ニコニコに見るコンテンツとコミュニケーションの垣根の崩壊

告知

3/29 0:00よりスティッカム
http://www.stickam.jp/profile/kybernetes
にて配信を行います。
まあプランがアレなのでこのブログのような堅い話もしたりしなかったり、まあ興味のある方は参加してください程度に。
一応日記タグ界隈なので、
ニコニコ動画が好きな人、中の人とかに参加してほしいなぁとか。

本編

厳密性にとらわれずざっくりいってみます。要するにニコニコ動画を、コンテンツとしての動画とコミュニケーションとしてのコメントと言う視点だけで見てはいけないという話。

ニコニコ動画は当初「既存のコンテンツに対しコメントを載せることで別の面白さが出る」ということが行われる場所であった。

しかしその後、ニコニコ動画は「職人の気軽な作品展示場」に変わった。もはやコメントは作品の面白さを引き立てる存在ではなく、製作者を巻き込む形で発生したコミュニティと共感を楽しむことがメインとなった。

既存の関係性に動画がおかれるのではなく、動画・コンテンツ・場が新たな関係性を組織する。

性格が変化したニコニコ動画とその今後を問う
http://d.hatena.ne.jp/thir/20080327/1206564985

メディアを支配してきた「コンテンツか、コミュニケーションか」という図式

メディアと言うものは、昔から2つの文脈で理解されてきた。

  • 芸術鑑賞に近い、作品と受け手の関係  
  • 人の意思があるコミュニケーションの場

現在のネットで流通している言葉で言うと、前者がコンテンツ、後者が個人メディアやコミュニティと言ったところだろう。研究の世界ではこの2つは明確に分かれており、全く違う系譜を持っている。適当に挙げてみると、前者と後者は以下のような領域で研究されてきた。

この2つの区別は、常に、現在のウェブサービスであっても、メディアを形成する考え方に影響を与えてきた。例えば、現在言われている「ソーシャル・メディア」と括られているサービス群も、個別に見てみればコンテンツとコミュニケーションのどちらか、あるいはこの2つの相互作用を志向している。

例えば、ブログなどの個人メディアは、もともと一人一人がマスメディアとして意図を持ってメッセージを発信していくことを目的として作られている。SNSも、個人の周りのコミュニケーションを志向している。これらは2005年ごろに頂点に達し、それをビジネスモデルとしてまとめ上げたものが有名なWeb2.0であると言えよう。

一方で、それ以降誕生したYouTubeは、個人が創作したコンテンツを志向したメディアだ。Peercastなどのライブ配信も、個人放送局としてメッセージを伝えると言うよりは面白いコンテンツを提供する方向を志向している。

さて、最近の流れでは、「コンテンツを基にしたコミュニケーション」というトレンドが生まれつつある。昔から文芸批評や愛好家のコミュニティなどはあったが、最近のウェブサービスでは、例えばmyspacemixiなどのSNSは動画のアップロードを、更なるコミュニケーションの促進に利用している。

また、Stickamなどのライブ配信サービスは、単にストリーミングを提供するだけでなく、それについて会話するためのチャットを同じ画面に用意して、双方向のコミュニケーションを実現している(そりゃ昔からエキサイトのラジオとかもあったが、Youtube以降という文脈を踏まえると、サービスの位置づけには違いが出る)。まさに、冒頭で挙げた現象はこれを示している。

また、以下のブログでも、コンテンツだけの動画サイト観に疑問を呈している。

あと、ネットにおいて面白いものの多くはコンテンツではなくてコミュニケーションであり、ここを混同すると話が拡散してワケ解らなくなっていく

ニコニコ動画というか動画によるコミュニティの限界。
http://d.hatena.ne.jp/ymScott/20080327/1206614758

この2つのどちらの性質も持つようなメディアの限界事例は既に発生している

ここまででウェブサービスをコンテンツとコミュニティという観点でまとめてきたが、この2つで説明できない、例外事例が既に生まれてきている。要するに、コンテンツとコミュニケーションのどちらか分からないものがネット上にどんどん生まれているのだ。

ニコニコ動画に絞って例を挙げよう。まず、コメントと言うものをどう位置づけるかに既に違いが生まれている。コメントはコミュニケーションなのかコンテンツなのか。一応、業界(ってもどこをさすのかは分からんが)や中の人の認識では、感情を反映させたコミュニケーション、もしくは非同期で同じところを見ている幻想と言ったところだ。

別のよくある視点で「コンテンツをさらに魅力にしているもの」とすると、コメントはコンテンツの延長になる。先のブログでも、「動画にコメントが合わさることで何とも言えない職人的な面白さを持っていた。」とある。どちらが正しいかと言うと、どちらも正しい。

また、ニコニコには、2chなどのコンテンツについて語るコミュニティが存在する。彼らは、どちらかと言うと「自分は見るだけ、批判したり叩くだけ」という態度を取っている。これは明らかに「コンテンツを基にしたコミュニケーション」の範疇にある。

一方で、一部の自画撮り配信者、MAD製作者などは、積極的に視聴者、配信者と直接のコミュニケーションを取っている。当然、前者と後者のコミュニケーションには質、立場の違いがあり、多くの場合この2つは仲が悪い。これは、単に2ちゃんねる特有の性質ではない。

ついでに言ってしまうが、「踊ってみた」タグで悲しい騒動が起こってしまった。この2つの溝はもはや埋められなかったのだ。

ある意味コンテンツ側もコミュニケーション側も限界に達している現在、一つの同じ情報でも、それをコンテンツと取るかコミュニケーションと取るかというのはユーザーの自由になっているのだ。また、それを取り巻くコミュニティ、別のコンテンツもまた然り。個人が作ったコンテンツとコミュニケーションの関係を捉えるなら、もはや一面的な把握はできない。

これは、おそらくインタフェースの問題だろう。コンテンツとコミュニケーションを同時に提示したらどうなるかという話だ。情報は、最初はコンテンツでもコミュニケーションでもない、ただのデータなのだ。人がそれと触れて、初めてコミュニケーションもコンテンツも生まれるのだ。一面的な視点ではなく、メディア自体に眼を向けないと、今後の発展や分析は難しいだろう。