面白い人や場所と一瞬の輝きについて

乱文です

 なんだかんだいって年越しは一大イベントで,ひどい状態でも年越しのときだけはどこかに外出していた。今年もどこかの界隈で年越し会が行われるだろう。しかしそのバリエーションや面白さも減って,行く気が起きず,どこかのVTuberを観ながら年を超すだろう。そういえば昨年もVTuberだった。

 あらためて,2002年にMorphyOneのオフ会に参加して以来,2chの技術・携帯電話界隈,ロフトプラスワン,動画配信界隈2つ,ギークハウスなどなどいろいろな界隈に参加してきたし,そこに集まる人々の自分とは違った生き方やエキセントリックな生き方に面白さを感じ惹かれていた,ように思う。

 しかし2002年から17年が過ぎ34歳,人生の半分をそうして過ごしてきた今,決して悪いことではないのだが実は派手な幻想を抱きすぎていたのではないかと思う。それこそ高校生の時はオフ会で「〜に勤めている」「〜な仕事をしている」「〜という研究をしていて」というだけで面白かった。しかし今はどうか。世の中についてある程度知ったため,単純にそういった外形だけでは面白くは感じない。

 人間の面白さのもう一つの側面として,ある面白いトピックに関して集まって話をしたりなにか活動するというのは,その人を面白くする。その点ではマニヤであることは良い。トピックの面白さと人間の素の面白さが相乗して,さらに集まることによって場所が魅力的になる。

 しかし,黎明期に格段に面白かった集まりは,その黎明期こそ誰でもENTER FREEでありそれゆえ変な人間を呼び寄せるが,長くは続かない。1つのパターンとしては大規模になるにつれ「普通」の人間が増えていくというのがあるが,私はそれを察知した瞬間に去ってしまうためいつかない。一方,「普通」を拒絶し続けていては,新陳代謝が起こらなくなる。そこにネタ切れが襲ってくる。

 それに加えて,多くの人々は面白い場所でいっときのハレを経験したら,次のハレに行かず,日常に戻っていく。私のように何年もいろいろな界隈に入り,去るというのはあまりない。複数の界隈なり文化圏でやっている人間というのはそうそういない。1つを極めた人は界隈が衰退しても一人で面白いことをやっていく。

 要は私にとって面白い集まりに居続けるというのは,様々な界隈を渡り歩くことであった。そしてそれは不自然な骨の折れることで,「老い」によって疲れてしまったというのがある。続くものは続いており,学術研究は終わる気配がない。

 しかし思うのだ。普通になっていった多くの人々が界隈で見せた一瞬の輝き,それは実に面白く,得難い。そこには人生が詰まっている。今年は「思い出」について考えることがあり,「幸せな時間がいっときでもあればその後辛い人生があってもやっていける」ということを喧伝していた。実際のところそれは欺瞞で,辛い人生は単に辛いのだが,いっときの幸せな時間というのはあるのではないかと思う。

今年1年を振り返る

1年を体系的に振り返ることは普通しないのだが,これだけ後味が悪いと振り返りたくもなる。起こった出来事のダイジェストをまとめる。

博士課程に関わる様々なこと

まず,本年をもって正式に課程博士を取ることはできなくなった。社会人学生の課程博士取得実績(0人)からいって入学時から無理だろう,そして決定的に無理になる瞬間が来るとは思っていた。また,論文博士を取るにしても年限までいて,できる限り研究をすすめるつもりだ。しかしやはりその時が来たら自分がだめだったんじゃないか,また今までの5年間はなんだったんだという感じにはなる。

結果的に鬱病を発症し,良くなったり悪くなったりしている。そのため研究も進まないという負のスパイラルに入った。今この瞬間も戦っている。立ち直れるかどうかは知らない。

もっとも,「自分の研究方針に最も近い方針の問題点を指摘し,方針を明確にする(2016)」,「研究対象の特徴を分析し,研究課題を打ち立てる(2017)」,「それが今までやられていない独創的なことだと先行研究から示す(2018)」という人文で必要な地盤固めに目処が立ち,具体的な分析に入ることができた。荒削りだったが,研究大会での発表で「この方に注目して欲しい」という方から質問を頂いたのはうれしかった。

訃報,事件など

詳しくは言えないが,「そのうち起こるだろう,自分を支えていて(もしくは,過去に支えられて)いた人や環境が崩壊すること」が何度かあった。10年以内に起こるだろうが,いつ起こるかわからないということが今年2回くらいあった。ようやく落ち着いてきたところだが,正直今年は陰鬱な雰囲気に包まれていた。

仕事の性質の変化による負担

会社では基本的に研究開発をしており,その延長としてソフトウェア開発の案件に携わっていたが,今年度は泥臭い製品開発としての側面が強く,要求はコロコロ変わり,無理なものは無理,だったら落とし所はどうするか,といったことばかりやっていた。やればできるが向いておらず,強く疲弊している。

最も厳しい時期に眼病で1ヶ月何もできなくなった

ウイルス性結膜炎にかかり,症状はそこまで重くなかったが,感染を防止する観点から行動を制限され,外にも出られなかった。大学院で年1回の重要な進捗発表会があったが,大学院も「学校」なので,「出席停止」に引っかかってしまった。PCを見るのが厳しいので仕事も進まなかった。「なんとか色々打開しなければ」と考えていた矢先だったため,本当に厳しかった。

まとめ

正直,ここまで書いたことはすべて一過性だ。研究も厳しいフェーズを超え,仕事がきついのも今年が特殊だっただけだ。訃報や事件はいつかは起こる。しかし全てが一挙に来てしまうと容易には耐えられない。

「この状況がずっと続いたら耐えられない」という考えは,必然的に将来への不安,この先やっていけるのだろうかという不安になった。もちろん良い面もあり,Civic Techを推進する一般社団法人の立ち上げに参加したりなどアクティブにもなれた。その反面,死も覚悟していた。

こう振り返ってみると,いつか起こる不幸を切り抜けながら,研究や仕事の厳しい時期を生産的にクリアし,新しい芽もまいていた。正直もっとできた,もっとよくできたと言いたい気持ちはあるが,現実的な線としてはこの程度やれれば充分という感じだろう。

それにしても悪い年だった。

飯の食べ方がわからない

 障害や生育環境などもあり,自分が正しい生活をできているかと言うと,恐らく半分以上は間違えているという自覚がある。正しいと胸を張って言えるのはパーティーの後にビールの空き缶を捨てるときくらいだ(食器類は紙皿でも不安)。

 寝ることも正しくできず,目の辺りが生まれつき壊れているようで,目を完全に閉じることができなくて白目になってしまう。それを何度か笑われたことがあるが,辛いので人の家で寝ることはほぼなくなった。

 洗濯は祖母にやってもらっていた(老化を遅らせるためにできることはやってもらっていた,と一応言い訳)のだが,突然調子を崩して私がやることになった。しかし,洗濯機の回し方については洗剤を入れるタイミングなどいろいろ考慮することが多かった。チャットで聞いた。だいたい全員に笑われた。

 恐らくこういった事柄を一つ一つ直していったら人生が終わってしまうだろう。今生きていられれば多くのことが間違っていてもそれでやっていくしかない。しかし,常に自分の生活での行動が正しいかどうか不安なので,精神に負担がかかっている。

 食事はその最たるものだ。私には,ものを混ぜて食べることが難しい。理由の1つには手先が不器用だというのがあり,もう1つには複雑な味覚を処理できないというのがある。それが,大衆の食べる食事の代表格である丼物やラーメンにもろに突き刺さってくる。

 例えば牛丼があったとしよう。ケバブ丼でもいい。私は肉と米を同時に食べることができない。同時に食べるとなにかおかしくなる。周囲の人はみなできている。しかし,どうやってできるのかわからない。私は分けて食べる。それがうまいのだ。

 ラーメンに関しては複雑な感情である。全部盛りみたいなのは無理だ。しかし,シンプルなラーメンでもネギやメンマはどうしても載ってくる。正直,好き嫌いも激しく,ネギもメンマもまずいと思う。なので,まず最初に食べる。徹底的に取り除いてから麺やチャーシューに取り掛かる。それがうまいのだ。

 ファストフードに関しては,ポテトやナゲット,パイなどは大丈夫だ。しかし,ハンバーガーは一切無理。かぶりついた瞬間に味覚が崩壊する。ファストフード店はすなわちハンバーガー店だ。だからハンバーガーを食べないのはおかしい。しかしおかしいことをやるしかない。それがうまいのだ。

 私は,この食べ方が変であることを知っている。だから,人前で食べるのが辛い。例えば「天下一品」などでは,頼めばネギやメンマを抜いてくれるので非常に助かっているのだが,人前ではやらない。他のものを食べる際でも「ああ,早く終わらないか」と思いながら食べて,結果的に急いでしまう。腹を壊しがちなのはそういった事情もある。

 先日,好きな女性を夕飯に誘った。お互い忙しいので特に発展することはないのだが,安心して話せる相手なのでラフに話したかった。しかし,食事については気を使う。ラーメンだったのだが,その時は前で食べるのをチラッチラッと見ながら頑張って真似た。時間が長く感じた。これだけ安心感のある相手でもそうなのか。

 「にじさんじ」の夢月ロアが,「お箸の持ち方にコンプレックスがあるから人前でごはん食べんかもしれん」と言っていたのだが(42分くらいから),何度も指摘されたらしく,非常に共感した。

www.youtube.com

 実際のところ指摘されるのが一番怖い。楽さでいえば「天下一品みたいに苦手なものを取り除いてもらう」>「人の居ないところで食べる」>「人がいるところで耐えながら食べる」>「人に合わせた食べ方をする」>「人に指摘される」,という感じだ。

 食事は毎日必要である。結論から言えば,コンビニ食が多い。自炊なんて夢のまた夢。引きこもりのキャラの描写として,コンビニに行くのがある。私は引きこもりではないものの食べ物に関してはコンビニ頼りだ。栄養バランスが偏ると言われることがある。しかし,それよりも精神の減り具合のが大きい。体に本気でガタがきたら逆転するのだろうか。

 まあ,気を使ったり精神をすり減らしてでも食べたいものは,ある。人と話しながら食べたいときもある。そういうときは,いや,辛くなってきた。

 放っておいてくれ。

人生の失敗を体験する

今年4月,博士課程で博士号を取れないことが確定した。ただでさえ社会人をやりながらの博士課程だったのが,新しい学問分野ができる真っただ中でその学問分野がどういったもので,自分はどういった立ち回りをするか,ということから始めなければならなかった。いろいろ「単に博士号を取る」という観点では悪手を次々と踏んでおり,当然か。

まあ入学時に予想はしていた。博士課程で一連の研究を回す方法を学び,論文博士につなげていくということになるだろうと考えていた。客観的に見ても,図書館・情報学という分野上,社会人をやりながら修士を取った学生は多いが(彼らはおしなべて優秀である),今のところ博士を取った人間は論文博士だけだ。

社会人博士のベストプラクティスとしては,企業での活動と近いテーマを選び,仕事の一環として研究を進めて論文をガンガン出していく,というのがある。しかし私はそれを選ばなかった。それをやるなら社会人博士という中途半端な立場では,最初から研究一本のプロパーにはかなわないし,日本企業は学術的な成果を取り入れるのが下手だ。

なので,どうせなら難しいことをやりたかった。最悪博士号は取れなくても,テクノロジーの力でどのように人々は協働し,どこを目指していくのか,ということについて深く理解し,成果を発表したり実践に活かしたりするルートはいろいろある。まだあまり表には出していないが,実際に動いてもいる。

以上のように,取れないのは織り込み済みだった。しかし,実際に「取れない」という事実が確定すると,精神には巨大なマイナスと恐怖と絶望が降りかかってくる。やはり相当程度はやってきたわけだし,いろいろ困難を乗り越えてはきた。その上での「取れない」。沈まないわけがない。しかしここまでだとは。

ということで1か月茫然自失の日々を過ごした。何もできなかった。6月に入り,多少動けるようになった。無理をして何かを忘れるように働き,投稿論文の完成度を上げた。結果として,鬱病,夏風邪,ウイルス性結膜炎を患い,自宅が病棟になった。木造建築物にアルコールを噴射した,昔の病院の病室の匂いがする。今はこの程度の文章は書けるが,本格的に仕事や研究をするとすぐ目がきつくなる。沈思黙考の日々が続いている。

思えば,自分に降りかかってくる不幸はいろいろあったが,多くは外部要因だった。夜逃げ,母親の発狂と死,祖母の死,実家の崩壊,そして生まれ持った発達障害。これらは「純粋に自分が何かやった結果の不幸」ではない。博士課程はどうか。そうではない。すべてが自分に降りかかってくる。

大学院にはあと1年半ほどいることができる。最後の1年は,落としどころも大体見えてくるだろう。きついのは今だ。雑に「5年目くらいに本当につらいのが来る」と思っていたが本当に来た。

なんにせよだめなものはだめだ。そして今進んでいることもある。なんだかんだいってまとまった成果が出る直前ではある。死なないことが重要だ。生きることを目的にいろいろやっていくことにする。そのためにはいろいろやる。

生きる手段としてのインターネットの構想と,その20年

niryuuインターネット20周年記念記事

生きる手段としてのインターネットの構想と,その20年

 

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1999年6月30日,高円寺のインターネットカフェ(現在は中華料理店)に恐る恐る足を踏み入れたのがこの20年の原点だったと言える。

クソッタレな現実のみが目の前にあり,成人してからの生活なんて想像もできなかった。母親の統合失調症が一段落したが,正直長くないだろう(私が成人する12日前に亡くなった)。親戚の借金の情報は常に飛び交っている(まだ未解決である)。私自身も虚弱であり,なおかつなにか脳に障害があるらしい(あった)。とても生きられそうになかった(生きている)。

私はインターネットに全てをかけてみることにした。とはいえ,当時のインターネットには何もなかったので,図書館や本屋の立ち読みで「人々がコンピュータやインターネットにどういった未来を持っていたか」ということを中心として乱読した。ある図書館の007の架は全部読んだ気がする。技術に関する本ももちろん読み,Linuxコマンドの知識などは現在に至るも役に立っている。

図書館の本は少し古い傾向にあるので,まだバブルが終わっておらず,インターネットが具体的に登場する前の,全てを楽観主義と想像力だけで語っていた時代の文献にアクセスすることができた。そのあたりの思想は渾然一体としているので私にはまとめきれない。各自やっていってほしい。当時の私はまだ中学生だったので非常に曖昧に摂取したと思う。

ある程度の知識を得たら,具体的な問題を提起してそれに未来像を描くことができる。私の場合は,「もし大学を卒業する前に路頭に迷ったら,インターネットでどう生きていけるか」だった。その暫定的な答えは以下のようなものだった。「情報はインターネットで手に入るからいろいろできるだろう。しかし問題は職だ。電話には連絡先がある。もし直接の連絡先に助けがなくても,知り合いの知り合いの…と紹介してもらえば何か活路があるかもしれない」。具体的な職種としては,ライターかプログラマー

とはいえ,これも「人を自由にするテクノロジー」という楽観主義と想像力だけの産物だった。どうやって実現するかということについては莫大な作業が必要になる。それを誰がどうやるか。アメリカのドットコム・バブルは私が本を読んでいるときに崩壊した。ビジネスや仕組み作りは当面はできないだろう。ということで技術を学ぶことにした。

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さて,未来は実現した。実際に何度か露頭に迷ったが,ライターもプログラマーもやった。「知り合いの知り合いの…」という高度なことをやらなくても(いや,副業では何度かやった),インターネットで知り合った縁で仕事をして生き残っている。リモートワークで虚弱さも脳の障害もなんとか切り抜けてやっている。世の中の動きとしてはリモートワークを恐る恐る部分的に導入したり,否定的な意見もあったりする状況だろう。その中でお前は特殊だと言われることもある。そんなことはない。リモートワークしかないという気持ちでやっているのだからそうできただけだ。

これは20年間で莫大な作業がなされた結果でもある。もっとも,いろいろ追いついていない。例えば日本国内では法整備は追いついていない。労働関係法規は国際競争に破れた企業と旧来からの働き方を守るしかない労働者側で的の外れた対立が行われている。小さい問題では(私はこれを小さい問題と考えてはいないが)海外携帯電話の持ち込みやSIMロック解除の議論は,2003年に日本国内に海外端末と海外SIMが持ち込まれ,海外のGPRS網に偶然つながってしまった(あれは未だによくわからない)時点から,遅々として進んでいない。

i-0当時,人を自由にするテクノロジーとしてのコンピュータやネットワークの考え方を牽引するのはApple(ここにもはや理想はない)などの大企業や,PARCなどの(当時)巨大研究所だと考えていた。しかし,現在はそれは国際的分業によってなされている。例えばCHI, CSCWなどの国際会議に出席している顔ぶれを見ればわかるだろう。

インターネットは20年前はアンダーグラウンドな場所だったが,今は別の意味でアンダーグラウンドになっている。つまり,「普通の人」が内面に隠し持っていた過激な考え方が容易に表に出るようになってきている。飲み屋で行われていた「あいつなんて死んでしまえばいいんだ」が表面化し,集合的な圧力となって本当の死につながるようになった。「暗黒啓蒙」に凄まじい新しさは感じない。なぜなら,それは前から普通の人が隠し持っていたことだからだ。そして,彼らは本当に一線を越えて過激にならないように「普通の人」を名乗り続ける。

私はこれに脅威を感じる。思想的な脅威ではなく,「インターネットはこういう場所だ」と決められてしまうことへの脅威だ。何の変哲もないところがあってもいい。クリエイティブなところがあってもいい。生きるための場所があってもいい。そして,過激な場所があってもいい。今インターネットに対して「理想」を掲げるなら間違いなくそう言うだろう。

しかし,インターネットは人が集まる場所であり,適切な場所に一定数の人が集まらないと適切なことはできない。例えば生きるための場所を求める人が「インターネットって過激な場所でしょ」と定義してしまい,過激な暴言を撒き散らしながら自分の人生はいっこうによくならないというケース,もしくはかりそめの「生きるための場所」を標榜したところに幻滅したケースは枚挙にいとまがない。地図もコンパスも,さらにはGPSもない世界に放り出されるのだ。当時はうまくいった。しかし今はどうだろうか。

その点で,現在のインターネットは不完全で非常にいびつだと考えている。しかし,それがネットの「本質」だという論には反対する。真逆のことを本質だと言う人々はいくらでも見てきたし,そもそもインターネットで人が集まって何をしているか,何ができるか,についてはほぼ解明されていない。

i-X

20年経ってしまったのだから,ここから先10年20年というものを考えてみる。しかし,i-0当時とは違い,i-20では具体的なものがいくらでもあるから,楽観主義と想像力には頼れない。しかし,その「具体的なもの」が成している,もしくは成しうる人間の営みというものはほぼ解明されていない。例えば知らない多くの相手にツイートし,返信を受け取るというのはどういった秩序を作っているのか。そのあたりは実は不明瞭である。それが1つの方向性だろう。

そして,現在のインターネットについて様々な現象や秩序が明らかになったとして,それをどう未来像につなげていったらいいのだろうか。これこそ本当に手付かずの領域である。例えば,知見を持って新しい技術のデザインをしたとしよう。それが未来にどう影響するかは昔以上にわからない。VRやAIなどのある種古典的な技術は,実は当時想像されているとおりに使われていることが多いように見える。しかし,今そういった概念を生み出す土壌はあるのだろうか?

これは講演の気分で書いているので(実際に講演をやろうと考えていたこともある),分量的にそろそろ終わりにしたい。私が今未来像全般について語れることなんてほとんどないからだ。なので,i-0の問い「もし大学を卒業する前に路頭に迷ったら,インターネットでどう生きていけるか」にもう一度答えてみることにしたい。といっても今だったらいろいろな答えがあるかもしれない。そして,これは私個人の問いで,私の生きている環境に依存したものだ。なのでやめておこう。各自調べて考えるのが一番だと思う。

私の VTuber ムーブメントとの付き合い方

togetter.com

注:この記事は本来公開したくないセンチメントも含んでおり,一回公開を撤回した。しかし,私は現在ウイルス感染で隔離状態にあり,人生の機会をいくつか逃し,「死ぬとは」と常に考えている。以下に書かれているのは私のここ1年の生きた記録であるのであらためて公開する。

↑のTogetterを読んで,私は平和な世界にいるが,ガラが悪いところはあるし,まあこんな感じのところもあるんだなと思った。

と同時に,私が心から平和だったかと言うとそうでもないし,いくらかの負い目もある。そのあたりについて,落ち着きつつあるので少し話そうと思う。

当時私が関わっていた界隈で,近からず遠からずな距離に「に○○ら」という方がいた。彼は正直に言って強いオタクだし,その点で尊敬はしていた。一方,オタクに馴染みきれずいろいろやっている私とは合わないだろうという感じで距離をおいていたというのがある。

氏は「ねこます」氏の記事で話題になったこともあり,初期のにじさんじと交流があったようだ。それをみながら,なんというか私の悪い傾向で,劣等感が芽生えてしまった。まあ私はこのムーブメントに乗りたかったが,社会などいろいろな言い訳があり乗れなかった人間である。氏は輝いていた。

「委員長」が各所で取り沙汰されていたときのにじさんじは飛ぶ鳥を落とす勢いで,少なくともVを追う人なら誰でも話題にはしていたと思う。実際にじさんじは面白そうではあった。しかし,推したとしても私は単なる推しで,恐らく氏に劣等感を感じ続けて楽しめないのではないかというのがあった。

そんな時期,アイドル部の配信が始まった。私は飛びついた。「あのシロちゃんのところから出てきたんだったら面白いに決まっている」。実際に自分の肌に合っていたし,忙しかったので生を全部見るほどではなかったがそこそこにのめりこんだ。その1つの原因としてにじさんじから逃げたかったというのは否定できない。

そして時は経ち,2018年12月のアイドル部REALITYコラボでMinecraftに関心を持った。Minecraftブームにも当時乗れなかった(仕事がなく,動くスペックのPCを持っていなかった)ので,いろいろ試行錯誤していた。MinecraftJavaAndroid3DS,Switch版を買った。

それとは特に関係なく,ニコニコ動画で「RTA」キーワードで出てくる動画を10年以上追っているのだが,その網にベルモンド・バンデラスのMinecraftでのダイヤ掘り動画の切り抜きが引っかかった。元の配信を見たら,彼は面白かった。そしてにじさんじ所属だった。とうとうこの日が来たかと思った。

しばらく追っているうちに,にじさんじがもはや1年前とは全く違うものだということがわかってきた。そして私も1年前とはいろいろ変わってきた。「に○○ら」氏はすでに天の上の存在になっていた。もう推さない理由がない。結局,現在はにじさんじ,アイドル部問わず好きな配信を適度に見ている。hPaにも行ったし,ニコニコ超会議のbilibiliブースのにじさんじイベントにも行った(バーチャライブは観なかった。「委員長」への忌避感はまだあった)。個人勢を追おうと言われた時期もあったが,企業と比べて距離が近くてできなかった。人が怖かったのだ。そこはVもリアルも変わらない。

いずれにせよ,単なる推しである以上,企業の方針がどうとか,V本人がどうするかとかに口をだすのは無粋だと思っている。これはあくまで私の考えで,ただ観るだけの人,コメントで皆と楽しむ人,ファンアートを描く人,現地に行く人,そして批評する人やアンチ,良くも悪くもいろいろな関わり方はあると思う。ただ,私が平和で楽な世界にいるのは,微妙な感情とバランスの上で成り立っているというのは常に感じている。

以下追記

さて,対立するにせよしないにせよ,人々のTwitterなどでの人付き合いの仕方の潮流が変わってきている気がする。人単位で継続的にウォッチしたり交流するというより,物事単位で現在面白いことをアウトプットしている人間をフォローして,つまらなくなったらすぐにフォロー解除するというか。YouTubeのチャンネル登録に近い付き合い方に変わりつつあるように思う。

その意味で,VTuberは「都合が良い」。距離のとり方を本当に自由にできる。VTuberの人格やあり方について取り沙汰されることも多いが,それと同時に私達と人の距離のとり方も変わってきたという面も無視できないと思う。その意味で,「に○○ら」氏への人間的な感情で「都合よく」推し始めたアイドル部から,頃合いを見て「都合よく」推し始めたにじさんじに移って,楽しんでいるというのは,ある種そのような新しい人付き合いの仕方を学んだようにも思う。それが良いのか悪いのかはしらないが。

中外逆転生活

「冒険」というテーマが好きで,Minecraft,オクトパストラベラー,世界樹の迷宮などをやっている。

その中で,これらのゲームは持ち歩いて外でやるのが良いということに気づいてきた。

外があまりに閉塞感があり,冒険ができる空間にアクセスしているという感じである。

20世紀までは,外のほうがいろいろなものが溢れていたし,冒険とまでは行かないけれど(治安が悪い場所だとリアル暴力にあったりするが)探索のしがいがあった。

しかし,Webで十分な情報やコンテンツを得られるようになった以上,正直家でインターネットをやっていたほうが探索しがいがある。

とはいえ自分のおそらくADHD癖に起因する1時間半以上同じ場所で作業できないことや,人と会って話さないと不安になる癖から外に出ないといけないし(完全なひきこもりにはなれない),外に出ると閉塞感でやられる。

結果として,外で手元に冒険のできる空間を用意するということになった。

これには昼夜逆転とはまた違った違和感を感じる。中外逆転というか。