活動をゆるく強くする手段としてのWeb

要約

Webでの人々の共同作業はゆるくなりうる。現実世界もWebを使ってゆるくしていくと楽になるのではないか。

Web発の活動があまりWebっぽくないという問題

私は現実世界での人間関係にうとく,Webで自由につながった界隈にずっといる。オフ会に初めて参加したのが16で,今32なので人生の半分はそうだ。そのうち,Web発で現実世界で何かやろうという流れがぼちぼち盛んになってきた。ギークハウスもそうであるし,オープン・ガバメントも理想型としてはそうだろう。

一方で,ひとつの疑問が頭に浮かんでいた。Webから出てきた活動が,その主な活動を現実で完結させてしまい,結局現実世界の一つになってしまうということが多い。もっとWebの良さを活かした活動はできないのだろうか。それができないとしたら,なぜなのだろうか。

例えばギークハウスは創立者のphaさんがオープンソース活動との類似性を指摘しているが,そんなにWebっぽくない。チャットなどは活発だが,普段やっていることの多くは普通のシェアハウスと変わらない。参照元オープンソース運動にしても,カンファレンスなどが頻繁に開かれていることからして,現実世界の交流をおそらく必要条件としている。オープンガバメントに関しては,推進役は現実世界でのワークショップ,ハッカソンなどを主軸としていた。

例えば,「住む」ということを変えていくとしたら,どうすればいいのだろうか。例えば,「統治する」ということを変えていくとしたら,どうすればいいのだろうか。それを現実世界でやっている人も数多く見ている。しかし,Webから出てきた活動なら,Webが活動を支援する形で,もっと言えばWeb世界と現実世界が混ざった形で,世の中をよくできるんじゃないか。現実世界の良いところ悪いところ,Webの良いところ悪いところを都合良く使って,人生をよりよくできないものだろうか。

「Web上での共同作業」に注目した

まあぶっちゃけ現実世界はだいたいうまくいっているのはわかっている。私がうまくやれていないだけだ。しかし,Webはうまくいっていること,いっていないことが大きく分かれており,例えばWebを前提とした新しい「住むということ」を考えるとしても,どっから入っていいかわからない。

そこで注目したのが,Webで人々が集まって,何か生産的なことをしている場である。Wikipediagithub,さらには後述するStack Overflowがこれにあたる。プログラミングに関するものが多いのは,「自分たちがやりやすい環境を自分たちで作る」エンジニア文化もあるだろう。

元々の社会学的な関心もあり,そのようなことを研究計画書に書いて博士課程に入学した。実家がなくなったり人生にいろいろあったのもある。会社もそれを許してくれ,厳しいがなんとかやっている。

Stack Overflowと,参加者による知識の生産

その中で特別に関心をもった研究対象は,Stack Overflowである。Wikipediaはわざわざ長い記事を書かないといけない。githubもコードを読んだり書いたりしないといけない。しかし,Stack Overflowはスマートだ。知識だけをさらっとやりとりする。専門的なことを扱っているのに,質問してから答えが返ってくるまで平均1時間。しかも,編集されたりしてWebで検索をかけても割と役に立つようになっている。これはよさそうだし,知見がいろいろなことに使えそうだ。

最初の方に関心を持っていたのは,「とはいっても,Stack Overflowに特有の共同作業ってどんなものなのだろうか?」とか「人が集まってるってことが重要なのだが,Stack Overflowにおける人の集まりってどんなものだろうか?」とかいったものだった。

例えば,「知らない相手でもちゃんとわかるように聞くことが必要なので,他のいろんな人にも役に立つんじゃないか」とか「やったことが即座に記録されるということが,共同体の維持に強く関わっている」とかいったことを明らかにした。

そういう活動の成り立ち,どうやっていくかを見ていくと,もっといろいろなことがわかるのではと思った。そんな中,根本的に水をさされた。

生産だけ見ちゃだめ

私の悪い特徴として,話がいろいろとっちらかっちゃうという問題があった。それは博士課程を2年やっていてもそうで,ビシッとまとめるために先行研究を整理することにした。たくさん文献を集め,ひたすら読んでいた。質問や回答の内容に関する研究や,利用者個人個人の研究は多くあるのだが,活動がどうやって成り立っているのかという行為の側面に関する研究はほぼないようだった。これはいけるぞ。

といったところでご指摘を受けた。「Stack Overflowなどでは何か知識体系みたいなものがありそうなので,それの理解を目指すべきで,個別の活動の成り立ちだけを見ていたらつまらなくなってしまうのではないか?」

そりゃそうだ。Stack Overflowの強みは,だいたいどんなプログラミングの質問を検索しても結果に出てくる大量の質問や回答の蓄積で,しかもだめなものも多いが割と役に立つ。これを研究のスコープに入れないで何をする。

Stack Overflowのゆるさ

ということで,研究の最初の方でStack Overflowの成り立ちについて調べていたのをほっくり返したらドンピシャリなことが言われていた。創立者の一人のJeff Atwoodは,「プログラマーによるプログラマーのための,世界の中の良いプログラミングに関する知識の総和を集合的に増やす究極的な目的」をもって,Stack Overflowを作ったのだ。

ただ,理想だけじゃサービスは動かない。なので,Stack Overflowのブログやマニュアルなどで挙げられている様々な方針をまとめてみた。まず挙げられるのは,どんな質問が良くてどんな質問がダメか簡単に判断できる基準だ。

例を挙げると,「実践的な質問」つまり実際にプログラミングをしていて直面した質問で,論争を引き起こすようなものとか曖昧なものはだめ。そして,「少なくとも他の1人に役に立つような質問」をすべき。ただ聞いて答えるだけでは満足しない。その辺を抑えておけばOK。

このほか,質問が重複したらどうするか。同じ質問に何度も答えると疲れてしまう。だから,重複した質問にはマークをつけて閉じよう。しかし,一見同じように見えてある質問で解決できなかった問題は重複ではない。じゃあどこに線を引こうか。その場の判断に任せる。

あと,大規模なので管理者が必要なんだけど,わざわざ任命したり権限をどうするみたいな話はもめ事の元になる。Wikipediaではそんなことがよく起こる。Stack Overflowではその問題について,質問や回答などの貢献度に応じて権限を解放する方法をとっている。提案や文句があれば議論できるサイトもある。

そして,「知識の総和を増やす」ことはどうやっているのか。Web検索に丸投げである。Stack Overflow内部での検索も充実している。わざわざ厳格に管理しなくても,他の人にわかるように書いて,無駄に重複しないようにすれば誰かが見つけられるようになる。

結局だいたい紹介してしまったが,ここでStack Overflowの「裏の方針」といったものが垣間見える。「ゆるい」のだ。利用者は,別に完璧な文章を書けなどとは言われていない。他の質問と被っちゃっても「俺はこれじゃダメだったんだけど」と言えばだいたいOK。管理権限は要するに良い質問や回答をずっとやってる人が,良い質問や回答を維持できるというクリアな仕組み。あんまり片意地張ってやる必要がないのに,「知識の総和」はどんどん増えていく。

これには事情がある。創立者のAtwoodはブロガーである。当時の専門的なブログでは,コメント欄で知識を求める人が質問をしまくっていた。マニュアルやWeb検索では解決できない問題を誰かに聞きたい。そうだ,有名な人に聞こう。しかし答える側としてはたまったものではない。もはや,仕事を辞めるしかないレベルまで質問がたまっていたのだ。

1つの手段としてはブロガーを増やすという手段があるが,正直ブロガーになって定期的に記事を書くのはだるい。もっとみんなが参加できるようにするには,ゆるくしないとだめだ。ちゃんとやるとだめになる。ゆるくしないとだめだ。そういう経緯でStack Overflowは設立された。

もちろん「ゆるい」だけじゃだめだ。多分実際のやりとりを改めてみると,ゆるさを維持しながらちゃんと物事を行うようなやり方が見えてくるんじゃないかと思う。これは今後調べるべき課題となる。

ゆるさとコミュニティ

ここからは適当に思いつきでしゃべる。ここまで思いつきじゃなかったかというとそれなりに学会発表の内容が入っているので関心のある方は適当に読んでください。

Web上での交流が現実世界の濃密な交流と比べてゆるいことは,10年以上言われているので適当に書籍でも読めばわかると思う。そして,そのゆるさは何かを生産するときにも適用されると言うことがだいたいわかってきた。Webにおける協働生産、ピアプロダクションのモデルでは,上下関係の組織からネットワーク状の組織へみたいなことはよく言われているが,ゆるさに注目した言及は見られない。

その理由の1つとして,オープンソースWikipediaの偉い人の中に「堅い」人がいるからなんじゃないかなーというのがある。具体名は挙げないので各自思い当たる人は想像してください。コミュニティをうまくいかせよう,もっといいものを作ろうという気持ちはわかるのだが,それをもっていろいろ縛っては本末転倒なんじゃないか。なんだっけ,node.jsの0.10時代の話。node.jsの不十分な部分に皆うんざりしていたのに,リーダーは提案をことごとく却下した。「私は非暴力的コミュニケーションを熟知している」とか言いながら,確かに非暴力なんだけど厳しすぎた。

別に何でもゆるきゃいいってものじゃない。ゆるさは1つのあり方に過ぎず,しかしWeb技術は人をよりゆるくする力があると考えられる。「知識の管理」といった堅いことすらゆるくできる。だったら,それをもっていろいろ活動をしてみるのはアリなんじゃないか。

可能性:現実世界を侵食してゆるくしよう

まあそう考えてみると,私が現実世界で厳しさを感じる理由も「ゆるくない」からである。社会的に見れば私は相当ゆるい環境で生きている。今働いている会社ではいつどこで働いても良い。毎週のオンラインの全社ミーティングに出ないことすらある。この働き方を続けたいので納期は全力で守る。しかし,その一歩外に出ると厳格さが支配する世界で,あらゆることが厳しくなる。だるい。

「ゆるい」と「楽」で,結果的に仕事もはかどる。しかし現代は人が多く,誰が何をしているかを知らないと物事をうまくやるのが難しい。その結果として組織ができ,文書で管理される。さらに知らない人は怖いから,様々なルールを作る。現実世界には物事からゆるさをなくしていく傾向がある。

私は自分を自由主義者(いわゆる「リベラル」とはニュアンスが違うと思う)と規定している。自由主義に関する書籍は多く読んだが,どの自由主義論にもどうもしっくりこない。縛るな。好きにさせろ。それを実現した先に別の形の縛りや生きづらさがある。その連鎖を本来は止めなければならないのだが。

60年代の米国のヒッピー・ムーブメントなどは「ゆるさ」としての「解放」を目指していたように見える。また,ギークハウスや国内でも多くあるオルタナティブなスペースも「ゆるい」と言えるだろう。何しろ雑な私でも店長ができるバーがあるくらいだ。外山恒一の著書に言わせると「ドブネズミ」か。

こういう運動は結局は「文化」という形で吸収されつつある。ガチで権力に闘争を挑んだ人々はゆるくなくなり,破滅していった。これらのことは現実世界では「左」といわれる人々が主導していたように見える。一方,Webにおいてはゆるさは本質的な特徴の1つで,右とか左とか関係なく浸透しつつある。

ここで最初の「Webっぽさ」にもどると,その1つは「ゆるさ」なのではないか。ゆるく,なおかつうまくやれる仕組みや実際の活動があれば,もっと楽に生きられるし,それはおそらく現実世界の問題のいくつかを解決する手段となる。しかし,厳格な組織などはわかりやすいが,ゆるさはわかりにくい。おそらく個々の振る舞いの中に隠れてしまっている。それを理解しデザインしていければ,それは強い力となる。

なんでこのような文章を書いていたかというと,私は研究者を目指す多くの学生と比べて能力がなく,また現代の研究者はゆるくない要素の塊である。その上で研究を続けていく理由は何かと悩んでしまっている。その際に,研究の着想に至った経緯が現実の生きづらさから来ているのだから,いったん現実に話を戻してみてはどうかと考えたからだ。まあ少し楽になった気がする。

仕事における緊急事態と感情について

社会では原則的に感情は出してはいけない

 私は発達障害を持っており,理不尽なことを要求された際に怒りを表明してはいけないということを学ぶのに27年かかった(その例外を次の年に見た)。基本的に仕事の連絡では,感情を出さないで事務的な態度で連絡,交渉することが双方に求められている。

 ソフトウェア開発の現場では顧客が高圧的な態度に出たり,感情をあらわにすることはある。私はその猛威に2回晒され,4ヶ月休職して復職したばかりである。「ITエンジニアのためのハイプレッシャー下での対応術」という本を読んだ。この本にはそういった場合に相手の激情を抑え,現実的な対応を模索する方向に持って行くことが書かれていた。このような本が有用になるほど,ITの現場では感情の表出は起こる。そして,それは一般に下策であると思われている。

感情を出す人も何もなくて感情を出しているわけではない

 しかしながら,顧客が激情した場合も,私がやってしまった場合も,「通常の業務が回っている」ところでやるわけではない。やる人もいるかもしれないが,幸い私の周囲にはいないようだ。

 たとえば,突然展示会での出展が決まり,それに併せて目玉の新機能があると吹聴してしまった場合(そもそもやらないでほしい),強いストレスに晒されることは容易に想像できる。また,私にしても遅れているプロジェクトで私のみが見せられる成果物を出したら,成果を出していない人は何も言われず,私だけ「もっと頑張ってください」と言われた。こちらも限界に近い状態でやっているので非常に不当だった。

「冷静な対応」では事態の緊急さを伝えることが難しい

 以上の例に限らず,「これはやばいのでどうにかしてほしい」ということを伝える必要がある局面が存在する。しかしそれは,「冷静な対応」つまり事実のみを列挙し,論理的に意向を伝えるだけでは,ほとんどの人に伝わらない。多くの他の緊急でない出来事と一緒になってしまう。私自身がそうだし,エンジニア仲間でもそういったミスは多い。また顧客に対してもそう感じることはある。

 冷静な対応が緊急さを伝えることができない理由の一つとしては,まず普段人々が持っている「緊急度」の範囲があり,通常のコミュニケーションではそれを超えたものを扱えないという問題がある。「普通に」動いているプロジェクトが1から10までの緊急度だったとすると,たとえば100が起こってしまった場合でも「普通」のコミュニケーションでは10までしかつけられない。しかし,100を想定して要員が動くというのは通常の業務では不効率を生むため,難しい。

 もう一つ,カテゴリーの問題として,「通常の」課題と「緊急の」課題を設定するメカニズムが多くのプロジェクトでは存在しない。「通常の」話題を扱う会議では「緊急の」ことを話しても「通常の」こととして受け取られる。分けて別途「緊急」と定義された会議をするなどの対策が有効かもしれない。

 これらを考えると「火消し」の役割というものが出てくる。火消しは高い緊急度を前提として動く。また,火消しが外部からやってきて会議などに存在していることそのものが,その場を「緊急」と定義する。火消しがいることが緊急事態を定義し,そして緊急事態に対処できるように動く。会社によってはそういう人員が常に待機していることもあるかもしれない。

そもそも感情は出せる範囲で出した方がよいのではないか

 緊急時の対応というのは難しい。どうやっても答えが出ないし,きれいな解決はされず誰かしらが不幸になることがほとんどである。人は「だからこそ冷静になる必要がある」と言う。警察や消防などの方は当然のようにそう考えているだろう。

 しかし我々は緊急事態のプロフェッショナルではない。できるなら無理なく仕事をしたいし,緊急事態の下で動きたくなんてない。そして,いったん起こってしまったら対応策は限られる。その中で,一種の潤滑油として「感情」は必要なのではないかと思われる。

 たとえば,飲み会などに代表されるインフォーマルな交流や,普段からのコミュニケーションは緊急時に対面したときの相手への不安を幾分かでもやわらげる。

 また,業務中の「少しの」感情の表出は良いものでも悪いものでも出しておく,また出せるような雰囲気を作っておくことも有効なのではないか。エンジニアリングでは,同僚であっても相手に自分の成果が伝わりにくいことがある。その際には,丁寧に説明した後に「It is indeed a progress.」などと強調したりした。そうすれば人に認めてもらえるし,良い評価をもらえるとやる気も出る。

 悪い感情も同様である。「悪い感情を出すことは職場の雰囲気を悪くする」というよくあるチームに関する議論があるが,私はそうは思わない。むしろ,「悪く思われているかもしれない」と相互に疑心暗鬼になる方がはるかに危険だし,難しい問題や先の見えない問題に挑むことが往々にしてあるエンジニアにとっては,「悪い」時期は当然ある。そこを差し置いて良い部分しかコミュニケートしない職場には不信感がある。
 そういった日常の積み重ねが,緊急時にチームを少しでも強くできるのではないか。良い感情を共有している人とは結束できる。悪い感情を共有している人とも,やはり結束できる。我々エンジニアも,他の職分の方々も,顧客も,エンドユーザーも,理想的な感情を持たない「冷静」な人間ではない。その悪い面だけを見ないで,感情があることは仕方ないのだからせめて有効活用し,緊急時に力を発揮できるようにできないだろうか。異論はあると思うが。

障害が辛いのでそろそろ社会人人生は終わりか

健康保険組合傷病手当金の申請の際に、どうやらかなり重い病状であるらしいという扱いを受けてから、自分の障害の辛さに気づいてしまい、そのことばかりを考えている。

発達障害及びPTSDは様々な症状の出方があるが、
私の場合人の言うことを文字通り受け止めてしまう特徴が一番人生設計を困難にしている。

 例えば3人のチームで私が客観的に見て進捗を出している方なのに、「niryuuさんはがんばってください。他の人はこれまで通り続けて下さい」と言われると、解釈としては「他の人が遅れているけど君は進捗を出せているから今のところは支えてくれ」ということになるのだが、他の人が順調で私がだめであるというような感情が残ってしまう。
 また、根拠を示して無理だと言ったことを「やってくれないと困ります」で押し切られると、本来は調整が必要なのにもかかわらず「無理だとわかっていてもやって、自分が責任を取らないといけない」というようになってしまう。
 さらに、「この範囲でやったことではこの結果しか出ないので、限界がある」といったことをやって、納得行かないが認めるしかない結果が出て、事情を知らない人が見て「全然ダメじゃないか」と言われたことがある。結果は出た。進捗はあった。それはわかっている。しかし、やはり私及び私の成果物は「全然ダメ」だと思ってしまう。

 普通の人はこういったことを「聞き流す」もしくは「気にしない」。私だってそうしたい。しかし、脳のレベルでこれらは固定され、増幅され、悪い心象が残ってしまう。そんなことの連続に耐えられず、2度めの休職をした。もはや、何も言われなくても「誰かが私のことを悪く思っているんじゃないか」というどこまでいっても可能性レベルの気にしなくても良いことを気にしている。
 「どこにいってもそういうことを言う人はいる」「そんなことではどこにいってもやっていけない」確かにそうだ。その意味で、同じような企業に転職しても結果は同じだろう。また、現在社会人院生をやっており、ようやく成果が出始めて研究者になるという選択肢も少しずつ現実味を帯びてきた。しかし、研究者こそ業績が誤解されやすい世界である。正直、やっていけないのではないかと考えている。もっとも、研究における批判は根拠がないとできないので、その意味では会社でのケースとは違うのではないかとも考えている。
 発達障害といえば、周囲といろいろな問題を起こしてしまい、それを解決することが自ら及び周囲の主要な問題となっている。正直それはうまくいき始めているのだが、私とて発達障害なれど一人の人間である。心は傷つくし、それを表に出すことが不得意である。だから一気に噴出してしまった。


 これからどうしたらよいだろうか。もし傷病手当金が1年半降りることになり、失業手当が1年降りることになったら、合計で2年半仕事をしないで良いことになる。しかし、根本的な問題は解決しない。将来への不安しかなく、押しつぶされそうである。
 
こんな状態で5年間頑張った。それを褒めてくれる人はいないだろうが、もう十分ではないか。

そもそもなんでUI/UXを変えるのかについて

hatebu.me

blog.onpu-tamago.net

 面白い話題で、お二方とも知り合いなので私も議論に参加したい。風邪を引いて復帰中の駄文なのでそのあたりはご容赦を。

prerequesties

 ↑を両方読んで下さい。

abstract

 新しい技術なり概念なり使い方が現れてきたならUI/UXは必然的に変わるが、そうでない場合は保守的な方向に向かうのも必然に近い。

私たちにとって「パソコンとは何か」に対する見方は変わったのだろうか?

 論点の骨子は、「OS/情報機器のUIが新バージョンで変化する必要はあるのか」という点であると思う。かたや「使い慣れたものを使い続けたいだろう」ということであるし、一方で「環境が変わりつつあるなら変わるべきだ」という視点もある。

 私はWindows, Mac, Linux(Ubuntu)の最新バージョンを使っている(ごめんなさい嘘です、Macは少し古いです)。しかし、実際のところ私がやっていることにほとんど変化はない。相変わらずVT100にルーツを持つターミナルは常にどこかにあり、ウェブブラウザも常に開いている。ワープロソフトを不満を持ちながら使い、開発環境のatomも洗練されているものの基本的にIDEと柔軟なテキストエディタのいいとこどりをしたものだ。研究やライター業などの執筆環境については、ここ15年全く変わっていない。サクラエディタ(Wineで動かしている)とLaTeX。これが定番。PDFビューワーはそれなりに融通が効くものならどれでもいい。

 この実例で何が言いたいかというと、私個人としては「パソコンで何ができるか」ということの認識に対して15年以上何も変わっていないということだ。そして、それ以上を何も求めていない。執筆作業については、たまに気分を変えたい時にDOSにもどってしまうくらいだ。PC-9800系の暖かみのあるフォント…素晴らしい…というのはおいておいて、正直、使い方、そして何が使えるかという面では何も変わっていないのである。

 かといって昔に戻りたいとも思わない。最近のOSに搭載されたスナッピング機能(2つのウインドウを左右に並べる機能)は明らかに生産性を上げている(あー、Macだけ標準ないと思っていたら、Sierraで搭載されたのか。上げるか)。しかし、これも「タイル型ウインドウマネージャ」という昔からあり、多機能すぎて使いこなせなかったものを簡略化したものと解釈することができる。

 結局求めているものは既に昔からあるのだ。その上で、自分にとって既に快適充分なものをゴチャゴチャいじっていくのは好きではない。その点で、私は齋藤さんに賛同する。

スマートフォンは変わった

 一方で、スマートフォンについて見てみよう。基本的な思想としてデスクトップパソコンのUIをモバイル向けにしたWindows CENOKIASymbian OSの試みは、iOSAndroidにことごとく駆逐された(Windows Phone 7以降については…あれは物凄くよくできてるんだけど、ねえ…)。

 スマートフォンに期待されていることは、パソコンとは時間的空間的に全く異なる。時々刻々とソーシャル・ストリームで人とつながり、その場所に合ったように情報を取得し、発信する。屋外においては、これらはシンプルな形で実現されなければならない。そして、人間が小さいデバイスを手に持っている間の多くを占めるのが「暇」だ。それゆえ多くのシンプルなゲームが復活した。

 こうなれば、「何ができるか」はパソコンとはほとんど異なる。だから、UIも変化の必要があるのだ。そして、それは「パソコンもスマホの要素を取り入れるべき」ということを必ずしも意味しない。これについては次節で述べる。

スマホからパソコンへ」に見られるパソコン観の根本的な変化

 ここで1つ事例を挙げる。たまに若い人間がパソコンを欲しい理由として「スマホとかと違って映像とかをきれいに配信したいじゃん」などというものを挙げているのを聞く。彼らの「パソコン」への視点は私が先に挙げたものとは全く異なる。いや、俺も昔は…いいか。

 ここで言いたいのは、彼らがスマホをベースとしてパソコンを見ているということだ。我々はパソコンのサブセットとしてスマホを見ているきらいがある。こうなると、彼らがパソコンに求めるUI/UXは我々が慣れ親しんだものとは違うかもしれない。例えばタッチ操作がそうだ。タッチ前提で育ってきた彼らにとって、タッチを前提としないパソコンは大きなストレスになるだろう。だとしたら、パソコンもそれに対応すべきだ。だから、Windowsは8以降迷走しながらも完成度を高めつつある。

 もう1つ読み取れることは、例えば私がパソコンを主にドキュメントやコードを書くことから始めたのに対し、彼らは映像から始めるということだ。YouTuberの映像編集の過程を記録した動画を見たことがあるが、あれはあれでドキュメントとは全くやっていることが異なる。従来からの映像編集とも割りと異なる(凝った映像編集ではなく雑なんだが、雑にはフォーマットを統一できるという利点がある)。そしてそれはやってみないとわからない。

 「やってみないとわからない」これが1つのキーポイントであると思う。パソコンをドキュメントやコードを書くものとして見ているとしたら、いつまでもパソコンはそのままであり、またそのままでよい。しかし、パソコンでできることや役割も拡大しつつある。開発側がそれを考慮していることもあるだろうし、それによるUIの変更は「やったことのない」人間には不快に感じるだろう。

結論

 結論としては、パソコンについて昔から同じ使い方をして同じ見方をしてきたとしたら、UIの変化の必然性はない。しかし、パソコンには我々のやったことのない様々なことがあり、また、スマホからコンピュータに触った人々もおり、それらを考慮して設計者はUIを設計しているかもしれない。

 そして、その全てを満たすUIの設計は難しく、様々な人々の「使用」あるいは「使用観」が含まれている。ある意味で新しいUIに人間が慣れなければならないというのは、例えば若者の見ている視点と合わせなければならないということも意味するのではないか。その点で、私は高見さんの意見にも賛同する。

最後に、1つエクストリームな例を挙げる。

 これは、私が全く同じ作業について、新しいUIと古くからのUIで改善を試みた例である。

 最近、スマホタブレットでも論文を書けることを発見した。タブレットの直感的なUIで資料をめくり、スマホevernoteで書いていく。フリック入力は充分に速く、長文も書ける。文字数は体に叩き込んであるので問題はない。そして何より良い点は、ウインドウという単位ではなく「物理的に」2つの環境を自由に移動できることだ。一部の作業においてはこの方がパソコンより生産性が上がる場合すらある。これは恐らくVRなどの情報空間の構成の仕方に近い。

 そして、同じ論文執筆作業において、パソコンとマウス/タッチパッドで追いつかない場合がある。そこで手に入れたのが「トラックボール」である。トラックボールは古くからあり、流行はしなかったものの一部の人々を常に魅了してきた。私はある日直観的に、「これでは頭の動きに操作が追いつかない」と感じ、トラックボールを購入した。なんと驚くことか、ウインドウが、クリック操作が、どんどん変わっていく。こんな世界を見たことはなかった。トラックボール、素晴らしい…

 

LOGICOOL ワイヤレストラックボール M570t

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俺がフレンズになれなかった理由

長く書いてもしかたがないのでささっと済ませる。

けものフレンズの優しい世界観

 「けものフレンズ」は、最初の2話に至るまでのあらゆる下馬評を覆して2017年をトップスピードで駆け抜けていき、そしてその世界は未だに広がっている。その主な原因として挙げられるのが、人間関係や打算などの面倒くさいことなしに、人の良いところを褒め、それぞれの個性を尊重する世界観だったと思う。そんな簡単なことがなぜ我々にはできなかったのか、この問いは、それなりに多くの人の心を打った。

 「そんな簡単なことがなぜ我々にはできなかったのか」。これについては、私は端的な答えを与えたい。できる。事実、私は人の良い部分を見つける能力に長けていた。そして、高校2年からインターネットのオフ会などで交流をし始め、人と関わる上でそれがとても大切だということに気づいた。人の長所や個性というのは、その人を覚え、関係を維持し、離さないといった、人間関係のあらゆるところに影響する。いろいろな場所に出入りしてきたが、自然と私の周りには人が集まってきたし、それはリアルとネットを問わなかった。

一人だけ優しくても強いものが生き残る

 実のところそれでうまくいくと思っていた。本当に素朴である。仕事にもつながったし、それで食えるのではと思ったこともあるし、恐らく今もそのつてで食えるかもしれない。しかし、様々な弱肉強食の世界の出来事がそれを打ち砕いた。

  • 新宿の某トーク系ライブハウスにおいて、好きだった人がイベントの主催者と付き合ってしまった。私はそれなりに頑張ってきたつもりであるが、やはりガンガン動ける人間、そして自然体で魅力のある人間には勝てなかった。
  • 高円寺の芸術や社会運動の界隈に出入りしており、自分も人を組んで何かできたらと思ったが、10歳くらい上の世代はノウハウも経験もあり、自分が何かできる隙などなく、むしろ邪魔者だった。
  • 大学2年次に入ってすぐに母が亡くなり、両親がいない状態になり、しばらくはそれについて自動的に口から出てしまう状態だったのだが、幸せを謳歌している同世代は「おもんないよ〜」と言うのみであった。

 こういったことが連なり、徐々に私は自信をなくしていった。そして、ある1つの考えに至る。

 

ーー俺は、人の良いところを見つけているのではなく、俺が人より劣っているだけなのではないか。

 

 そして、私を慰めてくれる人がかけてくれた言葉の中に多くあったフレーズがあった。「田島さんは優しいから」。そうか、「優しい」のは、だめなのか。優しさは最終的に良い方向に働くという助言をもらったこともある。また、これらの問題は時間が解決する側面もある。しかし、もはや私にはそれを受け止める余力はなかった。ただだめになるしかなかった。

 けものフレンズに戻ると、ジャパリパークの掟は自分の力で生きること、自分の身は自分で守ることだということが1話で言われている。私にはそれはできなかった。

弱肉強食の世界からも降りた

 この状況を打破する一つの方法がある。私を潰した人々のように、強くしたたかに、人を踏み潰しながら生きることだ。しかし、私はその方針を「嫌」だと感じた。それは、他の「優しい」人間を潰すことにもなってはしまわないか。自分がやられたから人にも不幸になれというほどには、私は悪くなりたくはない。

 結局折り合いがつかず、厭世的になって今に至る。その点でコンピュータ系の技術者というのは技術だけやっていればある意味でどうにかなるし、大学院というのは社会と距離を取るのに適した場所だ。

 かといって、コミュニティなどで人と関わることを辞めたわけではない。確かに去ったコミュニティは多くある。しかし、新しく関わった人々も多い。そして、微妙に独自の地位を確立することがある。私は「優しく」なる気はないが、普段の会話の中で、無意識に人の長所や個性について言及しているためかもしれないし、事実そうしていると思うことはある。相談などにも基本的には乗る。

 まあそれらも全て、「俺が人より劣っている」ということを前提としてのことだ。これについてはこのブログを読めばおわかりいただけると思う。2010年頃から「俺はもうだめだ」というのが口癖になり、数年後に出たOLYMPUS OM-D E-M5(愛機である)にちなんで OMD と略している。

結局何が正しかったのか、そして世界ダメ人間選手権へ

 ここ10年で、私の「劣り」は相当の域に達してきたと自負している。多くの人と会い、その全員から長所を引き出し、そしてそれを全て「自分の劣っている点」にしてきた。相当に「劣り」は強くなっていると思う。はっきり言って私に「劣っている」という観点で勝てる人間はそうそういないのではないか。

 そして、私はこの信念に疑いを抱いてもいる。本当に劣っているだけの人間だとしたら、なぜ今まで生きてこられたのか、そしてなぜ「自分の劣っている点」がさらに増えるだけなのに積極的に人と関わっているのか。私はそれを素直に受け止めるほどの、つまり自分が劣っていることをやめるほどの度量がない。

 だから、俺より劣っていると、俺を打ち負かすことのできる本物の駄目な人間を探している。そのために、世界ダメ人間選手権を開きたい。ダメ人間というのは、生死に直結し、生き方でもあるという点で「武道」であるといえる。基準が曖昧なのでルールなどは一切ない。その試験的なことを、今月の25日に行う。我こそはと思う方はぜひ参加されたい。

https://www.facebook.com/events/261113414356006/

「わずか6問で成人期ADHD患者を発見」について

medical-tribune.co.jp

論文を入手し、当該部分を訳しました。意訳です。医師が使うための基準なので、医師でない方が自分の参考にするのは悪くないと思いますが、他人に対して運用すると良くない結果を招くと思います。また、私は医師ではなく、この基準に責任を持つ立場ではないので、心当たりのある方は医師にご相談ください。

追記:質問文の原文がこちらで紹介されています。論文本文の方はこちら

 

以下の質問に、「全然ない」「稀に」「ときどき」「しばしば」「とてもよくある」でお答えください。「全然ない」を0点として、「稀に」以上を、「とてもよくある」を質問の最後の得点とした形で割って点数を出してください。


1.誰かがあなたに何かを話しかけているとき、直接あなたに話しかけているときであっても、集中するのに困難を感じてしまうことはどれだけ頻繁にありますか。(5点)
2.ずっと座っていることを期待されている会議などで、どれくらい頻繁に席を立ちますか。(5点)
3.自分の時間があるときに、くつろいだりリラックスすることに困難を感じることは、どれだけ頻繁にありますか。(5点)
4.会話中、どれだけ頻繁に人が喋っている際に割り込んでしまいますか。(2点)
5.直前まで物事を先送りしてしまうことがどれくらい頻繁にありますか。(4点)
6.日常生活に必要なきめ細かにやらなければならないことについて、どれだけ頻繁に他の人の助けを借りていますか。(3点)


14点以上はADHDの疑いがあります。

 

Appendix

そもそもこの基準って何なの?なんでこの6つなの?わけわかんないんだけど?について。

その通りで、なおかつDSM-5における診断基準と驚くほど合致するという変な基準です。

そもそも、精神科における精神疾患の診断は、症状も様々で医師の主観なども関わる曖昧なものでした。それは長年問題になっており、とりあえず診断基準だけは統一することで、治療のガイドラインを設けたり、学会などで意思疎通ができることを目指しました。

その手段として使われるものが「操作的診断基準」です。つまり、「この病気はこういうものであるから、この人はこの疾患だ」というのではなく、「この診断基準に当てはまるから、この人はこの疾患だ」ということを第一の基準にする、診断の方法をもって疾患を定義する方法です。精神科医が用いる標準マニュアルDSMは、この考え方を基本に構成されています。もちろん、この方法に問題点はあるのですが、とりあえずの糸口として有効だということです。

しかし、ADHDなどは少なくとも診断面では流行している障害で、DSMを毎回厳格に適用していたらきりがないため、簡単ですぐに結果が出てそこそこDSMと比較して精度も出るASRSというものができました。それをアップデートしようというのが今回の趣旨です。

DSMでは多くの診断基準がありますが、「この項目が当てはまる人はまずこれも当てはまる」といったものが見られます。DSMには疾患を定義する側面があるため、恐らくそういった冗長性を認めています。しかし、例えば簡単なチェックリストを作る場合は重複しそうな項目は不要です。それを排除するために本研究ではコンピュータによる自動での判断、具体的には機械学習による判別を用いました。その結果、「なぜかはわからないが」この6つが残り、しかも充分な精度が出ました。

なので、ある意味でわけがわからないのは当然で、ちゃんと疾患について理解するのとは全く別の目的で作られたテクニカルなものだということは留意すべきだと思います。

例えば医者ロボみたいなものにこのチェックリストが実装されていたとして、医者ロボはADHDのスクリーニングはできるかもしれませんが、それがADHDを理解していることを意味しているかというと、私はそうは思いません。これは近年の人工知能一般にいえます。

リモートワークについて

はてなブックマークなどで「リモートワーク」に関する記事をいくつか読んでいるのだが、私の会社で数年間実践されていることとどうも合わないので、いろいろ書き留めておく。

Acknowledgements

以下に書かれていることは一つの特殊事例であり、読者の環境や感情に適合するとは限らない。組織の作り方、維持の仕方、テクノロジーの導入の仕方によって、時間的空間的にいろいろなやり方があるということを明記しておく。

Main Claims

  • リモートワークは、在宅など自由な空間で勤務するのみならず、時間も自由にし得る
  • リモートワークは、コミュニケーションを密に取る必要がある場合もあるが、無駄なコミュニケーションを省く基盤にもなる

本論

 近年「リモートワーク」を導入したという事例が特にソフトウェア開発の分野で盛んになっている。その中で、リモートワークは新しい働き方として認識されており、それをどううまく運用するかが一つの焦点になっている。しかし、現存するリモートワークのベスト・プラクティスにはいくつかリモートワークの可能性を狭めるような印象を覚える。

時間を管理するか自由にするか

 1つには、リモートワークが在宅勤務などの「空間を自由にする」働き方として捉えられているということが挙げられる。リモートなのでそれはそうだ。その中には様々な種類があり、完全にリモートに移行した企業もあれば、オフィスを持ち、一部の構成員が完全もしくは部分的にリモートで働くということもある。

 そこで即座に生じるのが、勤務時間の管理の問題である。オフィスがあれば、誰が何時に仕事を始めて何時に終わったかを把握できる(もっとも、ごまかしは横行しているが)。しかし、リモートだとそれができない。なので、擬似的に「出社」あるいは「タイムカード」を導入している事例が多い。もしくは、働いているかをカメラなどのセンサーで監視することもあるだろう。

 しかしながら、私はそういった会社で働くことができない。私は障害で時間を守ることができず、勤務時間が決まった会社では働けない。今の会社は「正社員、勤務先自由、完全フレックス」という条件で入社し、5年が過ぎた。現在は夜型の生活を送っている。それが最も効果的に働けるためだ。朝から働いたら精神を壊してしまう。「完全リモートワークで、週1日でいいから働いてくれないか」とのメッセージをいただいたことがあるが、その自信すらないので断ってしまった。

 また、勤務時間も不規則である、というか少ない。どれだけ少ないかというと恐らく週40時間働いているか怪しく、働いていない日もある(1日17時間働くこともあるが、ボロボロになった)のだが、「相応の働きをすれば問題ない」ということで問題視はされていない。そもそも知的作業に使える時間は1日の中で4時間が限度だろう。と書いたが絶好調なら5時間はいけるかもしれない。それ以上働くのは単純な事務作業なら良いかもしれないが、それ以上のことをやろうとすると生産性が一気に落ちる。というか、多くの場合マイナスになる。変なコードや文書を書いたら直さなければならないので。17時間働いた日は酷かった。

 ここまで読んで多くの人は「お前は給料泥棒じゃないか?」と思うだろう。週40時間働かないで正社員としてフルの給料をもらうなんておかしいんじゃないか。それに対しては一応「40時間は法定の基準であり、正社員かどうかとは関係ない」と述べておく。いわゆる変形労働時間制であるが、実質的に裁量労働制だともいえる。むしろ、賃金に見合う程度の成果を明らかに可視化しているし、そうなるようにキャッシュフローや会計面は把握している。

 ということで、時間も自由にして良いのではないか、それで問題ないのではないかというのが持論である。これに対してリモートワークはプラスに働く。通勤の問題と、オフィスの営業時間に縛られないためである。「時間を自由にすると働かなくなるんじゃないか」という意見もあるだろうが、それは人による。

コミュニケーションの問題

 リモートワークにすると、対面と比べてコミュニケーションが機会、量ともに少なくなってしまうので、密にコミュニケーションを取るようにしたらうまくいったというベスト・プラクティスがいくつか見られる。私に言わせてみれば、それだと困る。私はコミュニケーションにも障害があり、ビデオミーティングやチャットの曖昧な応酬だけでクタクタになって家でうずくまってしまう。

 さて、ここで考えてみて欲しい。そもそも、対面会話のように即座に伝えてレスポンスを受け取らなければならない情報というのはどれくらいあるのか。多くの情報はそうではなく、それにもかかわらず即レスを求めているのではないか。その場合、密にコミュニケーションを取ったら逆に混乱してしまう場合すらある。対面で、チャットでいくらでもそういった事例は見てきた。

 今はチケット管理システムやgit、ナレッジベースなどなど様々な非同期で情報を蓄積し、コミュニケーションを行えるツールがいくらでもある。それらをよく使えば、リモートワークもそうだし、オフィスワークにおいても無駄なコミュニケーションを減らせるのではないか。

 その上で対面のコミュニケーションが必要ならすればよい。私の場合、週1回の定例のミーティング(リモート参加がOK)のためにオフィスに行くことが多い。そこでたくさん喋ればだいたいのことは解決している。案件が炎上した場合、対面(わざわざ同僚に会いに新幹線で朝から移動したこともある)でもうまくいかなかった。

 もちろん、例えば企画職などで「対面で延々と話し続けないと仕事が進まない」種類の職業もあるだろう。あらゆる会話、書いたもの、見たものなどが重要になる種類の仕事だ。しかし、それらがリモートで可能になるのは時間の問題だと考えている。確かに今そういうことをリモートでやるのは不十分である。しかし、今後恐らくVR、AR系の技術が充分な密度の情報をやり取りできるような環境を提供できる可能性はある。

結論

 正直に言うと、勤務時間が決まっていて対面会話を再現すべく密にコミュニケーションを取る種類のリモートワークは、従来のオフィスワークと働き方そのものは変わっていないように思う。それより、テクノロジーをより積極的に使っていき、慣習を打ち破ってでも本質的な価値に集中したほうが良いのではないか。

 個人的な事情としては、時間を守れず、コミュニケーションもまともにとれない私が働けているリモートワークは、障害者など様々な働いていない人が労働に参加できる可能性を持っていると思う。それは働くことにとどまらないだろう。もっとも、政府のテレワーク推進がそんなことを考えているとは思わないが。