パーティ的空間の多様性について

 最近クラブとかシェアハウス(主にギークハウス)のパーティなどに行かなくなった。というか面白くなくなってしまい、寄らなくなってしまった。そういう場所、特に新しい場所では、好きにインターネットをしていたり、論文を読んでいたりしても特に問題なく、その上で他の人が全く別のことをしていてそれに興味を持ったり、意気投合したら数人で同じことをやったりすることもある。

 そんな感じのある意味のカオスな雰囲気が好きだったのだが、最近はまず空気を読んで人と同じことをして楽しむことが大前提で、先日ある友人の誕生会で論理学をやっていたら「なんで誕生会なのに勉強しているの」とか言われてちょっと辛くなった。その友人は基本的に知性が極めて高く、論理学についても理解を示してくれているのだが、なんか場の雰囲気が前よりはるかに濃厚なので帰ってしまった。

 なんか、毎回そういった種の居づらさに負け続けている。それは、コミュニティが成熟したからかなと考えている。基本的に、「自由に参加できる場」みたいなものはざっくばらんに言えば二種類に分けられると思う。

  • 各自が好きなことをできるという点での「自由な」参加
  • ある活動にだれでも参加できるという点での「自由な」参加

 この2つは明確に区別できるものではなく、やはり例えばクラブでインターネットをしているにしても音楽が好きでないと難しいし、逆になんでもできる場所を意図的に設計した場合、そこでは「なんでもする」という「活動」に自由に参加できることになる。

 ただし、ある場所があったとして、そこをどちらとして受け取るかというのは、おそらく人それぞれであると思う。その点でコミュニティの成熟はその性質を大きく変えてしまう。前は先端的なことや面白いことをやっていたコミュニティが一般化して多くの人が集まってつまらなくなったということは、従来からよくあることだ。

しかし・・・この2ちゃんねるは今までの匿名掲示板とは異なる方向
へと進む。訪問者が増えれば増えるほど、最悪な方向へ向かって行く。

匿名掲示板の面白さとは何か?――――そんなの人それぞれ。 

こんな所で真面目な話しをしたがってる人はバカ。――――
糞ガキは喋んな。テメェらは自らの遊び場を自らが破壊してゆく癌細
胞のような存在だ。いつだってそうだ。流行こそ癌そのもの。
俺のお気に入り、パンク・ロックをファッションに変え、坂本龍一
一時的な流行りものにしてしまい、匿名掲示板を聞きたくもねぇ私の
現状報告の場と、団地妻の井戸端会議以下の幼児雑談に変えた、何処
からともなくワンサカ集まって来るいつものあの野郎達だ。身近なお
祭り騒ぎには参加せずにはいられず、多様な価値観だの諸行無常をぬ
かすわりには何の精神も思想も持たず、それまで守られてきた大事な
大事な宝をあっさりとぶち壊し、ただ目の前にあるバカ騒ぎを刹那的
に楽しむだけの糞野郎共。

最後にやつらは言う。「未だにそんな事やってるの?」

『ネットバカ一代』http://www.asahi-net.or.jp/~UG6M-KHT/Guide/2ch/net-baka.htm

 これは15年前の2ch初期の古典的な文章で、書いていて引用しようと思ったのだが、予想以上に私の言いたいことを表している。この先書くことなどないかもしれないと思ったが、もう少し続ける。要は本来「各自が好きなことをできる」場所に、特に好きなことなどない連中が集まって、とりあえずそこに起こっている活動に参加して、さらにはその活動をすることがその場の楽しさだというように場所を再定義してしまう。

 コミュニティにとって、数と雰囲気は本質的である。それがないのは水と空気がないのと同じ。だからこそ、「好きなことをやって、その上でつながっていく」層は弱くて最終的にはいなくなってしまう。ただ、やはりこう言いたくなってしまうのだ。

何でもやっていい場所なら足を引っ張らないでくれ。

クラブで踊らせるのは雰囲気ではない、音楽だ。