minghai 氏の訳に対する態度について

ついでなので.

minghai 氏の訳についての takeda25 氏の主張

minghai氏版はですます調で一見親しみやすく、中身が腐っていることがすぐにはわかりません。

については完全に同意している.

 基本的に, takeda25 氏の主張がいかにまずいかについては,ブログ記事のアナロジーで考えていた.例えば滅茶苦茶な主張をしている人やワードサラダに近い滅茶苦茶な文章を書いている人というのは一定数いるのだが,そいつらは排除されるべきではない.極左・極右の対立ですら,相手の陣営を「消えろ」と主張することはしない.その観点で, takeda25 氏は言い過ぎだと考えている.

 さて,その観点で, minghai 氏の訳と訳に対する態度を考えると,ブログ記事で例えるならば「言ってることは滅茶苦茶だけどコミュニケーション能力はあるから皆にうけるようなものを書き,批判はスルーする」ようなものなのではないか.私はそういう態度については強い嫌悪を覚える.

takeda25 氏の論調が気に食わない理由について

個人的な意見をまとめた.まず,

  • SICPを訳し直したことについては素晴らしいことである.
  • 駄目な訳を批判し,さらには攻撃することには問題はない.
  • 駄目な訳を「公式な場」で「完成品」として出すべきではない.

しかし,

  • ブログや github において,完全に駄目に近いものであったとしても,それを世に出すことを批判すべきではない.

minghai 氏の訳は売られているわけでもないし,公式の訳でもない.ただ流行してしまっただけだ.それには, minghai 氏が「完成品」としてこれを世に出してしまったこと(これはあまり良くない),またその希少性など様々な理由があるだろう.しかし,「駄目な訳が世に広く出回ってしまった」ことは,環境のせいであり,それを minghai 氏のせいにして責めるような論調にすべきではない.むしろ,人に見てもらって批評される場としてのブログなどの「非公式」な「間違えることのできる」場所を窮屈にすることの方が害ははるかに大きいと考える.もちろん,これは takeda25 氏がそのような意見を表明する自由を害するものではない.

全く駄目な成果物と人格否定について

 エンジニアをやりながら大学院博士課程に入学し,半年が過ぎた.現在初めての学会発表に備えている(実際には2011年にAcceptされた発表があったのだが,当日非常に嫌な予感がしてベッドから出られなかった.発表しなかったことを悔いていたら尋常ならざる地震が発生した).

 学会発表の予稿の締め切りが26日,案件の事実上のマイルストーンが27日である中で,医師に無理しても良いが28日には絶対に休めという許可を得てなんとか乗り越えた.その中で,何度か徹夜して仕上げた予稿は様々な問題があった.

 最初の予稿では,自分が網羅した現状の問題点と,教授のくれた指導は概ね近かったように思う.厳しいと思って手を抜いてしまった部分に改めて取り組まねばならないという重圧と,案件との時間の調整に追われた結果,精神が不安定になり,不安定な精神で書いた次の予稿はそのまま精神の構造が反映されていた.しかも人に伝えるという重要な部分をうまくできていなかったため,これはもうだめかと思った.当該部分を削除し再度挑んだところ,教授から細かい修正をギリギリまでいただくことができた.言葉の選び方などは流石に圧倒的なセンスだった.そして予稿の提出となんだかんだ言って伸びた案件が一段落し,久しぶりの休日である.

 さて,昨日Webで起きていた騒動が,SICPの翻訳の問題である.SICPの訳本はピアソンの撤退により一旦絶版となり,訳者の無償公開と,微妙な訳を個人で行ったPDF版の2種類がWebで読めるようになった.しかし,微妙な訳には著しい問題があり,しかもそこそこ有名になってしまったため,「アスペ日記」の人がほぼゼロから翻訳して辛辣な文句とともに公開したという経緯である.私はこれを読んで非常に強い敵意を覚えたし,まだ彼に敵意があるためリンクは貼らない.

 もう少し冷静に読めたのが,「アスペ日記」の記事に対するリプライとして書かれたShiro氏の記事である.

「腐った翻訳」について - Island Life

http://blog.practical-scheme.net/shiro/20151030-translation

プロの翻訳家や文筆家だって、自分の作品を世に出す前に、信頼できる他人に 目を通してもらうのだ。アマチュアがそうすることをためらう必要はない。

そしてその人に、根本からやり直さないとだめだ、と判断されたなら、 謙虚にそれを聞いて何度でもやり直せばいい。

そう判断されることは、自分の人格が否定されることでもないし、努力が無駄になることでもない。 むしろ、わかる人に判断を仰げるだけのアウトプットは出した、ということを意味するのだから、 それは立派な成果だ。

その成果があったから、スタートラインに立てたのだ。

 端的に言って,氏の言っていることはまっとうであると言わざるをえない.信頼できる人による専門的な訓練というものは,全く駄目な成果物を人に見せられるものに変える.それはまさに私がここ数ヶ月で身を持って体験してきたことである.事実,私は自分の専門領域について下手なことはほぼ語らなくなった.

  しかしながら,これに対してもどうもしっくりこない,というか,本質的に人格批判を - 具体的には,「腐った翻訳をした人」の「翻訳をする人」としての人格を否定したものではないのか(ここで,「人格」は人間そのものではなく,場面に応じて様々な様態をとるものとしている).「将来的にちゃんとした翻訳をできる可能性のある人」としてすら扱ってもらえないのか.そうこう考えているうちに私は私自身の人格を否定していくに至り(私は成果物だけでなく人格も悪い),ベッドから立ち上がれなくなって今に至る.最悪の週末である.

 さて,多少冷静になってきたのと,Shiro氏が新しいエントリを書いたのでそれを読んだところ,だいぶ腑に落ちてきた.

わからないということをわかる - Island Life

http://blog.practical-scheme.net/shiro/20151031-knowing-not-knowing

根本的な改善というのは 自分が変わる必要があります。 表現全体に影響を与えるかもしれない、土台から変えるような変更は、 自分でその必要性を発見できないと、やれないですよ。 他人にこうしなさいと言われてできるようなものではない。

(...)

叩き台になるレベルかどうか、どうやって自分でわかるかって? わからないところをわからないと自分で認めて、 それでも自分なりに出来るところまで考えておく、 それが出来てれば十分叩き台になりますよ。

 その通り,これは自分との戦いなのだ.ある意味で,人から(人格を含め)批判されたり否定されたりすることとは無関係で,自分の表現のだめさ,自分のわかっていない部分を受け入れて戦っていくという孤独な作業が必要である. 

 一方で,やはりそれは人格否定じゃない?と思う.要は,単に成果物の否定にかぎらず,孤独な戦いをやらない限り翻訳者などの専門的な人間としては認めないよということなので.そして,それを人格否定だという理由で否定するのも,良いことではない.結局そいつは自分と向き合わないで残ってしまう.一応Shiro氏は

Don't take it personally - Island Life

http://blog.practical-scheme.net/shiro/20081107-dont-take-it-personally

において作品に対する批判は人格否定ではないというエクスキューズを置いているが,これは議論の対象領域が異なると思う.作品への批判で完結できるような事柄なら確かにそうだ.しかし,お前のやっている行為は全然駄目だと述べて自分との戦いへと誘うような種類の批判は,やはり人格否定だと思う.換言すれば「専門家としてのマインドを身に付けろ」という人格の根本的な変更を要求するものである.

 ということで私の感じた嫌悪感をまとめると,やはり人格否定はいけないという前提に立っていたことだと思う.しかし,実際は領域を限定した上で,それをやっているお前は完全に駄目だという場合,人格否定は許容される.さらに,そこから誰の助けも得られない世界に行って苦しむことになる.ちゃんと駄目な部分と向き合わない限り,救いはない.私はそれを救いようのない世界だと感じた.

 しかし,私自身その必要性を身を持って感じて救いようのない世界に身を投じ,孤独を何度も味わいながら,時には人格を否定しながら乗り越えてきた.それを今回の翻訳の事例をきっかけに改めて客観視してしまい,辛くなったのだ.特に最近は同年代で結婚が多く,どんどん幸福になっていく,同窓会の案内があるが本当に行きたくない.その中でこのような世界で戦っていくことの先に何があるのか.つまりはそういうこと,自分自身への嫌悪感であった.

 これは今解消されることではないし,今後解消されることもないだろう.そして,上記の2人やさらに言えば id:next49 氏のような指導する側として本音を言う方の意見には厳しい感覚を抱き続けるのだろう.

パーソナルな連絡をする能力がなく人生が詰んだことについて

 30になって人生が詰んできた。いろいろ理由をつけることはできるのだが、解決できる問題まで先延ばしにしてしまうほど追い詰められている何かがあるとしたら、それに正面から向き合うしかないだろう。

 私は、人と個人対個人の連絡をすることができない。手紙や電話、メールからtwitterなど各種SNSのメッセージ、LINEなど様々な手段があるが、自分から特定の個人に連絡をすることは、ほとんどないか必要に応じてしか行わない。その必要な際も大きな精神的負担がかかる。

 誰かから連絡が来ることもたまにあるが、「そもそもなぜ私にこの時に連絡をよこすんだろう」ということが理解できない。例えば暇であるとかそういった理由は見つかるのだが、私に連絡をできる理由や方法がわからない。

 これは根本的な欠陥で、人間社会での多くの能力を失ってしまう。例えば新しいことをするとき、プライベートにしか話せない問題が起きたとき、もっと端的に言うと恋愛など、多くのことができなくなる。私には働き方としてフリーランスが向いているのだが、踏み切れないのはその辺りが原因である。そもそも、できないのでどういうことができるのかすらわからない。

 もっとも、1回話し始めればちゃんと応対はできるし、むしろしゃべるほうだ。雑談はあれは実は日本人ネイティブとしての長年の経験が必要で、「雑談の構造分析」という書籍によると外国人留学生の多くが困っているので、コミュニケーションの経験に乏しい私も苦手である。

 にもかかわらず私がそこそこ社交的に見えるのは(ここ2ヶ月はそうではないが)、主にインターネット、たまにリアルでの様々な集まりに参加しているからだ。チャットのストリームはそこそこ膨大だし、はてなブックマークでのコメント、スターなどの薄い交流も含めると社交的であるようには見える。このブログもまあそうであろう。しかし、どこか根本的なところで欠けている部分を常に感じている。

 物心がついた時から恋愛をしたいとずっと思っていた。私が人を好きになってもうまくいかない理由は間違いなく、個人的な連絡ができないことだと思う。全ての前提がおじゃんになる。たまに入院した時に見舞いにきてくれたり、突然飲みたいと連絡が来てそのまま告白されるなどのことはあったが(精神の調子が今より悪かったので断ってしまった)、自分から連絡をできず、できたとしてもうまく行ったことはない。1回、Skypeチャットで女性とサシで話をした時、中途半端なところで話が途切れてしまった。8時間後に「ごめん」と送った。「?」と返ってきた。

 昨年から今年にかけて、インターネットにおいてトリックスター的な人物が少し近い界隈に来たので、動向をウォッチしていた。代表的な方としては江添亮さんとはるしにゃんさんで、どちらも問題を抱えている。江添亮さんは各種シェアハウスで暴力的な言動を繰り返して一部はWeb上で明るみにに出ており、はるしにゃんさんは迷走のして多くの人や場所に不義理をした上で亡くなってしまった。

 しかし、江添亮さんは女性に対するボディ・タッチを普通にしており(男性の股間の動きに近かったので「ち」の動きと呼んでいた)、女性との交流も多く、最終的に事実婚までたどり着いた。はるしにゃんさんは女性からの悪評も多かったが数多くの女性と関わって、亡くなる時まで女性と一緒にいた。彼らは、私からしたら神に近い能力がある。ステージが全く違う。私は彼らがいる場所においてはゴキブリのようなものだった。

 そして、まあ30というと多くの人が結婚していく時期である。Facebookには月1回結婚報告が流れ、数人の昔好きだった人の結婚報告を見た段階で、Facebookを見るのをやめた。Facebookにおいては、私はゴキブリ未満、ホールにおいて静まり返った時に流れる「シーン」というノイズのようなものであった。その辺りからずっと引きこもっており、仕事も満足にできていない。いや今は少しずつ持ち直し初めた。

 Facebookのことはおいておいて、自分が落胆したのはやはり江添亮さんやはるしにゃんさんのような、自分勝手で人に迷惑をかけるような人が、結果的に人と仲良くなれるんだなということである。昔サブカルをやっていた時もそうだった。だとしたら、これからそういう能力のない私は諦めていくしかないのか。これが、「詰み」である。

 どうすればいいんかな。それが思いついたらこんな記事を書く必要はない。

はてなブログでのいろいろな人々の存在について

 お互いに見える距離で言い合ってるのなら、お互いを見えないようにするとか時代の流れだとか言う前に色々やることがあるでしょう。

 ということで、今日ははてなブログに新たな「Facebookノリの陣営」がいるという「古参」の感覚について話をします。

 事の発端としては、はてなブックマークid:hitode99 さんなどの今までとは全く違う人の明るい記事が新着エントリに上がるようになってきて、ブクマコメなどでもお互いを褒めあっててなんだか侵食されているようで感じが悪いという話です。私もなんか新しい連中が現れたなという感じでしたが、別にすげーつまらない記事だけを上げてるわけでもないので、特に気にしてはいなかった。

 ここ数日で話題になってきたのはこの記事のあたりかな。

togetogemaru.hatenablog.com

cyberglass.hatenablog.com

 で、恐らくその時系列として前に「はてなブログオフ会」があったと。

hitode99.hatenablog.com

okite.hatenadiary.jp

 こっちでも、後者の記事の「はてなブログ人物関係図」において「ネガティブーン(ネガコメ大好き!)」が描かれており、お互いに意識しあっている部分はある。

 まあ正直新しい人たちもFacebookみたいに楽しかったね〜記事を上げているだけではないし(面白いものはそれなりに読んでますよ)、我々もネガコメを大好きだから書いているわけでもない(あれは、心から湧き上がってくる酒とにんにくの臭いが混ざったゲエーと長く伸びるゲップのようなものです)。なんつーか雑だし、その状態でお互いに違いを明確にしないまま言及しあっている。これは馴れ合いではないか。

 多分この状態はあまり長くは続かないんだけど、もう言及してる段階でつながってはいるので、変に相手陣営にレッテルを貼るよりなんか適当にお互いの記事を読んだりたまに言及しあって相互理解をしてはどうか。俺はだるいからあんまやらん。

 まあそこまで実のあるものにはならないんだろうけど、ブログを書くスタンスが違うだけで人としてはあんま違わないんじゃないの?と思うので、その点で多少理解なり共感なりはありうる。 id:cyberglass に代表される勢も楽しみが1つもないやつばかりではないだろうし(私はここ1ヶ月本当に楽しいことが1つもない)、新しい人たちも人生楽しいことだらけ!悪いことなんてない!最高!とはなっていないと思う(といっても向こうにはポジティビストがいるのか…まああのタイプは常にいるしな…)。なので、こっちはネガティブ、あっちはポジティブとなっているのはまあ表現のスタンスの違いなのではないか。

 ここで、非常に昔の記事を引用する。

d.hatena.ne.jp

 この記事では図が書かれていて、いわゆる殺伐とした「はてな村」を中心に世界が描かれており、新しい人々も前から「はてな明るい農村」として描かれていたことがわかる。これと先に述べたはてなブログオフ会で描かれた図を対照してみたらまあ面白いのではないか。こちらからは以上です。

これからもっといろんなのが出てくる

 以上にしようと思ったが、1つ面白い事例を言及しておく。そこでははてなブログはほとんど使われていないのだが、一部の飛鳥昭雄経由と思われる陰謀論に関心があってここ数年ウォッチングしており(裏天皇とか八咫烏とか漢波羅とか関係です)、なんというか凄い。極右と極左のどちらも同じものを信じていて、記事のコメントで例えば原発の危険性の記事に対して「美しい日本を取り戻す」とか言ってる人が「素晴らしい情報をありがとうございます!」とコメントをしていたり、とにかく気持ちだけでつながっていっている。とてつもなくマメにコメントをしているし、記事も長い。長い記事が全文引用でとてつもない速さで伝搬していく。そして何年も続いている。で、よく見たらだいたい40代後半から60代くらいが中心で、定年退職で引退して暇を持て余した人々がオピニオンリーダーになっているのではないかという感じ。この異質感はすごかった。というか面白い(陰謀論自体も面白いんだけど)。こういった人々もそのうちはてなブログに来るのではないか。その場合、今のFacebookノリの人々よりはるかに様々なことになっていくと思う。

どちらかと言うと

 俺はなあ、ただポジティブで楽しんでる奴らなんて何ら脅威ではないし、酒を飲み交わして楽しめる感じでもあると思ってるよ。今はちょっと調子が悪いからあれだが。問題は、オタクによくいるんだけど、普段からポジティブでもウェーイでもない人間が突然彼女ができたり幸せになったりして、延々ノロケばっかりやることがあって、その場合これちょっと調子に乗りすぎだなみたいな理性のストッパーが効いていないことがある。 id:razokulover 氏みたいな人間、彼のような人物が俺にとっての「本物の」脅威だ。これは一種の同族嫌悪です。俺は彼女ができたらすごい勢いでノロケます。まあできないと思いますが。

貧乏人が大学に行く意義について

政府文書の要約とかをやっていると,自分でものを書くのが快適で困る.

anond.hatelabo.jp

anond.hatelabo.jp

 ここらで話題になっている,貧乏人が大学に行くべきかどうか,もしくは行くとしたらどうやっていったらいいかという点について,まあ単に私の事例として述べておきます.

 一応私のスペックを.

  • 10歳で夜逃げ,母子家庭に.祖母の家で実家ぐらしなので家と飯は出た.母親が障害者二級,世帯年収80万(障害年金)
  • 大学の途中で母親死亡,両親がおらず保証人が立てられないので授業料免除降りず(大学史上一人だけ本物の天涯孤独がいたらしく,その人は特例で降りたらしい)
  • 電通大夜間→埼玉大院→地理空間情報エンジニア,慶應義塾博士課程
  • 奨学金800万程度残り(さすがに博士課程では借りない)
  • 二親等までの親族がいないので,1人で実家ぐらしです

 まず基本的なことなのですが,大学には「職業に就くための学歴を得る」「職業に就く専門的知識を得る」「広く知見を深める」「人と交流する」「学問を究める」など様々な機能があって,本来は分かれていなければならないものまで一緒くたになって「大学」と呼ばれています.これを国が整理する動きもあるのですが,少なくとも自分の中でなんで大学に行くのかは考えないといけないと思います.

 私の場合は研究のためなら死んでも良いという感じで大学院以降は過ごしていますが,やっぱ死んだら研究できないわということで社会人学生になっています.まあそれはおいておいて,大学に行く人々を,文系理系問わず私は多く見てきました.その中で,やっぱり裕福な人は何をやってもだいたい余裕があってうまくもいく.貧乏人は本当に人それぞれ.なので貧乏人はなおさら「大学に行くと何が良いか」を検討する必要があると思います.

 ここからは奨学金をそれなりに借りる前提で話をします.私はちょっと借りすぎましたが,貧乏な家で大学を出ようとすると,合計の返済額500万程度にはなるかと思います.就職したら月で4万くらい?は払うことになります.バイトはまああれなんですよ.バイトに時間をとられると大学の良い面を減らしてしまう.

 その上で,まず学歴を得る手段として大学に行くべきかどうか.これは大学のレベルに応じて変わりますが,旧帝大,筑波大,神戸大などに入れるなら基本的に心配はありません.入れるならどんな手を使っても行ったほうが良いです.その下の大学に貧乏人が入って幸せになれるかというと,微妙です.例えば就職などで今までの人生を覆せるくらいの成功ができるかというと,恐らくそこまではいかない.

 次に,職業に就くための専門的知識を得るために大学に行くこと,これはおすすめできません.主に工学部や,上記記事で挙げられていた職業訓練校からの編入学についてです.現在,新卒で入った社員には年功序列が適用されることは少なくなってきました.その上で,奨学金が数万引かれます.要は貧乏になります.あまり考えないでこの道を選ぶのは危険ではと思います.一部上場企業に入れた例というのはそこまで多数派ではないので.業種によっては高卒で頑張って働いたほうが幸せになる場合もあるかと思います.「大学を卒業することで一般的な物事を考えてまとめるスキルがつく」というのも多少まゆつばです.それを企業が活かせないとしかたがないので.

 ある学問に特別の関心がある場合について.親が「裕福」でなかったら死ぬ覚悟が必要です.まあ死ぬ覚悟は難しくありません.参照:

wofwof.blog60.fc2.com

 ということで,大学でしかできないことをやって,得られないものを得ても貧乏人にはそこまで良いことはないんじゃないかと思います.良さを自分で見いだせたなら,それはやっていくしかないでしょう.

 で,ここから大学を擁護します.大学に行くことで,「貧乏なりに幸福に生きていく」術を様々な形で手に入れるのではないかと思っており,それだけのために大学に入っても良いのではないか.例えば講義を受けたり大学図書館の蔵書を読み漁ってそこそこの知識を得れば,研究とまではいかないまでも一生かけて趣味としてあるテーマを追っかけられるかもしれない.また,学内学外問わず多くの人と交流することで,卒業後孤独にならないで済みます.こういうのがあるかないかで,同じ「貧乏で生きていく」にしてもだいぶ変わります.高校を出て趣味なし,友人なしだと本当に酒だけとかになります.まあこれを奨学金を背負いながらやるほどかというと,人によって意見はわかれると思います.

 まあこの記事についてはかなり偏っているのであらためて調べてみてください.大卒でないとできない職種も多いです.また,「安定した雇用」を得たいなら大卒が有利なことはまだまだ多いと思います.しかし,そういったものを得られずに大学を卒業して,高卒と同じような生活を送っていく人が多いのも事実なのですよ…

子孫を残せず絶滅していく現代のネアンデルタール人「劣人」

 最近30になったこともあり,周囲で結婚の話ばかりが行われていて,そういったものとは全く縁のない私は非常につらい気持ちになる.私は本当に彼らと同じなのだろうか.このまま事が進めば,私という人間や,他の似たような仲間は,皆子孫を残せないで死に,「絶滅する」.

 そう思っていると,かつて人類と曖昧に混ざりながらも絶滅した「ネアンデルタール人」のことを思い浮かべるようになった.ネアンデルタール人は,現生人類とだいたい同じように生き,現在と非常に異なるだろうがそれなりの知性や感性を持っていた.とすると,あくまで現代の尺度であるのだが,絶滅寸前に「私みたいな人、よくわかんないけど劣っているし、しばらくしたらいなくなるんだろうな」と考えたんじゃないだろうか.

 私たち絶滅しゆく種類の人類は,結婚して子どもを残していく人類と遺伝的に有意な差はない.このため,ネアンデルタール人のように全く別の種として扱われることはない.しかし,これを表す言葉が必要なんじゃないか.かくして,劣った人類「劣人」の概念が産まれた.この言葉は昔から自分を表す言葉として使っていたが、ここで具体化する。

 劣人は,何十年も劣ったままで過ごす.そして,滅びの時をただ待つ.そこから新たな感性が生まれるかもしれないし,少なくとも存在したという履歴は残る.その意味で劣人のいた痕跡は残っていく.もしかしたら,100年前,いや人類史の各局面において,私たちの会ったことのない,滅びてしまった人々がいるかもしれない.彼らは今の基準では劣人ではないかもしれないし,面白いことや素晴らしいことをしたかもしれない.そう考えるといろいろと広がっていく.

 さらに進めて,人類が滅んだ後のことを考えてみる.例えば200万年後,魚だか鳥だか知らないがとにかく全く新しい知的生命体が登場し,人の骨と文明を発見したとする.そこで,子孫を最後まで残せた人々と劣人は,恐らく区別できると思う.そして,新しい知的生命体はその違いについて考え,独自の結論を出すだろう.もしかしたらそれまで,私たち劣人がなぜ子孫を残せなかったかというのは判明しないかもしれない.しかし,これだけは確実に言える.「劣人もものを考え,人として生きた」,それは残るだろう.それで十分なのだ.