私の VTuber ムーブメントとの付き合い方

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注:この記事は本来公開したくないセンチメントも含んでおり,一回公開を撤回した。しかし,私は現在ウイルス感染で隔離状態にあり,人生の機会をいくつか逃し,「死ぬとは」と常に考えている。以下に書かれているのは私のここ1年の生きた記録であるのであらためて公開する。

↑のTogetterを読んで,私は平和な世界にいるが,ガラが悪いところはあるし,まあこんな感じのところもあるんだなと思った。

と同時に,私が心から平和だったかと言うとそうでもないし,いくらかの負い目もある。そのあたりについて,落ち着きつつあるので少し話そうと思う。

当時私が関わっていた界隈で,近からず遠からずな距離に「に○○ら」という方がいた。彼は正直に言って強いオタクだし,その点で尊敬はしていた。一方,オタクに馴染みきれずいろいろやっている私とは合わないだろうという感じで距離をおいていたというのがある。

氏は「ねこます」氏の記事で話題になったこともあり,初期のにじさんじと交流があったようだ。それをみながら,なんというか私の悪い傾向で,劣等感が芽生えてしまった。まあ私はこのムーブメントに乗りたかったが,社会などいろいろな言い訳があり乗れなかった人間である。氏は輝いていた。

「委員長」が各所で取り沙汰されていたときのにじさんじは飛ぶ鳥を落とす勢いで,少なくともVを追う人なら誰でも話題にはしていたと思う。実際にじさんじは面白そうではあった。しかし,推したとしても私は単なる推しで,恐らく氏に劣等感を感じ続けて楽しめないのではないかというのがあった。

そんな時期,アイドル部の配信が始まった。私は飛びついた。「あのシロちゃんのところから出てきたんだったら面白いに決まっている」。実際に自分の肌に合っていたし,忙しかったので生を全部見るほどではなかったがそこそこにのめりこんだ。その1つの原因としてにじさんじから逃げたかったというのは否定できない。

そして時は経ち,2018年12月のアイドル部REALITYコラボでMinecraftに関心を持った。Minecraftブームにも当時乗れなかった(仕事がなく,動くスペックのPCを持っていなかった)ので,いろいろ試行錯誤していた。MinecraftJavaAndroid3DS,Switch版を買った。

それとは特に関係なく,ニコニコ動画で「RTA」キーワードで出てくる動画を10年以上追っているのだが,その網にベルモンド・バンデラスのMinecraftでのダイヤ掘り動画の切り抜きが引っかかった。元の配信を見たら,彼は面白かった。そしてにじさんじ所属だった。とうとうこの日が来たかと思った。

しばらく追っているうちに,にじさんじがもはや1年前とは全く違うものだということがわかってきた。そして私も1年前とはいろいろ変わってきた。「に○○ら」氏はすでに天の上の存在になっていた。もう推さない理由がない。結局,現在はにじさんじ,アイドル部問わず好きな配信を適度に見ている。hPaにも行ったし,ニコニコ超会議のbilibiliブースのにじさんじイベントにも行った(バーチャライブは観なかった。「委員長」への忌避感はまだあった)。個人勢を追おうと言われた時期もあったが,企業と比べて距離が近くてできなかった。人が怖かったのだ。そこはVもリアルも変わらない。

いずれにせよ,単なる推しである以上,企業の方針がどうとか,V本人がどうするかとかに口をだすのは無粋だと思っている。これはあくまで私の考えで,ただ観るだけの人,コメントで皆と楽しむ人,ファンアートを描く人,現地に行く人,そして批評する人やアンチ,良くも悪くもいろいろな関わり方はあると思う。ただ,私が平和で楽な世界にいるのは,微妙な感情とバランスの上で成り立っているというのは常に感じている。

以下追記

さて,対立するにせよしないにせよ,人々のTwitterなどでの人付き合いの仕方の潮流が変わってきている気がする。人単位で継続的にウォッチしたり交流するというより,物事単位で現在面白いことをアウトプットしている人間をフォローして,つまらなくなったらすぐにフォロー解除するというか。YouTubeのチャンネル登録に近い付き合い方に変わりつつあるように思う。

その意味で,VTuberは「都合が良い」。距離のとり方を本当に自由にできる。VTuberの人格やあり方について取り沙汰されることも多いが,それと同時に私達と人の距離のとり方も変わってきたという面も無視できないと思う。その意味で,「に○○ら」氏への人間的な感情で「都合よく」推し始めたアイドル部から,頃合いを見て「都合よく」推し始めたにじさんじに移って,楽しんでいるというのは,ある種そのような新しい人付き合いの仕方を学んだようにも思う。それが良いのか悪いのかはしらないが。

中外逆転生活

「冒険」というテーマが好きで,Minecraft,オクトパストラベラー,世界樹の迷宮などをやっている。

その中で,これらのゲームは持ち歩いて外でやるのが良いということに気づいてきた。

外があまりに閉塞感があり,冒険ができる空間にアクセスしているという感じである。

20世紀までは,外のほうがいろいろなものが溢れていたし,冒険とまでは行かないけれど(治安が悪い場所だとリアル暴力にあったりするが)探索のしがいがあった。

しかし,Webで十分な情報やコンテンツを得られるようになった以上,正直家でインターネットをやっていたほうが探索しがいがある。

とはいえ自分のおそらくADHD癖に起因する1時間半以上同じ場所で作業できないことや,人と会って話さないと不安になる癖から外に出ないといけないし(完全なひきこもりにはなれない),外に出ると閉塞感でやられる。

結果として,外で手元に冒険のできる空間を用意するということになった。

これには昼夜逆転とはまた違った違和感を感じる。中外逆転というか。

CP+に行ってきた

といっても,人生が嫌になって海を見に行こうと思ったらたまたまやっていたので,最後の15分しかいなかった。

時間がなかったのでオリンパスのブースにしか行かなかったんだけど(シグマブースを通過する際にdp quattroを見て「美しい…」と声が出ただけ),いろいろな話をしていたのでまとめない。その過程でカメラに関しての価値観をいろいろ話して再確認できたというか。多分私はカメラマニヤや職業カメラマンとは見方が違う。

最近は開店休業だが,ライターをやっていた。途中で取材にカメラが必要となり,同僚に安く譲ってもらった。初期のデジタル一眼レフ。しかし時代は移り変わり,まともな記事に載せる写真は一眼レフという常識が数年で終わり,皆コンデジで,そしてスマホで撮るようになった。そんな中でやりやすさからマイクロフォーサーズに行き着いてオリンパスを使っている。一貫してカメラは仕事道具だ。最近レンズを色々買って趣味でも始めている。

それより前の時代は(その時代も少し経験している),ちょっとした記事の撮影にもカメラマンを呼ぶことが多かったようだ。職業カメラマンは最高の機材を持ち,ライティングや構図などの基礎技術から,それらを一瞬で判断する判断力,そして重い機材を持ち歩く体力を持っていた。

今,カメラマンでは食っていけないという風潮はどんどん増しているように思う。それと同時に,写真が必要な職業や,今までカメラマンと分業をしていたことを自分でやる,ということも増えたと思う。

そんな中で,写真が職業に関わっている人が,皆職業カメラマンの持つレベルの機材を持つべきか,というとそうは思わない。ライターは執筆が仕事である。執筆以外のことに全力を注ぐことはできないし,撮影のために強靭な体力を身に着けたくもない。例えば携帯電話の新製品発表会の取材においては,一眼レフは急速に廃れていった。

とはいっても自分が欲しい画というのはあるので,コンデジスマホでそれを実現するのは逆に制約があって難しくなる。Web媒体では画質の問題はほぼないのだが,画を撮るのが難しいと動きが遅れて時間の無駄になる。初期のマイクロフォーサーズを不満もありながら使い,高級コンパクト(Powershot G1 X)も使っていたが,結局割と成熟してきたマイクロフォーサーズであるOM-D E-M5に至る。レンズによるが私の感覚ではE-M1でも大きすぎる(ただ,E-M1は遅れない)。カメラバッグは持ち歩きたくないし,バックパックに打ちやすいキーボードを入れられたほうがいい。あと,正直安くてガシガシ使えたほうがいい。

結局の所私はカメラをシステムとして見ている。光学系からASIC,洗練されたUIなど異種のコンポーネントを組み合わせて人が写真を撮るということに至る。その中でどう最適解を見出していくかということになると思う。

Nintendo Switchを買った

日常を報告する,ということをしたい。海外でブログが日常の情報探索行動のロギングから生まれたということ,日本ではWeb日記の文化を引き継いでいることを考えると,正統な使い方と言える。

というのも,今私の情報発信は非常に不健全だと考えるからだ。

「悪いことがあった,辛い」ということ以外何も発信することができなくて,それ自体が辛いし人を遠ざけてしまう。人と関わることは心の安全の基礎となる。私の場合はそうだ。なので非常に危ない。

どうしてそういった状況になったかというと,まず普段ひきこもりのため発信するようなことがない。仕事についてはConfidentialな事項が多いので共有できない。研究の成果は何年も経たないと発信できないし,年1回の研究大会に合わせてブログを書いても,読んでもらえないだろうと思う。ライブや演劇などにはそれなりに行っているが,感想を書けないくらい没入している。最後に残るのが嫌なことに対する自己防衛的な発信である。そして,本当の日常を話せる仲間は私の周りからは少なくなってしまった。

はい,この話はここでおしまい。今この記事を見ているのは気のおける仲間だ。わたしが勝手にそう思うことにする。

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Switchが欲しかったんですよね。基本的には3月に出る「ヨッシークラフトワールド」を絶対にやりたいので,昨年9月に発表されてから発売までに本体を買おうと思っていた。名作もたくさん出ているし,新作もPS4と同時発売の場合が多いので買って損はない。

automaton-media.com

ヨッシーの負け姿は、自分の価値のすべてを失ったように見える。こんな落ち込んだ恐竜を今まで見たことがない。罪悪感が強く、ヨッシー相手に試合をすることができない。

ヨッシーは昔から良いと思っていたが,このクソみたいな記事を見てから再燃し,難易度が高すぎると評判の「ヨッシーアイランドDS」や難易度がついにまともになった「ヨッシーウールワールド」をやっていた。Switchで「Yoshi(仮)」が出るという情報があり,2018年発売予定が2019年になった。そのままの題名で出したら凄いと思っていたが,その後ちゃんとしたタイトルになった。

しかし,金銭的な障壁がある。75000円のRyzenノートブックを買ったり,本を大量に買ったり,ソシャゲに課金したりはするが,なぜかゲーム専用のハードに3万払う気がしない。3DSを買ったときも15000円に何日も躊躇していた。ただ,ヨッシーは重要なのでいつかは買わなければならず,それを後押ししてくれるような相対的な安さが必要だった。

そんな中,先日,秋葉原に行った。ツクモVRで「訳あり品・展示処分品決算市」が行われるのと,ラジオデパートの地下に「秋葉原最終処分場」というすごい名前の店舗ができたので,仕事や研究の気晴らしに行ってみたくなった。その結果,Windows MRのヘッドセットや怪しいMacの補修部品が目に入り,買いそうになってしまった。しかし,Windows MRは放置してしまうだろうし,今Macをリペアしている余裕はない。ストレスから「なにか買いたい」というどうしようもない欲望が渦巻いていたのだ。

なにか買いたい。ならSwitchを買おう。そう思ってツクモVR秋葉原最終処分場の真ん中にあるトレーダーに入ったところ,一発で自分の求めていたSwitchを見つけた。私が良いと思うのは

  • 本体は良好
  • ACアダプタ欠品:前述のRyzenノートに使われているACアダプタを,ケーブルが長いためSwitch用に買う人がそれなりにいるらしい。逆に言えば兼用できる。
  • 微妙な状態のジョイコン:ジョイコンは高いし,そんなに高度なゲームはやらない。今のところ動けば良い。
  • ドックその他はあってもなくてもよい。

で,見つけた中古は本体がきれいだがmicroSDの蓋が開いてしまう(テープで止めればOK),ACアダプタが韓国仕様,HDMIケーブルが非純正品,ジョイコンの左がうまく止まらない,ドックはあるといったものだった。税抜き21000円。

状態を入念にチェックした。店員が「ジョイコンがガッチリはまらないで外れちゃうんですよね,スプラトゥーンとかスマブラとかをやるなら問題になります」と言われたが,スプラトゥーンスマブラはやらないし,私の使い方で外れそうにない。購入。

とはいえ不安だったので電源のあるカフェに行き,ACアダプタをつないでいろいろやってみた。ヨッシークラフトワールドの体験版が出ていた。どうやら私が秋葉原をさまよっていた時に任天堂が発表を行ったようで,そこで体験版が配信されたようだ。なんというタイミング。

さて,ヨッシーの体験版だけでは物足りないので,ソフトを1つは欲しい。中古屋に行ったら名作だらけだ。スマブラは難易度が高すぎるし,スプラトゥーンは中毒性が高すぎるらしいのでやらない。ポケモンは,良い…良い…のだが,懐古になってしまう…。マリオ,ウーン…ヨッシーだろう。ゼルダBotWは猶予数フレームのバグ技や,フレームレートそのものを操作する手法を使ったRTAを見すぎてしまった。任天堂だけでこれだし,他のソフトハウスを含めればいくらでも正解が出てくる。ソフトそのものの少なさを考えれば驚異的だ。

その中で選んだのは「オクトパストラベラー」だ。これは1つの正解である。

www.gamecast-blog.com

この記事で話題になったし(実際,Switchを買う時が来たかと思ったが買わなかった),明らかに好きそうな,というか快適そうなゲームだ。少しずつやっているがあらゆる面でバランスが取れている。

ということで,しばらく適当にやりながら「ヨッシークラフトワールド」の発売を待っている。持ち歩いて適当に暇つぶしでできるし,ACアダプタをPCと共用できるのでかさばらない。良い感じである。

人間の定量化と低評価について

 私は基本的にネガティブである。喜ばない。その背景には,相当に凝り固まった価値観があるのではないかと思う。13年前に人生が終わってドロップ・アウトしたことは13年かけて解消できたが,もともとの人格に由来するものはなかなか変えられない。その鍵というのが定量化である。

人は産まれてすぐに数字を与えられる

 産まれてきたことのことを覚えているだろうか。これはフリで,覚えているかどうかは特に関係ない。ただ,日本で産まれた人間なら,少なくとも産まれた瞬間に2つの数値が与えられることがわかる。生年月日と出生時体重である。

 この2つは,既に人間の優劣をある程度決定する。年度初めが4月であるため,2月生まれと5月生まれは学校においては幼少期には成長に差があることがわかっている。その優劣は時として一生を左右する場合もある。

 出生時体重については,低いと「未熟児」とされる。私は9ヶ月で産まれた2000gである。持病を持つ母から産まれた時に死にかけていたようで,そのまま死んだほうがよかったのだが,病院においては手と足がついているということで生かす決定がされた。手と足がついているが,あとからいろいろ障害が見つかって困っている。

フェアな数字は人を定義する

 小学校のことを考えよう。身体測定,学力テスト,体育などで1年で自分に関する数値が大量に生産されることがわかるだろう。まあただ,多くの数値は茶番であり,参考にしかならない。

 その中でひときわ異彩を放つ数値がある。偏差値である。これは1つの大学に落ち着くまで人間を序列化するもので,その後の人生でもしばしば言及される。偏差値は小学生にとっては唯一無二の力を持つ。1つには中学受験が人生を決めるということもあるが(これはある程度正しいが,ある程度以上は正しくない),それは副次的だ。

 重要なのは,偏差値によって全国で同じ条件・基準で計測されたユニバーサルな順位がつくということである。他の指標ではそうはならない。例えば平均身長というものがある。しかし,身長に全国順位はつかない。塾ではつく。だから,小学生は自分を定義する指標として偏差値を導入するしかないのである。

 もう1つ重要なのは,偏差値の教育的機能である。一旦数値が決まると,それをもとに何をすべきか推論する。自分がどこの中学に入れるか予測できる。そういった,定量化に基づく意思決定を一通り学ぶのである。この偏差値という数値そのものが妥当かどうか,またその後に役に立つかはさておき,数値によって自分に関する物事を取り扱うということそのものは,今後のものの考え方を左右することになる。

定量化できない世界において人は数値を求める

 さて,時間を飛ばそう。人は一定を超えると偏差値から解放される。同じ条件・基準で計測されたユニバーサルな順位は存在しなくなる。あえて言えば年収だろうか。しかし年収は相当程度に恣意的なので(官僚が課長級まで横並び出世なのは,偏差値競争にさらされた人間が過度な競争をしないようにするアレだと思う),自分がどういった人間かを示す指標には一定以上はならない。年収だけで人を見ると多くの場合破滅する。

 しかし,比較され続けた人間が指標から解放されることは難しい。偏差値の代わりとして社会に登場するのは,莫大な「あの人はこれができて,あの人はできない」である。例えば彼女がいるいない,技術があるない,面白い人間かそうでないか,などである。

 これらについてはいくつかの選択肢が存在する。1つには定量化をしないということ,2つ目は統計を使うというもの(例えば彼女がいるいないは,毎年調査されている),最後ができたことに1,できなかったことに0を付与することである。

無茶な数値化は人間を自滅させうる

 この最後の手法が危険で,使い方を誤れば人間を簡単に破壊する。まず,同じ条件・基準が一見存在するように見えてそうでないことが挙げられる。例えば「彼女がいるいない」においては,同じ日に同じ対象と会ってスタートという条件は通常揃わない(揃っちゃった場合があって…この話はやめておこう)。基本的にはその人固有の人生の中で達成することである。このため,「彼女がいるいない」で0と1を付与したところで,それは優劣を意味しない。しかし,0と1を付与することそのものが,無駄な比較を行わせる。

 もう1つが,指標を自分で設定できるということである。偏差値は指標を誰かが決める。しかし,世の中には指標となりうるものは数え切れないほどある。その中でどの指標を選ぶかというのは,自身の評価を自身で決定することにほかならない。指標的世界観に則れば,指標の選択がうまくいったかどうかの指標を考えなければならない。それは,おそらく指標をうまく使いこなして人生をうまく生きることができたかということだろう。

 私はそこで最悪の選択をした。自分ができたことは胡散臭い。できなかったことは確からしい。だから,自分が0を取るような指標を徹底的に採用した。ここがユニバーサルな指標と異なる点である。「採用しない」ということが許されるのである。その結果,「自分は何もできない」という結論に至った。もちろんこれは単なる指標であって,私が生きているということは何もできないことはないということだろう。しかし,私はそう思えなかった。世の中はできないことで満ちている。そして私は無力である。そういった価値観でずっと生きてきた。

不健全な数値で自滅する癖のついた人間に,健全な数値を与えても駄目だった

 さて,私は働きながら博士課程に所属しているが,だからこそ仕事に役に立つこととか研究者としてのキャリアなどは考えず,難しい問題に時間をかけて取り組みたい。生涯学習の視点である。結果的に研究分野から立ち上げることになった,というか,研究分野が作られるまさにその時点にいる。非常にエキサイティングであるが,この戦略が博士号取得そのものにとって良くないことは様々な資料で指摘されているが,それはおいておこう。

 研究は,健全な数値指標が普及している数少ない分野である。つまり論文の本数やIFである。これが健全かどうかは疑義に付されており,様々なオルトメトリクスが提案されているが,例えばソフトウェア開発案件の見積もりに比べたらだいぶましだと思う。ちなみに,ソフトウェア開発については私は常に0点である。ソフトウェアには完成がない。

 その中で研究分野を立ち上げるということは,数値に現れない作業である。例えばある研究者が極めて筋の良い思いつきで研究をして成果を発表する。それをもとに,自分も成果を出せるのではないかという人々がたくさん集まってきて自分の領分で研究をする。それが積み重なった結果「自分たちは一体何を対象に何を明らかにしようとしているのか?」ということが明確ではなくなる。それを明確にしていく作業は骨が折れる。

 骨が折れる数値に表れない作業は,何でもかんでも0点を与える人間には不向きである。学会発表は何度かしたが,投稿論文はまだ一通も出していない。人文では割とよくあることではあるが,自身の論の正当性を論じるには必要なフェーズである。そして,それは本体の相当程度を占める。進んではいる。しかし0点ではあり続ける。優秀な学生は修士論文を雑誌論文としてリライトして投稿し,1点を取る。私はそれができなかった。もう4年目が終わる。0点。

 この0点は,私が自身に与えたものである。論文の本数という健全な数値指標を装っているが,そもそもそれは「研究者の成果」の指標であって,「研究という活動」の指標ではない。回り道をして,間違え,至らず,至りそうで,そうやって行き着くのが「1点」である。それを無だと断ずることはできない。

 ようやくいけそうなところで,上に挙げたような心理的な妨げになっているものを発見した。0であり続けた人間が,否定できない1を得るのは怖い。今戦わなければならない。博士課程からは既に研究の技法以外に多くのことを得ている。過去を克服でき,そして今を肯定できるかもしれない。

競技というもの

 その過程で競技スポーツに関心を持った。私は体力がないので,もちろんゲームである。リアルタイムアタック(RTA)というジャンルがあるが,そこではルールが厳格に決められ同じ条件でタイムを競う。とは言っても私はゲームが下手だ。なんかを競技としてやりたいが,できそうなのはないか。

 そんな事を考えていたら現在開催中の「アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ」のイベント「Needle Light」が始まった。このイベントは推しの上条春菜が上位報酬のイベントで,おそらく次はないだろう。前からイベントでできるだけ早く10000pt報酬のアイドルをお迎えするというのはやっていたが,今回は18000pt。本気で最速を目指してみよう。暇がないというのもある。

 さて,これは競技の条件を満たしている。まず,明示されてはいないが15時という横並びでスタートして全力で走る人間が一定数いるということ,次に,ソシャゲの最終的な順位は課金によるのでこれが外部要因になりうるが,18000pt程度なら課金する必要がないということが挙げられる。つまりこれはフェアだ。ちなみに動画記録をする気はないのと,レギュレーションが共有されていないので,RTAではない。

 さて,始まった。ランキングは一定時間で更新されるが,皆全力で走っているので更新のタイミングによっては滅茶苦茶である。私は最高9位だった。だんだん離されていく。時間あたりのポイントが高い曲は難しく,終わったら手が動かなくなって結果的にポイントが下がる。曲をプレイするたびに「アー」とか言ってその分がロスになる。たまにランキングを見てしまいこれもロス。最後の方は嫌になる。嫌になったらとにかく手を伸ばす。走れる。最後の2回をやる直前に,上条春菜役の長島光那さんから「チョクメ!」が届く。読みたいが,ここで走りを止めたらだめだ。

 そして5時間13分の戦いが終わった。もともと理論値と比べて2割ほど低いことを概算していたが,最速は4時間弱のようだったので(人間は理論値にたどり着ける),概ねあっていた。34位くらいだったようだが,まだランキングは暴れていた。この,34位という数値に意味はない。ただ1つ言えるのは,俺はこれをやったということだ。

昔揉めたときに「あなたには興味がない」と言われたことについて

 いろいろ速くやりすぎたせいか精神がバテて,Switchのけものフレンズピクロスをやりながらクール・ダウンしていました。そのとき,ふと昔の,どうしても理解できないことを思い出しました。

 みなさんは,コミュニケーション不全が原因で大学の単位を取れなかったことはありますか?私はあります。理系の実験はコミュニケーションに著しい問題があっても割とどうにかなったりならなかったりするようですが,美大などだと致命的なようで,ドロップアウトの原因のそれなりの割合を占めているようです。

 さて,私が映像制作の実習をやったときの話です。雑にチームを作って街を回って思い思いの表現をするというものでした。とりあえずなんでもいいから出せば単位が出ます。しかし,私は単位を落としました。

 その科目をとっていたときは私ははるかに尖ったガラの悪い人間で,歩けば揉め事を起こす人間でした。その時は比喩ではなく,本当に歩いていたら揉め事が起きてしまいました。街を移動する際にバスで移動するかどうかという話があって,私は準引きこもりだったので体力が落ちており,バスで移動したかった。しかし,一般的な大学生は金がないため,歩ける範囲でバスを使いたくない。そこでなぜか大揉めして私だけ帰りました。

 とはいえ私は単位を取るために何もしないというわけにもいかず,次の授業で映像を作ってチームメンバーに見せました。普通はそういった際は事前に謝ったりするのですが,いかんせん揉め事を途中で切り上げた関係からこちらも謝る筋合いがありませんでした。

 そのときに言われた言葉が,今に至るも理解できません。「正直,僕はもう君に興味ないんだよね」という言葉です。

 全く理解できないというと嘘になります。ニュアンスとして「関わりたくない」「お前が気に食わない」「顔も見たくない」「来るな」などがあることはなんとなく感じ取り,その後話していたら実際に全部言われました。

 しかし,どうにもこうにも理解できないのが,なぜ「興味がない」という表現を先に使ったかということです。興味が無いことと,私に対して不快感を感じたり排除したりすることがどうも結びつかない。

 一つありうる解釈としては,彼らの文化圏では,「興味を持たれなくなる」ことが最も恐ろしく,避けるべきことなのではないかということが挙げられます。特に,この科目は学部1年のもので,私が編入学の関係から3年で受けていたという事情もあり,相手は元高校生です。文化的ギャップはあるかもしれません。特に,私は普通の高校に行っていないので,高校特有の村社会的文化は聞いたことはあってもなじみがありません。

 ある人やコンテンツが「興味を持たれなくなる」ということは,Webの社会では致命的です。ソーシャルメディアは興味を引き合うことで成立しているからです。この記事をここまで読んだということは,あなたはこの記事に一定の興味があると思うのですが,興味のない記事は読まないでしょう。

 高校の文化もそういった側面が強いように思います。ヒエラルキーなどがあると聞きますし。しかし私はそれを知る由もない。なので,もしかしたら「興味ないんだよね」と言われた瞬間に土下座し,興味を持っていただくことを乞うことが正解だったかもしれません。しかし,私はそれがわからなかった。

 私が非を責められることは問題ありません。それが非であれば謝りますし,そうでなければ反論します。しかし,非かどうかそもそもわからないものについて判断を下すことはできません。ただ混乱するしかありません。その点で,昔揉め事をたくさん起こしてきた中で,印象に残っています。それだけの話なのですが。

 もっとも,今は丸くなったので,そもそもバスに乗るのは我慢しますし,具合が悪ければ伝えて帰ります。また,揉めたとしても速やかに謝るでしょう。

加齢と普通の人になることについて

気がついたらこんなタイトルの記事を書く年齢になってしまった。このタイトルは非常にbroadなので,何を言いたいかをもうちょっと説明する。

 

オタクにしてもテックにしても,集まって何かをやったり語ったりしたことのある人は,すごく面白い人とか,いい意味でも悪い意味でも狂ったり外れたりした人を1人は見たことがあると思う。そういった人々が加齢とともに「丸くなった」「普通になった」とか言われるのを最近よく見るようになった。それを言った人がどう捉えているかは別として,私は単に寂しいな,と思う。

まあ普通じゃない人が普通の人になるという経緯はいろいろ考えられて,

  • 長くやってたからやる気がなくなった
  • 体力や精神の衰えによって面白いことをやろうとしてもできなくなった
  • 結婚したら人生が良くなったり悪くなったりした
  • 通常の楽しみでは満足できない人が異常なことをやっていたのが,新しい楽しみを見つけて自分でなにかしなくても満足できるようになった

などがあるかなーと思う。まあ前者2つについては加齢が直で効いてくるので寂しいな,となる。やる気については外野がどうこう言う領域ではない。外野は面白い行動や成果物に関心を持ってきたのであって,その人が根気をもって長年取り組んできたことには,ほとんどの人は目を向けない。長く続けることは,面白さそのものとは別の才能であり,あまり面白くないことでも長く続けている人には独特の凄みが出てくる。結婚については私は語る資格はない。

しかし最後については良い傾向なんじゃないかとも思う。最近出てきたVTuberやゲームで良い落とし所を見つけた人は数多い。私も現代の娯楽は十分に面白いと思うし,中世に生まれていたら本当に面白くなさそうで間違いなく狂人を目指しただろう。

(正直,自分で自分が関心を持てるものを作り続けないと今後厳しいと感じていた時期はあり,博士課程で研究をしている理由の一つでもある。しかし実のところ世の中は少しずつ面白い方向に行っており,この大義名分は成り立たないのでは,とも思う。もっとも,頭を使って苦労することそのものが面白いと感じる人間だったので,方向性自体は良い)

 

まあそれはそれとして,なんか違和感を感じるのは,周りが「普通じゃない人が普通になった」とあえて言うのはなんでなんだろう,ということである。私は単に納得してしまうし,「つまらなくなった」と言うのはコミュニティにつまらない人間が集まってきたりしたときである。

言っている人々の中のそれなりの割合で,「結局皆自分と同じで特別な個性なんてなかった」とか「自分も年をとったり結婚したりしてつまらない人生を送るようになってしまったが,あんな外れた人間でもそうなった」みたいな,一種の自身に対する慰めを感じることがある。

その慰めはあまり私には響かない。何か少し独創的なことをやればそれが個性になるし,何かで人と比較すれば差はついて,それも個性になる。年をとるということはそういった個性の積み重ねでもある。もっとも,それは結婚によってガラガラと全て崩れ去っていったりもするのだが(註:もちろんそうじゃない人も多く見ている)。

 

むしろ,普通になった元普通の人を見て安心している周りを見るのが,寂しいのではないか。そこに本当の加齢が見えてくる。

俺は面白い人間ではないし,年寄りにはなるしかないが,そういう年寄りにはなりたくないなあ…