過去との向き合い方について

 最近は、割りと人生がうまくいっている。主観的な完璧主義と不安感を除けば、どれを見ても「順調、もしくは少し問題あり」の範囲で、ちゃんと議論したり考えて、物事のやり方のレベルから練っていけば大きな不都合というのはない。むしろ、大学院に行きながら仕事をしているという立場から考えれば、よくやっているほうかも知れない。

 一方で、過去のことを思い出して悩む比率が増えてきた。主に恋愛と、受験、就職などのライフプランでの様々な困難に関することなのだが、これらが突然襲ってきて、そのたびにウウーッと厳しい気持ちになって何もできなくなり、解決するまで考え続ける。他の人が自分の過去やったことに似た言動をしているときなどには、顕著にそれが来る。もはや日課と言ってもいい。

 実際のところどう対処しているかというと、当時感じた感情や、その結果はもはやどうしようもないので、それらは受け止めてウウーッ俺はもうだめだをやる。その後に、できるだけ客観的に捉えて、それが結果として様々な決定につながり今の生活に至ったのは事実だが、それが今の生活に直接の影響はしていないということを確認する。それでようやく落ち着く。その後は比較的同じことは襲ってこなくなる。いわゆる認知療法もこれに近いだろう。

 正直、ここ3年のことが今の生活様式に影響しているのは事実だし、それゆえ最近の大きな失敗に引きずられて恐る恐るやっていることも多い。で、恐る恐るやっていることについてこのまま先に進まないのではないかという不安はある。これについては今の課題としてやっていくしかないだろう。

 ということで対処はそこそこできているのだが、問題はその量である。襲いかかってくる過去は、比較的小さいものも多く、それを踏まえてここ20年の出来事でこれが襲ってくるなみたいなものを試算すると、莫大な量になる。今のペースでやっていったら何年もかかるだろう。これは負債であり、今まで返してこなかったのも事実である。

 このまま続けていって良いのだろうか。実際、この過去が襲ってくる現象は、今に影を残している。過去いろいろあったから、また厳しいことが起こるのではないかという不安は常にある。だから、こういうのが適切かわからないが、うまく切り抜けたい。どちらにせよ、さっぱり「今は今だ」みたいに割り切れる人格でもない。

パーティ的空間の多様性について

 最近クラブとかシェアハウス(主にギークハウス)のパーティなどに行かなくなった。というか面白くなくなってしまい、寄らなくなってしまった。そういう場所、特に新しい場所では、好きにインターネットをしていたり、論文を読んでいたりしても特に問題なく、その上で他の人が全く別のことをしていてそれに興味を持ったり、意気投合したら数人で同じことをやったりすることもある。

 そんな感じのある意味のカオスな雰囲気が好きだったのだが、最近はまず空気を読んで人と同じことをして楽しむことが大前提で、先日ある友人の誕生会で論理学をやっていたら「なんで誕生会なのに勉強しているの」とか言われてちょっと辛くなった。その友人は基本的に知性が極めて高く、論理学についても理解を示してくれているのだが、なんか場の雰囲気が前よりはるかに濃厚なので帰ってしまった。

 なんか、毎回そういった種の居づらさに負け続けている。それは、コミュニティが成熟したからかなと考えている。基本的に、「自由に参加できる場」みたいなものはざっくばらんに言えば二種類に分けられると思う。

  • 各自が好きなことをできるという点での「自由な」参加
  • ある活動にだれでも参加できるという点での「自由な」参加

 この2つは明確に区別できるものではなく、やはり例えばクラブでインターネットをしているにしても音楽が好きでないと難しいし、逆になんでもできる場所を意図的に設計した場合、そこでは「なんでもする」という「活動」に自由に参加できることになる。

 ただし、ある場所があったとして、そこをどちらとして受け取るかというのは、おそらく人それぞれであると思う。その点でコミュニティの成熟はその性質を大きく変えてしまう。前は先端的なことや面白いことをやっていたコミュニティが一般化して多くの人が集まってつまらなくなったということは、従来からよくあることだ。

しかし・・・この2ちゃんねるは今までの匿名掲示板とは異なる方向
へと進む。訪問者が増えれば増えるほど、最悪な方向へ向かって行く。

匿名掲示板の面白さとは何か?――――そんなの人それぞれ。 

こんな所で真面目な話しをしたがってる人はバカ。――――
糞ガキは喋んな。テメェらは自らの遊び場を自らが破壊してゆく癌細
胞のような存在だ。いつだってそうだ。流行こそ癌そのもの。
俺のお気に入り、パンク・ロックをファッションに変え、坂本龍一
一時的な流行りものにしてしまい、匿名掲示板を聞きたくもねぇ私の
現状報告の場と、団地妻の井戸端会議以下の幼児雑談に変えた、何処
からともなくワンサカ集まって来るいつものあの野郎達だ。身近なお
祭り騒ぎには参加せずにはいられず、多様な価値観だの諸行無常をぬ
かすわりには何の精神も思想も持たず、それまで守られてきた大事な
大事な宝をあっさりとぶち壊し、ただ目の前にあるバカ騒ぎを刹那的
に楽しむだけの糞野郎共。

最後にやつらは言う。「未だにそんな事やってるの?」

『ネットバカ一代』http://www.asahi-net.or.jp/~UG6M-KHT/Guide/2ch/net-baka.htm

 これは15年前の2ch初期の古典的な文章で、書いていて引用しようと思ったのだが、予想以上に私の言いたいことを表している。この先書くことなどないかもしれないと思ったが、もう少し続ける。要は本来「各自が好きなことをできる」場所に、特に好きなことなどない連中が集まって、とりあえずそこに起こっている活動に参加して、さらにはその活動をすることがその場の楽しさだというように場所を再定義してしまう。

 コミュニティにとって、数と雰囲気は本質的である。それがないのは水と空気がないのと同じ。だからこそ、「好きなことをやって、その上でつながっていく」層は弱くて最終的にはいなくなってしまう。ただ、やはりこう言いたくなってしまうのだ。

何でもやっていい場所なら足を引っ張らないでくれ。

クラブで踊らせるのは雰囲気ではない、音楽だ。

人生の休日の過ごし方について

案件が一区切りついたのと、博士課程入試に受かったため、2週間ほどだらだらしている。研究はメリハリをつける点でも4月まで休むので、本当の休みになっている。

これから先2週間休めるのは人生最後なのかもしれないので、その意味で重要なのかもしれないのだが(というか今もフリーの案件はやっているし)、飯を食ったり寝たり世界樹3DS不思議のダンジョンをやったりしている。なんというかもっと遊びに行ったりイベントに行ったり人と会ったり旅行をしたりみたいな考えもあるのかもしれないのだが、俺も人とかかわるのが苦手だという自分という人間の限界が見えて、それゆえに博士課程で研究をしていこうということを考えたため、何か人とかかわることをやっても無力感しかないと思った。

俺の人生はある意味もう終わっており、例えば彼女を作ったりとかはもう無理なので、休日の過ごし方もそれが精一杯なのだ。

変わらなさについて

 一昨年から昨年にかけて実家の様々なことがあって,一緒に住んでいた祖母や一時期常に遊んでいた友人,高円寺で何度も組んだ人生の先輩,私の研究を支援してくれた教授が亡くなったのを見てきた中で,明日どうなるかわからないという状況に長く置かれて感じたのは,むしろここまでのことがあっても自分のこういうクソな部分は変わらないのか,ということだった.

 列挙しても意味が無いので適当に述べると,俺はどこか人に伝える際に的を外しているようで,何か意見を言ったりプランを立てても人とかみあわない.また,感情がどうしても抑えられない時は爆発してしまう.こだわる部分には異常にネチネチこだわる.そして,相変わらず研究の本を読んで概念をこねくり回している.そういう悪癖は少しずつ治していくしかないのかなと思っていた.

 そういった部分をもはや私は積極的に認めていくことにした.例えば戦争で前に自分を殺そうとしている人間がいたとしても,これらが吹っ飛んでしまうことはなさそうだからだ.だから,昨年の後半からは物を言う際に比較的遠慮しなくなったし,感情はしきい値を超えたら爆発させるし,研究もちゃんと始めることにした.そうしたら割りとウウーと悩んでいる時間が減ってきた.

 別に自由に生きようとか解放されたとかそういうことはなくて,一種の諦めであるし,なおかつこれで何か良くなったこともあるだろうし俺の悪い部分を見て去っていった人もいるだろう.だが,これがどうやっても変わらない特徴だとしたら,そのままでやっていったほうが恐らく最終的には良い.まあそんな感じでやっていこうと思う.

 あと,自分の良い部分は1つもなかった.

Digital archives riding on "Internet"

概要

  • 国会図書館のアイデアソンに行ってきました
  • 昔の文献とかを簡単にソーシャルメディアでシェアできるものを発表しました
  • それって重要で,普通の人が「インターネット」と言った場合,昔はリンクでHTMLがつながっていた範囲を指していたけど,今だとソーシャルメディアと身近にシェアされるサービスの範囲に限られてしまうのではないかという問題があるから.
  • 市民科学とかもシェアを目標としたり雑にできるのが理想
  • 今俺は頭がかたいからここまで

国立国会図書館のウェブページを使い尽くそうアイデアソン~NDLオープンデータ・ワークショップ~ のご案内 | NDLラボ 

 今年の「インターナショナル・オープン・データ・デイ」は東京横浜でかつてない盛り上がりを見せる中,主に対象としていた行政データから離れ国会図書館に行ってきた.行政データもやっていく必要があり,横浜のプレイベントである「税金はどこへ行った?ワークショップ」にも出席したのだが,国会図書館のコレクションについては別腹である.

 なんで私が国会図書館のコレクションに関心を持っているかというと,要は社会に適応できなかった際に気楽に文化に触れて面白いものを読んでいく手段として,近デジを重要視しているからだ.今年30だが未だに社会に適応できている気はしないし,会社に所属しているがいつまで続くかわからないので,ちゃんと盛り上げる必要がある.というモチベーションがあるので,実はオープンデータともこれから図書館情報学でやろうとしていることとも関係がない.

 今回はチームでアイデアを練っていくイベントで,それなりに案を練って持ってきていた.当初案としては,その辺の市民によるインフォーマルな研究,いわば市民科学を近デジなどを使って盛り上げられるようなプラットフォームを考えていた.それは面白いテーマだし,ある意味ハッカソンなどはそれを果たしていると思う.ニコニコ学会については注視しているもののそこまで期待していない.

 チームで議論を重ねるうちに,やはり今普通に使われているインターネット上にうまく溶け込めるようなアーカイブが良いのではないかという方向に展開していった.「チャラいところからスタート」というところから展開していき,発表時には「カジュアル・デジタル・コレクション」と適当に命名した.

 

 他のチームでも,地図を使って協働的に写真にアノテーションをつけたり,レファレンスに感情を反映させたり映画の出演者とキャラのリンクをさせたりと,図書館のデータをさらに拡張していく様々なアイデアが出てきた.恐らく公式で上がるので興味のある方は見るとよいのではないだろうか.

 今回アイデアを練っていくにあたって,いくつか本質的な問題が見え隠れしていた.そのあたりについて多少ざっくばらんに補足をしたい.

「インターネット」とはなにか?

 ここで言う「インターネット」とは技術面ではない.普通の人が「インターネットをする」と言った場合,それは何を意味するのだろうか,という問いである.実際のところこれは割りと奥が深い.最近の議論では


インターネット大好きという感覚がわからないと言われ困惑 - Togetterまとめ

などが挙げられるが,家入さんやえふしんさんなどの世紀末から00年代前半を経験した「老」の世代の間には,「インターネット」に対するある程度共通の理解があったように思える.さらに言えばドワンゴの「ニコニコ宣言」における「仮想世界に生きる」という言葉も,明らかに「ネット」を意識している.

ニコニコ宣言(9)‐ニコニコ動画

正直この議論からは今インターネットとは何かという肝心な部分に踏み入らなかったし(ぶっちゃけ昔話だよね),ニコニコ宣言の文脈も最近の川上さん(昔からの感じもあるが)の発言を見る限りどうもふんわりしている.ある程度背景を押さえて「インターネット」についてまとめておく必要があるだろう.ここでは,インターネットとして主にWebを扱う.

 基本的に,2000年以降のWebは情報収集と閲覧という当初の主目的を離れ,Googleによる広いWeb世界のインデックスによる「検索」と,個人による情報発信が発達したものと言える.その中で,情報過多に溺れないようにRSSフィードソーシャルブックマークなどが産まれ,人をつなげることを志向したSNSが産まれ,twitterに代表されるリアルタイムな情報発信と受信によるコミュニケーションが加速された.これらの流れを単に「情報共有」「コミュニケーションメディア」としてのみ捉えることはあまり適切ではない.ただ,重要なのは様々なサービスとそれによって作られた環境があるということである.

テクノロジーのとしてのWebの理解

 人は,テクノロジーについて語る時往々にしてその「機能」を列挙することで語ろうとする.特に,Webやスマートフォンなどの様々な用途に使えるテクノロジーだとそうだ.例えば「iPhoneで何ができるの」みたいな会話をたまにするが,その際はアプリを列挙することが多いし,「最近Webで面白いのない?」というとサービスを挙げることも多い.「パソコン」をワードとエクセルとWebブラウザだと思っている人も多い.

 これは割りと本質的だと思っている.「インターネットとは?」と聞かれて,自分の使っているサービスの集合体とかんがえるのは,そこまで的の外れたものではないと思う.その上で,Webには特有の問題がある.

リンクからシェアによるサービスのつながりへ

 かつてWebは,HTMLファイル同士がリンクしているものの集合体だった.そこからプログラムによるHTMLの生成が産まれ,HTMLそのものも動的となった.しかし,「リンクする」特性は未だにWebにとって重要だと考えられる.というのも,ソーシャルメディアで「シェアする」ということは,リンクによって行われるためである.

 「シェア」は人と人,コミュニケーションとコミュニケーションをつなげていくだけでなく,サービスとサービスをもつなげる.twitterニコニコ動画やブログのリンクを貼ればtwitterニコニコ動画,ブログはシームレスにつながるし,その点でtwitterから「到達できる」サービスの範囲というものは「シェア」されるサービスの範囲に認知的に絞られる.これは,リンクでつながっている範囲がWebだという当時の発想の現代版である.これを元に深層Webの問題なども存在する.

 現在普通の人がWebを使う際に主に窓口になるのがソーシャルメディアである以上,シェアされないサービスはないも同然になってしまう.だからこそ,シェアされることに特化したバイラルメディアなどがある程度勢力を増やし,まあシェアだけじゃ駄目だよねということは明らかになったが,シェアがサービスの認知のベースになっていることは重要だと考えられる.

 そして,ここからはかなり仮説になるのだが,ソーシャルメディア,そしてそこからシェアされていくコンテンツ,これらは現在の人々にとってのWebあるいは「インターネット」の範囲を決めているのではないか.単にサービスの集合体だけではなく,サービス同士がシェアによってつながっている,その全体をさして「インターネット」と読んでいるのなら,ソーシャルメディアの観点からは合点がいく.

デジタルアーカイブをシェアする

 では,デジタルアーカイブについてはどうか.普段目にする中でデジタルアーカイブがシェアされることはほぼない.デジタルアーカイブは面白い.面白さが無限につまっている.しかし,それをシェアしていくのはなかなか難しい.閲覧インタフェースを介すことになるので,画像や記事をシェアするより敷居が高いのである.

 だから,窓口となるbotや,昔の面白い本の切り抜きなどを普通にWebに貼れる画像として簡単に提供できるAPIを提案した.そうすれば,デジタルアーカイブはシェアされ,ソーシャルメディアの生態系につながることができる.生きるのである.そして,先に言った意味で「インターネット」に乗ることができる.

 デジタルアーカイブは,古いものの集積であるため,ブログ記事などの「今話題のもの」として扱うことが難しい.しかし,今自分が面白いと感じたものをシェアするような方向に持っていければ,いけるのではないか.それはデジタルアーカイブそのものの活用の活性化につながる.

雑な市民科学

 そこで,私が元々持っていたテーマの「市民科学」に戻る.市民科学のアウトプットってなんなんだろうというのを考えている.論文を書きたければちゃんとした科学をやることになるし,論文じゃなかったら科学なの?みたいなアレがある.あと新規性の問題とか.誰にとっての価値や新規性なのか.

 そう考えると,みんなが面白いと思ってシェアしたくなるような,GIGAZINEとかに載っているような雑なものをアウトプットするのはひとつのあり方かもしれない.もちろんそれをやるのにはすごくきっちり研究する必要がある場合もあるし,金がかかる場合もある.しかし,市民の立場で限界が有る中でやっていってそういうトレードオフにぶち当たった時,「これって面白いのかな」みたいな基準で決めたらいいのかもしれない.

 まあいずれにせよオープンになっている研究リソースは増えてきたし,面白いと感じるものを掘っていって,面白いことになったらシェアするみたいな雑な感じって結構良いと思うんだよね.そういう活動を支援する,お互いに情報共有したり学び合ったりするようなプラットフォームも割りと必要だと思っていて,多分使えるのを作るのはなかなか大変だと思うのだが,大変なので後の課題にする.

最後に

 受験直前でアイデアソンに出たら,想像をはるかに超えて頭が固くなっていたので,ほぐすのも兼ねて記事を書いたらこの分量になった.俺は図書館情報学を何年もやっていたわけではないので,個別事項の暗記とかは追いつかない.だから,情報とは,メディアとは何かとかそういった基本概念の部分を固めて,それでいろいろなテーマについて語るという戦略をとっている.それがうまくいくかどうかわからんのだが,まあ頭は凄く固くなる.アイデアソンでは徹夜後に参加して,割と曖昧な中で標準的な受け答えをしていたし,この記事も1時間半くらいで書いたので,受験本番ではもっとフォーマルに1時間1600文字くらいいけると思うのだが,まあ頭が固いのでちょっとほぐしたい.

情報・メディア・コミュニケーション研究について

 最近学んでいる図書館情報学分野で使われる「情報メディア」概念は,比較的簡単なものに見えるのにもかかわらずどうも飲み込み難かった.メディアの物理的社会的制度的特性に目を向け,そのあり方を明らかにしていく,もしくはそれ自体を概念装置として図書館を含む様々な情報現象を明らかにしていくような論文は,すんなり読めるくらいには数を読んだ.しかし,メディアとは何みたいな議論になった際に,自分が元から持っていたメディア概念との微妙な違いに当惑したのである.いや,それ以前に自分が当惑させるくらい邪魔なメディア概念を持っていたことにまず当惑した.

 9年前に最初に読んだ文系の本は西垣通「情報学的転回」,東浩紀「存在論的,郵便的」,馬場靖雄ルーマンの社会理論」,マクルーハンマクルーハン理論」(「メディア論」「グーテンベルクの銀河系」を読んだのは昨年)であった.痛い!その後情報社会論とメディア論,ソシュールから始まる構造主義及びポスト構造主義,そして社会学の入り口を得た.結局社会学エスノメソドロジー情報工学の境界領域たるCSCW修士を取り,現在は協働的な知識の生産・管理・流通の研究を始めようとしているのだが,それに至る過程でメディアという視点は強く私に影響していた.

 当初からメディア概念が批評系の情報社会論と社会学のコミュニケーション研究で異なることは知っていたが,当時の私は最終的にこの2つは統一的な視座で捉えることが可能だと判断した.そのとっかかりがこれである.

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%96%B0%E8%81%9E%E5%AD%A6&oldid=5747588

 これは今は項目名が変更されて中身がなくなってしまったが,元々は「情報・メディア・コミュニケーション研究」という名前であった.要約すると学際的(文理融合的)な情報やメディアやコミュニケーション研究が各大学で行われているので,その外延をまとめたという項目だったのだが,その曖昧さから記事が解体されてしまったのである.

 当時そういった学科に属していた人間ならわかるだろう様々な概念が混ざった雰囲気が,この記事にはある.しかし,そこには雰囲気しかなかった.各学科の学際的な情報研究のダイナミズムを,シンプルな言葉で表すことはできたのだろうか.私は正直微妙だったと思っている.そもそも,学際的な学科が所属する人々の密な共同研究を前提として作られることは少ない.基本的に良い意味でも悪い意味でも「情報・メディア・コミュニケーション」を語る人々を寄せ集めた学科なのである.

 このような学科では,人文,社会,自然科学を問わず学生は学ぶことができた.しかし,それらを統一する視座はなく,結局各研究室の中で専門的な訓練を受けるか,たまに近い分野で共同研究が起こる程度だった,というのが実際ではないか.全く悪いことじゃないのだが.私がいた学科では,半期で3つのクラスでマクルーハンが取り扱われ,その全てが全く違う視座からの解釈だった.

 といった実際の事情にかかわらず,この記事は当時理系の学科にいた私にとっては魅力的だった.この広い視座をどうにかして身に付ければ,様々な情報やメディアに関わる事柄について理解していろいろできるのではないか.この当時私に影響を与えた,その一点において,「情報・メディア・コミュニケーション研究」という領域は私にとって「あった」と言いたい.百科事典であることを差し置いて,あったのだからあったとしか言えないのだ.なかったことにはできないのだ.

 そして,当時終焉を迎えようとしていた

ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究

はその直観を後押しした.私はこの広い領域を概観し,知った先から本を読みあさった.買っただけで読んでないものも多かった.そして1年後,俺は社会学書を片手に女性を口説いていた.今その本のほとんどは電子化され,社会学に行ったりいろいろやった後も他の本と共に常に持ち歩いている.ちなみにisedの成果は2010年に突然出版されたのだが,「当時の痛い俺」を思い出して辛くなり買わず(単に高かったというのもある),1年後に高円寺の古本屋で2冊セット1500円で買った.

 自分なりの一つの到達点が,(1)芸術・人文に近い,コンテンツの媒体/媒介としてのメディアと(2)社会学に近いコミュニケーションの媒体/媒介としてのメディアという区別である.そして,当時最も活況を呈していたニコニコ動画において,その区別は極めて曖昧になっていた.コンテンツがコミュニケーションの様式を変えていき,それは人がニコニコ動画というメディアをどう見るかも変えていく.そして,コミュニケーションがコンテンツを産んでいき,その性質自体がニコニコ動画を定義していく.

 そういったダイナミズムの中で,コミュニケーション,コンテンツ,テクノロジーの境界について考えるようになった.今ではそれを決めるのは場面における参加者の実践だと端的に言うが,当時はいろいろ考えた(なんかこう…読み返すと…痛い…).この点について,当時東工大で講義をしていた東浩紀先生に異常に曖昧に聞いたところ,「それは僕の中ではインターフェイスと呼ぶ」とのこと.まあ難しいということがわかり,いろいろやっていって今に至る.その過程でメディアという概念はどうでも良くなった.

 これで経緯がスッキリした.当時読んだものの主要なものは読み返したし,それをとっかかりとして図書館情報学にいろいろつなげたし寝るか.