと大体半日は何もしなくなる。この生活における違いは大きい。何もしなかったり,無理してポジティブに振る舞うことでなかったことにしたりすると今度は発達障害の症状の方が出てきてもっと悪くなる。

だから,何があって何がだめでと,いつか考えただろう思考をループさせながら考える。「真理」を発見して人に話したりソーシャルメディアに書き込んだりすることもある。そうすると症状自体が小さくなって消える。

これは治し方だ。なので止めないでほしい。

コロナ後に「平時」を取り戻す際の考慮をしたかった

Twitterの投稿がバズったので一時的にあまり見ないようになった。このような投稿がバズるのも世相を表しているとは思うが,バズは人間の汚い部分や偏見もさらけ出すのであまり好きではない。

 ここ数日,私にも「コロナ慣れ」のようなものが来た気がする。あからさまな鬱症状は普段に戻りつつある。現状に対する不満も消えつつある。これを単純に良いと捉えてよいかというと,微妙である。「自粛」「三密」「行動変容」といったよからぬ環境に対する不満というのは正常な反応で,それに対する感覚がマヒしている印象がある。どちらかというと死の受容のプロセス

ja.wikipedia.org

に近い。

 さて,前の記事でも指摘したように,感染症対策に対する総動員体制を批判することは難しい。感染症対策の専門家の意見は一般の意見を変える政治的な影響力を持ち,保守,革新,穏健,過激を問わずほとんどの政治的スタンスは自主的に行動を制限する方向に向かった。それに異を唱える声はかき消された。私にも公開できなかった記事がある。

 状況は少し変わり,医療従事者内部,評論家などから過度な行動制限の促進を危惧する声が出てきている。

www.mnhrl.com

dot.asahi.com

 両方が「家畜」という表現を使っているのは恐らく偶然で,あまり好きではない。しかし,「医療による死の恐怖は、まるで国民全体を徐々にカゴの中へ誘っているのかのようだ」「世界はコロナの恐怖に駆り立てられ、自由や人権についての議論をかなぐり捨てつつある。」といった危惧がようやく出てきたというのが重要な点だ。

 もちろん,これは今コロナ対策の手を緩めるべきということではない。程度や認識はともあれ世界的に先進国がとっている方策と離れているようには見えず,実際にある程度の効果はあげるだろう。COVID-19のもたらす健康的・経済的・社会的影響を抑えるためには今しばらくは現状を続けるしかない。それがいつまで続くかはわからない。個人的には慣れてしまったもんは仕方がないのだからその方が都合がよい。

 さて,重要な論点が「コロナ対策が終わった後,適切に制限を解除し,自由を確保できるのか」という点である。今,自由は制限されている。確かに,緊急事態宣言下でも我々は自由に国内を移動でき,危惧していた警察力の強化も,警察官の感染コロナ対策にキャパシティを割くことによる基礎的な治安の悪化の懸念などから二の足を踏んでいる。しかし,私たちが基本的に消費社会の下に生きている以上,そしてその多くが未だ対面で行われる以上,「不要不急」店舗の閉店は私たちの実質的な行動の自由を奪っていく。インターネットにおいても,そもそもCOVID-19関連の情報が洪水状態にあり,多様な情報に触れ,発信する機会が急激に減った。

 下手なことを言っちゃいけないと思い,Wikipediaの「自由権」の項を見たところ,驚いた。今の状況で,精神的自由権経済的自由権の多くが制限されているではないか。礼拝は三密で制限されている。学校は閉鎖。集会やデモは元から終わっている。今海外渡航したり,都民が疎開したら村八分。夜の仕事は選べない。今まで整理しなかった私が悪かった。

 正直,この記事を構想した段階では,表現の自由,集会・結社の自由についてだけ述べるつもりだった。そして,日本にデモを許容する文化,健全な議論や政権運営を行える野党など,それを支える基盤がないことも述べるつもりだった。だが,実際の状況はそれより悪い。もう少し整理してから続編を書くことにする。皆も考えるとよい。

緊急事態宣言に向けて

基本的にこのブログでは自分の人生のこと以外はネタにしたくないのだが,事ここに至り歴史的な事態となりうるため,いくつかメモランダムを残しておく。

現在の体制について

 そもそもなぜ感染症でここまでの事態になったのかについて,私の認識を示しておく。100年前と比べて,感染症で人は圧倒的に死ななくなった。それは,「人を死なせない国家にすべきである」という特にベトナム戦争以降の先進国に対する考え方から,最優先事項の一つとなった。感染症対策は他のことすべてを犠牲にしてでもなすべきことであり,微妙なバランスによって成り立ってきた社会の成り立ちにも容赦なくメスを入れていく。その過程で芸能を中心とした文化の消滅や,少数の死者が出たとしても仕方がないという立場だろう。これを止めることは難しい。戦争を目的とした総動員は悪だが,感染症対策を目的とした総動員は悪ではないからだ。そして,感染症対策の専門家は意図せずして強い政治的発言力を持つことになり,彼らはより権力を求めることを目的とする集団に積極的に協力することになるだろう。

警察力の強化について

 これは高確率で起こると考えている。というか,外出自粛という話が出てきた当初から,可能だった。例えば交通安全キャンペーンなどで,街中に警察官が多く配置されるのを見た人は多いだろう。また,点数稼ぎのために自転車泥棒を捕まえるべく怪しい自転車利用者を片っ端から止めるのを見た人もいるだろう。実際のところ,ある程度の動員は定期的に行われており,その延長として主要な交通の結節点,駅周辺や幹線道路の交差点などにあまねく警察官を配置することは可能である。そして,彼らが片っ端から職務質問を行い,その後に「家に帰りなさいよ」と言えば,それを無視して移動したがる人は多くないだろう。

散歩について

 どうしても人と会いたい場合,散歩は許可されている有用な手段となる。散歩という大義名分がある以上,止めることは難しい。世界的に有名な散歩として「汎ヨーロッパ・ピクニック」がある。複数人で場所を決めて散歩することは可能であろうし,小規模な集会も可能だろう。もっとも,現状においては外を出歩くことは危険であり,いつ感染してもおかしくない。最小限行う最後の抜け道の一つにすべきであると考える。本来必要もしくは急を要することであっても,政府や警察にとって「不要不急」と解釈される可能性はある。

コロナウイルスが私の生きる手段を否定していく

 私は生来の障害のため多少人と違った生き方をしており,そのような生き方は普通はスポットが当てられることはない。しかし,昨今のコロナウイルスの件でいろいろ明るみに出てきて,私が何年も生き延びてきたやり方が安易に否定されていく。正直疲弊しており,あまり長文を書くことができないし,考察もできないが今の段階で吐き出せることを吐き出す。

リモートワーク狂騒曲

 私は規則正しい生活をすることができず,人が近くにいる環境で仕事をすると恐怖で動けなくなってしまう。だからリモートワークで正社員の仕事をいただき,今月で8年になる。やっていけたという事実はとりあえずあり,特別扱いされているということはない。普通に仕事をできており,できてないのは案件の性質が悪いせいだと言える。

 コロナウイルス後,多くの人間がリモートワークを始めた。始められなかった人間は最初から怨恨を振りまいている。始めた人間も,今のところ良い印象を持った人は少数派で,やりにくさや,人とのかかわりの薄さなどの否定的な意見が多い。

私は思った。やはり私はこの世で多数を占める人とは違うのだ。

酒に金を払うことによるコミュニケーション

 私は人に自分から話しかけることができない。だから,基本的に最初から集まっているか,もしくは人から話しかけられないとコミュニケーションがとれない。その例外がバーである。バーでは金を払って座っているのだから,クソみたいなことをしなければとりあえずバーテンとはそこまで邪険にはされない。常連もいるし,ある種の仲間意識のようなものもある。結果的に飲み屋でのコミュニケーションが私の人間関係の主を占めている。

 さらに面倒くさいことに,私は定期的に人と話さないと精神が不安定になる。精神が不安定になると最悪の場合自殺未遂をする。それがなぜかはわからない。だから,バーの盛衰は私の生き死にを左右している。しかしバーの一生は人間の一生より短いため,それではいけないとここ1年試行錯誤しているが,まだ代替案は見つかっていない。

 さて,東京都内でのコロナウイルスの感染経路にバーやライブハウス,その他いわゆる水商売が多いことはもはや事実であろう。本日,ついに都知事の会見によって目の敵にされた。それに伴い,普段行かない人から「私には影響がないから問題ない」との声が多数出てきた。いわゆるサイレントマジョリティというやつで,恐らく他の様々なことに恵まれているのだろう。ライブハウスやクラブなどは,文化の拠点として生存をかけて頑張っている。しかしその声は多くの人間には届かないように見える。

私は思った。やはり私はこの世で多数を占める人とは違うのだ。

本当は私は生きていてはいけない人間なのかもしれない

 言いたいことはこれに尽きる。正直,コロナウイルスが突然死を招くならさっさと殺してほしい。私は人から色眼鏡で見られるような生き方をしてきた自覚があるし,できるだけそれを考えないように,もしくはバレないようにしてきた。しかし今この時点において,もはやそれは通用しない。

 当然コロナウイルスとの戦いは行っている。外食を一切避けるためにカップヌードルを大量に購入し,食べている。バーに行くのも我慢している。その上で多数派の声にも耐えなければならない。お前が普通にやっているリモートワークは変なことだ,もしくはバー通いなんて変なことだ,そういった声に押しつぶされそうになる。成人して15年間培ってきた生き方が否定されていく。

多数が言う。私に死ねと。

「お前がだめなわけじゃない」

 皆がそう言う。しかし,仕事や研究でだめな成果を出し続けてきたし,それは共通了解である。また,「これこれの理由でだめじゃない」という根拠のある説明を聞いたこともない。その結果,私はだめでありつづけ,だめな成果を出し続けることを止めることができない。

 その結果人が怖くなった。根本的なところで食い違っている。私には親も資産もない。だから能力を発揮して生きていくしかない。それができていないことに非常に危機感を感じる。しかし人はそれを覆い隠そうとする。人同士が安易に互いに認め会えるのは,恵まれているからだ。私はその輪の中にはいない。

 このようなことを闇雲に吐き出してもどうにもならない。説得的に論じないといけない。