リモートワークについて

はてなブックマークなどで「リモートワーク」に関する記事をいくつか読んでいるのだが、私の会社で数年間実践されていることとどうも合わないので、いろいろ書き留めておく。

Acknowledgements

以下に書かれていることは一つの特殊事例であり、読者の環境や感情に適合するとは限らない。組織の作り方、維持の仕方、テクノロジーの導入の仕方によって、時間的空間的にいろいろなやり方があるということを明記しておく。

Main Claims

  • リモートワークは、在宅など自由な空間で勤務するのみならず、時間も自由にし得る
  • リモートワークは、コミュニケーションを密に取る必要がある場合もあるが、無駄なコミュニケーションを省く基盤にもなる

本論

 近年「リモートワーク」を導入したという事例が特にソフトウェア開発の分野で盛んになっている。その中で、リモートワークは新しい働き方として認識されており、それをどううまく運用するかが一つの焦点になっている。しかし、現存するリモートワークのベスト・プラクティスにはいくつかリモートワークの可能性を狭めるような印象を覚える。

時間を管理するか自由にするか

 1つには、リモートワークが在宅勤務などの「空間を自由にする」働き方として捉えられているということが挙げられる。リモートなのでそれはそうだ。その中には様々な種類があり、完全にリモートに移行した企業もあれば、オフィスを持ち、一部の構成員が完全もしくは部分的にリモートで働くということもある。

 そこで即座に生じるのが、勤務時間の管理の問題である。オフィスがあれば、誰が何時に仕事を始めて何時に終わったかを把握できる(もっとも、ごまかしは横行しているが)。しかし、リモートだとそれができない。なので、擬似的に「出社」あるいは「タイムカード」を導入している事例が多い。もしくは、働いているかをカメラなどのセンサーで監視することもあるだろう。

 しかしながら、私はそういった会社で働くことができない。私は障害で時間を守ることができず、勤務時間が決まった会社では働けない。今の会社は「正社員、勤務先自由、完全フレックス」という条件で入社し、5年が過ぎた。現在は夜型の生活を送っている。それが最も効果的に働けるためだ。朝から働いたら精神を壊してしまう。「完全リモートワークで、週1日でいいから働いてくれないか」とのメッセージをいただいたことがあるが、その自信すらないので断ってしまった。

 また、勤務時間も不規則である、というか少ない。どれだけ少ないかというと恐らく週40時間働いているか怪しく、働いていない日もある(1日17時間働くこともあるが、ボロボロになった)のだが、「相応の働きをすれば問題ない」ということで問題視はされていない。そもそも知的作業に使える時間は1日の中で4時間が限度だろう。と書いたが絶好調なら5時間はいけるかもしれない。それ以上働くのは単純な事務作業なら良いかもしれないが、それ以上のことをやろうとすると生産性が一気に落ちる。というか、多くの場合マイナスになる。変なコードや文書を書いたら直さなければならないので。17時間働いた日は酷かった。

 ここまで読んで多くの人は「お前は給料泥棒じゃないか?」と思うだろう。週40時間働かないで正社員としてフルの給料をもらうなんておかしいんじゃないか。それに対しては一応「40時間は法定の基準であり、正社員かどうかとは関係ない」と述べておく。いわゆる変形労働時間制であるが、実質的に裁量労働制だともいえる。むしろ、賃金に見合う程度の成果を明らかに可視化しているし、そうなるようにキャッシュフローや会計面は把握している。

 ということで、時間も自由にして良いのではないか、それで問題ないのではないかというのが持論である。これに対してリモートワークはプラスに働く。通勤の問題と、オフィスの営業時間に縛られないためである。「時間を自由にすると働かなくなるんじゃないか」という意見もあるだろうが、それは人による。

コミュニケーションの問題

 リモートワークにすると、対面と比べてコミュニケーションが機会、量ともに少なくなってしまうので、密にコミュニケーションを取るようにしたらうまくいったというベスト・プラクティスがいくつか見られる。私に言わせてみれば、それだと困る。私はコミュニケーションにも障害があり、ビデオミーティングやチャットの曖昧な応酬だけでクタクタになって家でうずくまってしまう。

 さて、ここで考えてみて欲しい。そもそも、対面会話のように即座に伝えてレスポンスを受け取らなければならない情報というのはどれくらいあるのか。多くの情報はそうではなく、それにもかかわらず即レスを求めているのではないか。その場合、密にコミュニケーションを取ったら逆に混乱してしまう場合すらある。対面で、チャットでいくらでもそういった事例は見てきた。

 今はチケット管理システムやgit、ナレッジベースなどなど様々な非同期で情報を蓄積し、コミュニケーションを行えるツールがいくらでもある。それらをよく使えば、リモートワークもそうだし、オフィスワークにおいても無駄なコミュニケーションを減らせるのではないか。

 その上で対面のコミュニケーションが必要ならすればよい。私の場合、週1回の定例のミーティング(リモート参加がOK)のためにオフィスに行くことが多い。そこでたくさん喋ればだいたいのことは解決している。案件が炎上した場合、対面(わざわざ同僚に会いに新幹線で朝から移動したこともある)でもうまくいかなかった。

 もちろん、例えば企画職などで「対面で延々と話し続けないと仕事が進まない」種類の職業もあるだろう。あらゆる会話、書いたもの、見たものなどが重要になる種類の仕事だ。しかし、それらがリモートで可能になるのは時間の問題だと考えている。確かに今そういうことをリモートでやるのは不十分である。しかし、今後恐らくVR、AR系の技術が充分な密度の情報をやり取りできるような環境を提供できる可能性はある。

結論

 正直に言うと、勤務時間が決まっていて対面会話を再現すべく密にコミュニケーションを取る種類のリモートワークは、従来のオフィスワークと働き方そのものは変わっていないように思う。それより、テクノロジーをより積極的に使っていき、慣習を打ち破ってでも本質的な価値に集中したほうが良いのではないか。

 個人的な事情としては、時間を守れず、コミュニケーションもまともにとれない私が働けているリモートワークは、障害者など様々な働いていない人が労働に参加できる可能性を持っていると思う。それは働くことにとどまらないだろう。もっとも、政府のテレワーク推進がそんなことを考えているとは思わないが。

SAO 劇場版の地理空間情報的な見どころ

話の本筋のネタバレはないと思います.シン・ゴジラを見る際に行政学をやっていると思うところがあるよねーという程度の話をします.観たあとに読んでも,観る前に読んでも知見はあると思います.ただし一般には観てない人は観てからの方が良いと思います.

お前誰よ

地理空間情報,ARアプリケーション開発者です.総務省聖地巡礼は数回しました.ネタ本があるので2016年くらいまでの最新事情は追っています.土木,インフラに関するアプリケーションなので,様々な職種のチームワークによって現場が成立しているという観点では,私は「土方」だと思います.

見どころ1:基礎的な空間情報

SAO 劇場版が AR に関するものだということは公知だということにします.基本的に,一般的な現在の視覚 AR に対する印象は,以下の2つに分類されると思います.

  • (マクロ)GPS による緯度経度情報に基づいたマッピング
  • (ミクロ)カメラ画像からの特徴認識に基づく現実世界へのマッピング

これに対して,最近の動きとしては,空撮や Google StreetView カーの拡張で,レーザーとカメラで現実世界を数cm~m単位で取得しています.これが基盤として公開されたら,マクロとミクロの境目はなくなります.その中でも写真測量をやっている会社のノウハウは強いです.アジア航測が東京を特殊機材を使った空撮で3Dにしたのですが,これはシン・ゴジラの東京駅のシーンで使われており,あれは実は空撮ではなく全部3Dです.さすがに東京駅周辺の3Dモデルを全部作るのは手間なので,駅周辺の倒れる建物だけを組んで,後はアジア航測のモデルを使っています.しかし,違和感を感じた方は少ないのではないでしょうか.違和感を感じた方は映画を見ることに向いていないと思います.

まあ買いましょう

で,まあ現実世界の3Dモデルを作るのには当然精度の限界があるのですが,SAOの映画版では凄いごまかしが行われています.つまり,現実世界の3D空間に覆いかぶせる形でゲームの3Dモデルをレンダリングしています.これなら,ピッタリ合う精度でなくても,現実世界の物体に当たらずに安全にゲームができます.例えば実世界を計測した3Dモデルと現実が20cmずれているとして,ARで見せたいモデルに50cmバッファを持たせれば現実の物体には当たりません.ハッキリ言ってこの発想はすごいと思いました.また,コンテンツは今の VR コンテンツを作るのと同じ方法で作れます.

当然日本の道は狭いので,多くの道路では50cmも削られたら話にならなくなると思うのですが,恐らくSAOの世界ではARを使える部分と使えない部分がハッキリと分かれています.というのも,既存のスマートフォンタブレットが使われているシーンと,ARが使われているシーンが分かれているためです.

見どころ2:ドローンなどによるリアルタイム空間情報測定

この映画で一番気になっていた部分が,戦いのシーンをどうやってARで実現しているのだろうということです.デバイス側で人の動きを感知するセンサーとしては,スマートフォンにあるように加速度センサーやジャイロ,地磁気センサーなどがありますが,全力で剣を振り回すとブレます.そこの問題はある程度解決されていて,手に持った棒状のデバイスが武器になるのですが,あれは恐らくPlayStation VRの棒の延長だと思います.あの棒はアイドルマスターシンデレラガールズをやればわかるのですが,かなりの精度で追ってくれます.

しかしながら,それは棒を持っているユーザーにとってのみ位置が合うのであり,人と人が剣劇をやる際は不十分です.なので,外部から空間情報を送ってやらないといけないのですが,その辺の描写もしっかりしています.ボスが出てくる場所でドローンが動いているのがその証拠です.あれにはカメラと恐らくレーザーがついており(これ以上の情報は本編のネタバレになります),リアルタイムで空間計測に加えて人間を感知しています.カメラのフォーカスが動いている描写があったので,被写界深度を使っているか,全員にフォーカスを合わせて顔認識や人物認識をやっていると思われます.作中でディープラーニングという言葉が出てきて,まだ使われてるのかよと思いましたが,我々は2004年くらいに生まれたソーシャルメディアという言葉をまだ使っているので多分そういうものだと思います.もっとも,それで剣劇に使える精度が出るかというと微妙ですが.複数のドローンが飛んでいるので,それらを協調させて精度を出しているのかな.あとは室内,ショッピングモールや駐車場については多分監視カメラ周りに空間情報を取るセンサーがあるんでしょうね.

結論

劇中の,2026年にARゲームが普及するというのは,それなりにリアルだと思います.精度を上げる方法はまだまだあるので.ただ,地理空間情報屋としてはごまかしてゲームにしてパッケージングするという才能は全く無いので,クッソーうらやましいと思う限りです.あと,本職の研究者の方が見たら突然今実現できるよと言いだす可能性もあります.私は所詮後追いで金貰ってやってるだけなので.あと,ARは視覚だけじゃなくていろいろあるだろ,という良くある批判については,映画を観てください.

見どころ3,4があるのですが,仕事で応用が効くので非公開とします.

さよなら Mac

Mac を捨て、 Thinkpad に移行しようとしている。おそらく完全にさよならするわけではない。しかし、フェードアウトしていくのだろう。

Thinkpad と私

 高校時代、初めてバイトの給料で買ったのが中古の Thinkpad 535X だった。当時から Thinkpad へのあこがれはあり、実際に購入したらとにかくかっこよかった。実機を見てみればわかると思うが、完全に無駄のないフォルムである。出っ張りやへこみのない外観、打ちやすいキーボード、そして一杯に広がった液晶画面。「大人の翼」というキャッチフレーズ通りである。

 535X は 2003 年まで使っていた。別にデスクトップはあったのだが、家庭環境が悪く母親に破壊されてしまった。正直性能が厳しいので、Vine Linux 2.6 を入れて運用していた。 apt は 1 回壊れた。 Web サーバを立てようと思い、 Air H" PHONE で外につないでサーバを公開した。電波が悪く 800bps しか出なかった。しかし、私は自分の力で外にコンテンツを発信したのだ。

 次に買ったのは 2004 年の正月で、 600X のジャンクである。これは言わずとしれた最高級機種である。この機種の利点はまさにキーボードに尽きる。外付け、ノート含め 600X を超えるキータッチには未だ出会っていない。ライターを始めた時期でもあり、心強い相棒だった。

 そこからしばらく Thinkpad からは離れていた。母親が亡くなり、人生が厳しくなったため強力なノートパソコンを購入したのだが、結局予算との兼ね合いで DELL の Latitude にした。これは数年使った。

Mac と、 Thinkpad から離れられない私

 私が Macbook Pro を初めて買ったのは修士 1 年の 2009 年である。目的はただ 1 つ、 iPhone アプリの開発である。当時は夢があった。 iPhone のアプリを開発できるという特権的な環境を、どうしても手に入れたかった。ちょうど 13 インチのモデルが出て、持ち運びやすくなった頃である。このMac はまずメモリスロットが 1 つ、次に SATA ポートが 1 つずつと 1 年でどんどん壊れていったが、最後は USB メモリで起動して展示用マシンとして使い、天寿を全うした。

 その後、 iOS アプリの開発のために個人用、社用で Mac は購入、供給され続けていた。正直に言うと、今は iOS 開発はしていない。 Android 、クライアントサイド Web での案件が主である。起業に関わったこともある。しかし、あれは本当にきつく、当時の Macbook Air を「罰 MBA 」と呼称していた。今はもはや、 iOS アプリで一発当てるという時代ではない。しかし、まだ Mac は手元にある。来ないチャンスを夢見て…

 次の Thinkpad を買ったのは 2010 年である。バイトで PHPSNS の開発をしていたのだが、GNU/Linux 環境で検証用の VM を手元でポッポコ立てられる方が捗る状況だったため、 X100e を購入した。これは変な機種で、初めてアイソレーションキーボードを搭載したのと、珍しい AMD 製の CPU を搭載した機種である。そして、DDR2 で 8GB 積むことができる。 VM に 512MB 割り当てるとすると何個も立てることができる。ちなみに Macbook Pro が壊れたので修士論文もこれで書いた。

 X100e は AMD 製 CPU が曲者で、もともと省電力向けの CPU+GPU を搭載する予定が製造が間に合わず、やむなく既存の CPU を搭載したものである。要は熱が出るのである。それ以降の機種ではちゃんと省電力のものを積んだから問題ないのだが、よく熱暴走を起こした。そして 2013 年、ついに熱が下がらなくなった。ありがとう。

 さて、それからしばらく Mac ユーザーをやっていた。今の会社に入社し、Macbook Air 11inchを入社時に購入してもらい、その後 Retina の 13inch が出たから購入し、 3 年も勤めることができたので新しい Retina の 13inch を社用で購入してもらった。その直後、 Air と古い Retina Pro は壊れてしまった。だいたい気づいてきた。私の使い方では、 Mac は壊れる。

 そんな折、「 Thinkpad の中古が異常に安い夢のような店がある」という情報をもらった。私は秋葉原に行き始めて18年経つが、全く知らなかった。そして探し当てた店は、夢のような店だった。覚えておいて損はない。

 その店で Thinkpad X220 を購入したのは、 2015 年 6 月である。いろいろあって博士課程に進学し、社会人学生になったのだが、仕事用 PC と研究用 PC を分けたかったのだ。この世代になると、もはや CPU の性能は最新のものと変わらない。そしてメモリを 16GB 積むことができる。これを購入し、いろいろ改造した結果ベゼルに「 Thinkpad X230 」と記載されているが、中身は X220 である。

 この X220 には致命的な欠点があった。バッテリーがもたないのだ。ただでさえ二足のわらじを履いており、外に出る頻度が増している。また、 Haswell 以降の CPU に慣れてしまうと、それ以前のものが非常にバッテリーの持ちが悪いものに思えてしまう。その事情もあり、結局うまく持ち歩けず、自室専用 PC となっている。

さよなら Mac

 先日、社用の Macbook Pro 13inch 2015 の Magsafe 部分が焦げてしまった。 Apple Care には入っていない。もともと純正の AC アダプタが変な熱を持っていたので、無料で治る可能性はある。また、 69000 円程度のロジックボード交換がかかっても会社が負担してくれるだろう。

 一応普通に使えて充電はできているし、原理上、治せば済む話である。しかし、嫌になった。またか。私は確かに使い方が荒い。しかし、こうも何台も壊れてくれるとさすがに使う気がなくなる。

 そんな折、 Thinkpad X240 のジャンクが例の店に入荷した。一週間前のニュースである。「少量入荷」とのことなので、売り切れている可能性がある。私は急いだ。そして、最後の 1 台を購入した。状態はそれなり、メインマシンとして不足はない。

 X240 には様々な欠点や批判がある。主な論点はこの 2 つである。

  • X220 から X260 までで、唯一メモリが 8GB までしか積めないマシンである: X220, 230 はメモリスロットが 2 つついており、それぞれに 8GB まで積むことができる。 X250, 260 はメモリスロットが 1 つだが、新しいため 16GB 積むことができる。 X240 は古いくせにメモリスロットが 1 つしかないため、 8GB しか積めないのである。
  • タッチパッドがクソ:タッチパッドがボタンと一体になっているため、 Thinkpad 伝統のトラックポイントを使うと、認識がとても怪しくなる。そしてでかいため、指が触れて誤操作の原因になってしまう。
    これについては、 Mac から影響を受けたのではないかと考えている。実際に、タッチパッドのみで使っていると驚くほど Mac ユーザーにとって違和感がない。そこを従来のトラックポイントと無理に合わせようとしたため、中途半端になってしまったと思われる。実際、 X220 を使う際はトラックポイントを使っているのだが、 X240 では全く使っていない。

この他にも、ちょうど同じような境遇の方が Thinkpad X260 について様々な不満を述べている。この記事のタイトルは、当然この方の記事のパクリである。

さよならMac | めがねをかけるんだ

この中からいくつか反論しておく。

  • Windows が使いにくい→GNU/Linux を使いましょう。
  • キーボードが打ちにくい→個人的には、それで Macbook を使って大丈夫なのかという疑問がある。 Macbook Pro でも 2012 年モデルまでは十分なキーストロークを保っていたが、 2015 年モデルは露骨に質が落ちている。 Macbook はさらに厳しかった。もちろん、これはどういった感覚を優先するかによるのだが。個人的には、長文を仕事なり研究で書いてきた Thinkpad は、例えば今この文章を書いている間でも非常に快適である。
  • Wi-Fi の ON/OFF キー→これは私も危惧していたのだが、 GNU/Linux では逆になっており、普段はFキーで、 fn キーを押しながらだと Wi-Fi などの設定になるようである。

 今の Thinkpad には例えば X32 の時代と比べて様々な不満があり、人によって気にするしないはあるだろう。しかしながら、それでも、 X240 は良い。超低電圧版なのでバッテリーも持つ。 Full HD なので A4 の論文 PDF も内容次第だが楽に読める。 VGA 端子も Ethernet 端子もあり、とても便利である。

 そして何より、 X240 の最も良いところは、他の最近の X シリーズに比べて良いところが 1 つもないところである。 X1 Carbon のようなとがった機種ではない。メモリ搭載量では他の機種に、キーボードでは X220 に負ける。そして、タッチパッドは一番ダメ。

 だからいいのである。ブラッシュアップされたできのいいのを使いたければ、そういうものを買えばいい。しかし、本物のマシーンは欠陥があるから愛することができる。個人的には、根本の部分はしっかり安定して動いて、人が触れる部分は欠陥があるのが良い。私は、欠陥のある人間である。欠陥に悩まされていない日はない。そこで Thinkpad X240 に触れるとまずシャッキっとする。  GNU/Linux が起動し、臨戦態勢に入る。そして、快適だが少し引っかかりのあるインタフェースは、自分がこのマシーンを使っているという感覚を絶えず思い起こさせる。そして、自分とマシーンが一体になるのである。一眼レフやクルマの喜びに近いものであろうと思う。欠陥のある人間と欠陥のあるマシーンが inter-act することにより、いつしかその欠陥が融合し、欠陥があるがゆえに人間とマシーンが一体となるのである。

 Mac は対照的なアプローチである。まず完璧なマシーンがある。そして、それが人間を支援し、人間を徐々に完璧にしていく。確かにそれはお利口な方法である。しかし、私は自分の本質的な欠陥を Mac が支援できないことを知っている。だから、最終的には私と Mac は一定以上近づくことはできない。そもそも壊れてほしくないのだが。

 そういうわけで、この先 Mac を使おうが、常に Thinkpad を一定程度使い続けることになると思う。これは感性である。

 はあ、 Genius Bar に行かないと…

メモ:組織→協力→脱協力的生産に向けて

 自分の将来的な身の振り方について少しは考えなければならないのだが,そのための仕組みから考えなければならないのが実情である.

 私は生来の障害もあり,同じ場所にずっといることができない.具体的には定時を守ることができず,守れたとしても同じ人とずっといると精神が悪くなってしまう.そういった普通の企業組織で長続きした例はない.今の会社は完全にリモートで時間も完全にフレックスなので働けている.一方,大学院博士課程においては,数少ない拘束がある.ゼミでの発表義務,そして学会などの手伝いなど,私からしても小さい事柄だなと感じるのだが,それでもうまくできないことがある.

 今まで多くのオープンなコミュニティに参加してきた.固定された会社や大学などの組織にとらわれないで何かをすることは,快適で,私が世の中に貢献することの助けになってきた.しかし,これもまた突き詰めるとだるい.別に誰が嫌いというものはない.だが,顔を突き合わせるために場所あるいは時間を合わせて,実際に顔を突き合わせて,話す.それが何度も続く.それなりに重要な立ち位置になっていく.だんだん気を使うようになっていく.だるい.

 私は人間が何らかの生産や社会への関与をしないと生きていけないことを知っているし,そうしたいと考えている.それは,人との関わりにおいて行われる.しかし,その個別の関わりが負担になるようでは,長期的にはジリ貧になる.

 「そんなことではどこの社会でもやっていけない」と何度も言われた.その通りだ.それは充分に承知している.しかし,ここ20年の潮流を考えると,1つの方向性として,そういう人間でも何らかの社会へのコミットメントや生産を「なるべく人と関わらないように」できないだろうか.そして,それがある種の自由を生み出すことを可能にしないだろうか.このプログラムを暫定的に「非協力的生産」と呼ぼう.その芽は既に世の中に出てきていると考えている.まずはそれらを丹念に見ていくことから始めたい.そして,それは恐らく「協力」あるいは「参加」と呼ばれるここ10年の潮流にある.

 既存の組織におけるコミュニケーションの変革については,情報社会論やコミュニケーション研究,コラボレーションシステムなど様々な分野で議論がなされてきた.その中には様々な共通する軸があると考えられる.例えば,階層型組織とネットワーク型組織,同期型コミュニケーションと非同期型コミュニケーション,対面対遠隔,共有財,フラッシュモブクラウドソーシングなど.これらは,人と関わらない方法を少しずつではあるが開拓してきたといえる.まずそれを検討したい.

プロダクト提供者とユーザーコミュニティの関係について

昨日,ある謝罪文書がXamarinコミュニティの主宰によって提示された.

ytabuchi.hatenablog.com

 私はこの文書を素晴らしい対応だと感じ,それゆえにXamarinコミュニティは長期的には良い形で続くだろうと考えている.しかし,コミュニティは脆弱ゆえそうとも言っていられない.特に,現状を見る限り,全てを解決したとは言えないのではないかと感じてしまう.今回はMSの社員が当事者となっている.しかし,彼女の対応はあまり良いものではなかったように見える.

 以下のことは私がいくつかのコミュニティに携わった経験を元にしている.故に全面的にぼかす.広報,パブリック・リレーションズやコミュニティ運営についてはいくつか教科書的なものがあるが,そのようなものとは関係ない切り口で話していきたい.もっとも,それなりに読んでいるので影響はされているかもしれないが.

ユーザーコミュニティの意義

 特にソフトウェアの世界では,ユーザーが自発的にあるプロダクトについて知見を共有したり盛り上げたりするコミュニティを形成する場合がある.消費者として,またはある仕事をする上でプロダクトを使う枠を越え,様々な利害関心をもとに,集まることが良いと考えて集まり,交流する.それは善意の現れである.ソフトウェアのコミュニティと言うとオープンソースと関連付けられるかもしれないが,プロダクトのコミュニティそのものはそのさらに前から存在した.DECのユーザーグループは1961年にできた

 ユーザーコミュニティでは,プロダクトを提供する企業ができないことや,ユーザーが個人として,組織人としてできないことをすることができる.自由な集まりは様々な問題を解決する力を持っている.その力は企業,ユーザー双方から認識されており,時には企業がユーザーグループを組織する場合もある.

ユーザーコミュニティは脆弱である

 一方で,コミュニティの最も良い点が自由な集まりに由来するとして,最も悪い点もまた,自由な集まりであることである.コミュニティには様々な人が集まり,そのほとんど,もしくは全員が組織に拘束されていない.その中では揉め事も起こるし,ある個人が問題を起こす場合もある.そして,突然のクリティカルヒットによって,あっけなくコアメンバーが抜けて消滅したり衰退する場合すらある.人の善意は脆い.

 まともな「組織」に近づけることでこういった人に起因する問題を解決し,持続性を持たせることも多い.しかし,それは多くの場合自由を制限してしまう.そうなると,コミュニティがもともと持っていた良さや能力を損ねてしまうことにもなりかねない.できれば自由は確保したい.しかし問題は起こる.自由を損ねないように解決する方法はないか.そういった葛藤にコミュニティは常に悩まされることになる.

企業というパートナーと圧力

 プロダクトに関するコミュニティの場合,プロダクトを提供する企業との関係は常に問題となる.企業は,ユーザーコミュニティの存在を(少なくとも形式上は)好感をもって見ている.しかし,ユーザーコミュニティは企業目線では,制御できない,たまに抵抗してくる厄介な存在でもある.また逆に,ユーザーコミュニティから見ても企業はその自由や自律性を損ねる害悪となる場合がある.つまり,互いに良い関係を築いていくことが重要だが,それは難しいということになる.

 基本的には,企業とコミュニティの関係にとって重要なのは,それぞれが最も重要だと考えていること,そして自分たちの独自の領分としてやっていることを損ねないことである.企業にとっては無茶な要求をされないこと,プロダクトに対する悪いイメージを喚起させないことなどがこれにあたるだろう.コミュニティにとっては,それぞれがやりたいことができる自由,自分たちのことは自分たちで解決する自治などがこれにあたるだろう.

 私の経験から言えば,多くの場合は企業がコミュニティの領域に圧力を与えてしまうということの方が起こりやすい.例えば企業とコミュニティで同じことをやろうとしていた場合,企業が潰すということはある.また,コミュニティ内部の決定に不服だった場合,企業が一方的に決定をする場合もある.そういった場合,コミュニティの活動は制限され,その能力を損ねてしまう.

 特に,人間関係に関することに企業は口出しすべきではない.それはコミュニティの最も脆弱な部分だからである.

ちょまどさんの発言の何がまずかったか

 基本的に,ちょまどさんはMSの社員(エヴァンジェリスト)という立場で本イベントに参加している.その上で,事実上本人のアカウントが準公式的な扱いを受けているにも関わらず,そのアカウントで注意深い発言がされていたとは言い難い.以下にいくつかの問題点を挙げる.

1)問題が起きた場合に個人のレベルで指摘するべきではない:私がまず問題に思ったのは,件のスライドに対して,作ったのは自分ではないと公言したことである.だとしたら誰が作ったのかという問題になり,さらにはそれを発表することを許したコミュニティの問題にもなってしまう.

 しかし,これはあくまでまずコミュニティ内部で議論して方針を決めるものである.「スライドを作った人がちょまどさんに対して不利益になる発表をした」ことを,事実上企業の広報として強く機能しているアカウントで公言するとなると,その個人,さらにはコミュニティの意思決定プロセスに企業が影響を与えることになってしまう.

 確かにちょまどさんは極めて問題のある扱いを受けた.しかし,彼女を守るのは,会社員としての活動として見るなら企業であり,コミュニティの参加者として見るならコミュニティである.なぜそれらに任せず独断で情報発信を行ったのか.これは問題を大きくするだけではないのか.もちろん,最終的にはハラスメントを個人間で解決することは可能である.しかし,組織があるならそちらに任せて自身は慎重になるべきではないか.

2)法務に相談したことを公言したこと:どこかで法的措置が行われたらコミュニティにとっては存続の危機になる.今回騒いでいた人々がコミュニティのメンバーとは限らない.しかし,大企業の法務部は強力な権限を持っており,出てくればほとんどあらゆる要求が通ると言っても過言ではない.そうなっては自治も自由もない.それを匂わせるだけで危険である.

3)説明をせず曖昧な情報発信に終始したこと:広報の重要な役割は情報発信である.今回,Xamarinコミュニティを色眼鏡で見る発言が様々な人々から寄せられた.それに対して,適切に経緯を説明して自身のみならずコミュニティを悪評から守ってやることもできたのではないか.例えば,「ハンズオンでのスライドが問題になっていますが,JXUGの方々と相談しながら対応しています」などと言えたら状況はだいぶ変わったと考えられる.もっとも,それをするかしないかは企業の意向によるのだが.

結論

 ちょまどさんの一連の言動は自己弁護に徹しているように見えた.本人が完全な個人として参加していたのならそれは適切である.しかし,MSの社員として参加し,MSやJXUGといった問題を解決できる主体が様々に存在する中で,それらへの影響を考えず様々な問題のある発言を自由にしていたのはどうなのだろうか.今回は社に相談するような方向性が適切ではなかったのかと個人的には思う.そのような,十分なサポート体制,もしくはこういうことがあったら相談しようみたいなガイドラインは社内にあったのだろうか.

 ちょまどさんが独立してパーソナリティを発揮しながらエヴァンジェリストとして活動していることを,MSは認めているように見える.また,それは一定の成果を上げてきたように思える.しかし,問題が起きた場合の対応なども個人にまかせてしまっては,ちょまどさんも1人の人間であるので常に適切な対応ができるとは限らない.社員として参加したイベントだとしたら,独断で動くようにするのではなく会社が適切なサポートなりをするべきではないか.

 ちょまどさんはXamarinコミュニティに限らずKOFで発表するなど様々な場所に活動を広げつつある.その中で,現状を見る限り,他の場所でエヴァンジェリストとしての活動や,その社内体制に起因する問題が起きないという保証はない.そして,それは私が少しでも関わっているところかもしれない.

障害とできることと足手まといについて

障害者になりました

 ある人の持つ医学的に理解された特性が,社会において問題となる時,その人は障害者であると言うことができると思う.相当に素朴な定義であるが.

 その意味では,私は「発達障害」と診断されながらも,実際に障害者となったのはここ最近である.それまでも,周囲の温情を賜りながらなんとか暮らせてきた.しかし,様々に状況が変わり,様々な問題を起こし,もはやそういうことを言える場合ではなくなったのだ.それゆえに障害を表に出し,障害者手帳を申請した.つまり,社会的に「障害者になる」ことを決めて実行したのである.

 今現在の印象では,障害者前と障害者後では,生きる厳しさはあまり変わっていない.「発達障害に起因する問題にどう対処していくか」ということについては,良い医師や良い友人に恵まれ,前々から議論して実践してきた.そして,障害者として自己呈示していようがいまいが,同じ状況では同じ問題が起きていただろう.特にデスマーチにおいては,健常者ですら大きな問題を起こす場合がある(もっとも今回は,客観的に見ればコミュニケーションに大きな問題は生じていたものの,状況そのものはデスマーチではなかったと考えられるのだが).

 どちらかと言うと,私が「障害者になる」ことによって,できることとできないことが変わっていくことへの不安がある.私は1年半エンジニアと博士課程の二足のわらじを履いてきた.これには強い動機がある.

障害者は絶えず能力を伸ばし寿命を伸ばさなければならない

 障害は社会との関係の中にあるため,歳を経るごとに,特にコミュニケーションに関するものを持っていると自動的に選択肢が狭まっていく.一般に歳を取れば取るほどコミュニケーションとその能力の必要性は高まる.それについていけなくなるのだ.そして,それがある境界を越えたら,そこが寿命である.

 しかし,私は少しでも長生きしたい.そのためには,自分ができることを常に考え,新たな領域に進出したり技を磨いていく必要がある.能力によってコミュニケーションを代替できはしないが,能力がなくて必要とされないのに比べたら,能力があって必要とされる方がコミュニケーションは圧倒的に楽になる.

 ゆえに様々なコミュニティに所属するに飽き足らず,博士課程に進学した.しかしながら,博士課程は1つの組織であり,引きこもって論文さえ書いていれば良いというわけではない.平均して会社のドライなコミュニケーションよりも厳しかった.ましてや二足のわらじである.そのうち大きな問題を起こしてしまうのではないか.その予想は,1年半後に当たってしまった.会社で厳しい状況になり,それが大学の活動に直撃した.それが,「障害者になる」ことを決めた第一の理由である.理不尽なことは個人に降りかかる.そして,その責任は個人が取らなければならない.

前に進むことと穏当に生きることの葛藤

 当たり前であるが,自主的に何かの能力を身に着けようとするのは負担になる.障害者には特に,葛藤に見舞われることになる.普通に生活していても問題を起こすのに何で余計なことをするのか.やらないほうが良いんじゃないか.それは確かにその通りだ.しかし,健康な人は↑に上げたような能力や分野を開拓していく切実な理由をわかってくれない.

 この二重の葛藤が,自分の首を締め付ける.私は胸を張って前に進んでいける人間ではない.しかし,前に進まないといけない事情もあるのだ.足手まといになっているのはわかっている.しかし,将来足手まといにならないために,今できる範囲でもっと足手まといになる必要がある.しかし,その結果大きな問題を起こしてしまうとしたらそれはどうか.だめに決まっている.

明らかになったもう1つの障害

 さて,様々な問題を起こしてしまった原因と,そして↑で書いてきた文章の中に共通点がある.私は基本的に人に頼らないで自分で問題を解決しようとする.いや,もっと精確には人に頼れないのだ.それは基本的には発達障害の中には含まれていない問題点である.そこで医師に指摘された.幼少期から今に至る家庭環境が,人に頼ることの障壁になっているのではないか.いわゆるPTSDである.

 私の家庭環境については,前の記事をみればある程度は厳しさをわかってもらえると思う.私には両親祖父母はおらず,天涯孤独に近い.祖母を看取った時は大変だった.そして,10歳から20歳までの10年間,母親の病気によって虐待に近い扱いを受けてきた.これを話したところ,医師はだいぶ前から何か精神的なものが残っているのではないかと指摘していた.その「何か」が大きな問題が起きることによって初めて明らかになった.

まとめ

 今まで客観的に問題に取り組んできた.取れる責任は取り,自分が障害を持っていてもやっていけるように様々な交渉を行ってきた.そして,その過程から新たな病気が見つかった.発達障害は脳の器質に起因するが,PTSDは治りうる.それはある意味で希望であるが,今の段階では治るめどは立っていない.

 ここで主観である.私が何も感じていないわけがない.正直言って辛い.しかし,私が足手まといになっているという意識はあり,辛さを相談することもできない.最近「暗闇に閉ざされている」という表現をよく使うようになった.もしかしたら,何もせずに何の責任も取らずに寿命が来たほうが良かったのかもしれない.

「よくわかる人工知能」書評

id:shi3zさんの「よくわかる人工知能」を購入して読んだ.

 

 

本書は

  • 現在「人工知能」としてクローズアップされているものが,主にニューラルネットワーク,及びそれに応じたQ学習の拡張であり,その拡張はニューラルネットワークが適合する範囲を根本的に拡張した
  • それゆえ,ある特定の分野に特化したものではなく,一般的なパターンの入力に対して成果を出すことができる
  • ハードウェアの進歩,大量のデータの蓄積がそれを後押ししている
  • その中には,即座にビジネスに応用できそうな事例も複数ある
  • オープンに利用可能なプラットフォームが存在する
  • その先にもっと高度な知性を目指す汎用人工知能などのアプローチがある

ということを明晰に述べている点で,現在社会に流通している人工知能像を十分に描いていると言える.この中で腑に落ちない点があるなら今すぐ購入すべきだろう.ただし,本書はほぼ良い成果の面についてしか述べていないため,今の人工知能のアプローチには出来不出来があり,「何に対しても十分に対応できる」というほどの完成度や可能性はないということについては留意すべきだろう.

一方で,これらの人工知能が人にとってどういった位置づけになるかどうか,という点については,慎重な議論をすっ飛ばした視点に立っているように見える.要は人工知能の進歩は個別的に何ができたとかは凄いと思うかもしれないが,それを社会全体の大きな変化と捉えるのはちょっと飛ばしすぎてないか,と考えているのだが,これはshi3zさんの個性による部分もあるし,私個人としても「嫌」な感情を覚えたに過ぎないので,これについてはだらだらと印象を語ることにする.

まとめると,shi3zさんは人工知能の進化について以下のように説明している.現状では,ある程度一般化,パッケージ化はされているものの,人がデータセットとタスク,詳細なパラメータを与えてその中で学習していくということが行われる.それが,人間の行うパラメータ調整なども人工知能がやるようになり,さらにタスク設定や人がどういったタスクを求めているかの理解まで((汎用人工知能)人間以上にうまくやるようになる(人工超知能),というような筋書きである.これを非常に社会に大きな影響を及ぼすものとしている.

別にまあ人工知能はうまくやるようになるし,うまくやれる範囲も増えていくと思う.ただし,ここに取り残された議論がある.本書でされているのはあくまで技術の進歩の話で,技術が進歩するに従って実際の生活にどういった影響を及ぼすかについての議論がないと,それらが本当に「我々にとって」凄いものなのかという指標がなくなってしまい,さらには最後に言及されている「知能革命」といったことが人類に起こるかどうかもあやふやになってしまう.

例えば,本物の人間とどうやっても区別できない人工物がそこにいたとしよう.正直,人間と変わらないし,人間はどこにでもいるので,大したことはないと思う.また,例えば仕事において全局面で支援してくれる人工知能があったとする.私はそれを自分が理解できる範囲でしか理解できない.そもそも,今作業しているPCで何が行われているか,概略は示すことができるが常に全て意識しているわけではない.その点で,つまり今起こっていることがどんなに高度でも,日常で生活を送る際は大して理解していないという点では,人工知能が凄まじい進歩を遂げても大きな変化はないと思う.

私は正直に言うともはや90年代に戻って生きていける自信はないし,さらに前についてもそうだ.それくらいここ20年で起こった技術的進歩は私にとっては大きい.私にとってその程度の技術による社会の変化は既に起こったのだが,それは非常にゆっくりとした変化で,ある日突然すべてが変わったような体験はしなかった.例えばスマートフォンを2004年から使っているが,そこからここまで生活に浸透するまでは時間がかかっている.どちらかと言うと親が亡くなったとかそういった社会的側面の影響のほうがはるかに大きい.

また,人工知能が進化していって最終的にいわゆるシンギュラリティを迎え,人間にやることがなくなるというのも,そこまで大きな変化か?と思う.先に述べたとおり人間は自分の理解できる範囲で適当に物事をやっているだけなので,それは基本的には変わらないのではないかと思う.もし人間があるタスクをするために生きているとしたら(それをやって金をもらえることもある),それが全面的に人工知能をやることはまああるだろう.また,今私がやっている作業の中でも,意識はしていないが,クソだるい作業などは計算機に相当程度代替されているだろう.しかし,別に自分で何かやることを見つけたりそれを誰かとやることは,なくなるわけではないと思う.また,やることを探すのに人工知能が関与していたとしても,それは人工知能に使われているとは感じないと思う.

だとしたら,人間が知性と呼んでいるものに関わる技術が進歩したとして,またそれが世の様々な厄介事を解決して生きるのを楽にしたとしても,それは人間にとってはその時代なりの生活があるというだけなのではないか.その意味で,何か決定的な転換点というのはなく,あくまで今の生活の延長線上に新しい生活があるのではないか.

その意味で,「人工知能がこんな風にすごくなる!乗るか,それとも乗らないか?」というのはあくまで技術的なステートメントで,それ以上ではない.それを凄いぞと吹くのは技術者としては確かにわくわくするが,それで人間のあり方がガラッと変わるというのはないんじゃないかなーと思う.

だんだんグダグダになってきたが,要するに私が感じている嫌な感覚というのは,「近年の人工知能の進化はすごく,社会はその影響でこれまでになく大きく変わりつつある.我々はそれに対応しなければならない」という種類のアジテーションに対してである.情報化社会に関連して,そのような言い方は常に形を変えて繰り返されてきた.そして,確かに私が90年代に戻れないと感じるくらいの速度で情報化社会は変わってきたが,今現在私は普通に生きているし,人工知能によってストレートに「全く違う世界」になるということはない.その意味で,人工知能の入門書としては,頭を冷やしたほうが良いと思う.