6月2日を人生終了の日としている

私の人生が終わって16年目になる。今年もこの日がやってきた。

事実だけ見れば,2006年6月2日に終わったわけではない。それ以降様々なことをやり,様々な人と出会ってきた。もっとひどいこともあった。しかし,あのとき人生に区切りを付け,終わらせる必要があり,それを今も保たなければならない理由がある。あのときの人間の冷たさが忘れられず,それゆえに毎年この日を忘れないようにしている。

前年の2005年,私が成人する直前に片親が亡くなったあと,しばらくはちゃんとやっていた。しかし,恐らく2006年初の成人式で同年代の皆が幸せにやっているのを見てから,徐々に鬱状態になっていった。

私が「終了」したかはわからないが,精神と社会関係の崩壊は5月から始まり,8月中旬頃に一段落した。当時理系の大学にいたが,必修の実験のレポートが一切書けなくなった。そして,留年が決定したのが6月2日である。その後,女性関係でいろいろあったり,様々な方から縁を切られたりしたが,最もわかりやすいのが6月2日だったのでこれを人生終了の日としている。

当初は,周りも少なくとも上辺上は悼んでくれた。しかし,しばらくは精神が安定せず,不規則なネガティブな言動をしていた。そのうち,私が「厄介者」になっているのに薄々感づいてきた。そして,実際に私は厄介だった。話を聞いてくれる人は少なくなり,「テラウザス」(普通は「wwwwww」がつくが,真剣にそう言われた)などと言われたこともあった。そして,あまり親しくない人にも俺はダメだ的なことを喋ったり,逆に攻撃的な言動をしたりもした。多くの人が冷淡になり去っていった。最終的に,ごく親しい人だけが残った。その方々には今も感謝しきれない。それ以来私も少しずつ落ち着いてきた。

まあなんだろうか,今までの日常が少しずつ無くなっていき,孤立無援になっていった。それが私に起因することも知っていた。これ以上人に迷惑はかけたくないし,私も人が怖くてしかたがない。しかしどうしようもない。だからここで人生を終わらせ,その後のことは終了後のこととして一旦の区切りをつけることにした。しかし今でも私に冷淡な態度を見せ去っていった方々のことを忘れられない。あれは本当に恐ろしい体験だった。今でも思い出す。それを普段表に出さないように,いろいろひっくるめてこの日を記念日にした。年忌かもしれない。

当時失って,今からやり直してどうにかなるものはどうにかしている。実際に,働きながら人文系の博士課程を去ってからコンピュータ系の修士に入ろうとしており,現在英語クラスの最終試験を受けようとしている。また,恋愛は他に何人か好きになったがどうにもならなかったので区切りを付けた。しかし,私に対して集団が冷淡になり,去っていった,そのことは忘れることができない。

1年限定の鬱をやっていた

 今年、生きる柱となっていたすべてを失った。当然鬱状態になることは予想されていたのだが、それを緩和しながらしばらくやっていくか、それともドップリ喪に服すか、いろいろ考えた結果後者にした。15年がある種空白になったので、付け焼き刃では対応できないというのと、思いきり病んだほうが恐らく結果的に残らないだろうと考えたからだ。

 4月は大学院を単位取得退学し、前日に好きだった女性に告白して振られたところから始まった。そして、月末に第二の家となっていた店が公式に閉店することが決まった。鬱の気配が走り寄ってきた。これは早々に外に出られなくなるだろう。今のうちにやれることをやっておこう。今後のいかなる研究に必須の文献を途中まで読み、力尽きた。

 5月、宗教的な基盤が必要だと思い、ゴールデンウィーク築地本願寺に泊まった。細かい話になるが、先祖代々浄土真宗大谷派で、築地本願寺浄土真宗本願寺派なので、実質的に改宗したことになる。まだ文献は読んでいたようである。

 6月、7月はいろいろ覚えていない。鬱を自覚し、なんとか生きていた。ワクチンの2回目まで受けた。7月末に、店が非公式にも閉店した。

 8月、何もないところから始まったが、突然LINEでシェアハウスで揉め事が起きていると連絡が来た。結局8末まで相談に乗っていた。

 9月、大学の講義が始まった。喋れなくなっていたので、これでは講義できないと思い、YouTubeで配信をしてリハビリしていた。なんとか1回目の講義は突破した。

 10月、初めに担当していた案件がなくなった。年度末までの予算を9末で一度切るということだったが、プロジェクトそのものがなくなるようだ。そんな状態で2回めの講義。講義資料のアップロードは間に合わず。オンライン講義のURLは当日に送り、録画はされないので撮り直した。学生に謝罪を行った。しかし、次回が来る。やるしかない。立て直し、少しずつ慣れてきたが息切れしながらやっていた。案件がないので時間だけは合った。

 11月、文化の日で講義が1回休み。これで少し立て直した。しかしこれから7回連続。ギリギリでやっていたが、えっと情報社会論の回だから11月末か。そのあたりで少しずつ回復してきた。あと、案件が何故か復活した。

 12月、パッシブだがいろいろなものに参加した。

  • 2日、京都図書館大会。著作権法改正とデジタルアーカイブについて。直接講義のネタになった。
  • 7日から3週連続で「浄土三部経」の講義を受けた。
  • 13日、大学院のゼミに復帰した。修士の学生に助言をしたかったが、いつものように言葉が出ず。
  • 15日から都知事杯オープンデータハッカソン。前にハッカソンに参加したのは6年前なので、講義で「俺も昔は」と話すのは良くないと考えた。まあ多少は貢献できたかと。

案件の方も締めることができ、よかった。講義の方もあと1回、どう締めようかは考えどころである。記憶、発言などに鬱は残っているが、まあ回復の基調だろう。もっと時間かかるかな、最悪一生だめかなとか考えていたが、講義の最後にこのコンディションまで持ち直せてよかった。

ひどい1年だった。

地域資料とオープンデータに関するメモ(2)

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空いている日があったのでこちらにも登録しました。

niryuu.hatenablog.com

の続き。

 前回は、図書館がオープンガバメントに踏み切れない理由を、根本先生のブログ記事から、その前身の1つとも言える地域資料公開という切り口で考察した。

 図書館において、行政資料を含む地域資料の提供は、貸し出しと比べてニーズがないこと、行政情報の開示が行政評価にポジティブな影響を及ぼさないことが原因で、あまりうまく行かなかったのではとの考察がなされていた。行政資料のセンターになるポテンシャルがあったにもかかわらず、記事を読むだけでも肌感覚としてたしかに難しいと感じる。

 今、行政に関するデータ流通のセンターとなっている、データカタログサイトに関する課題解決に、都知事杯オープンデータハッカソンで取り組んでいる。このプロジェクトがどう進むかわからないが、現段階での整理を行う。

 地域資料の提供に関する問題は、突き詰めれば資料を提供することが評価されるかということだとまとめられる。確かに、ネガティブな評価ばかり受け取る事業は廃れるし、自治体などの予算編成にも影響するため予算規模=事業の規模も縮小する。

 そこでオープンデータの方を見ると、ポジティブなものもネガティブなものも含め、評価軸そのものが増えているように思う。つまり、データの透明性だけでなく、データを活用することの透明性も高まっており、それがデータの評価につながるのである。これはオープンソースの文化に由来する。

 課題解決の当初案では、ダメなオープンデータ公開を指摘できることが念頭に置かれていた。それはそれで意義がある。デジタルアーカイブにしてもオープンデータにしても維持と更新を続けるのは難しい。その中で、維持と更新がうまくいっていないところなどを調べる作業は重要である。

 ということで1つの可視化を行った。

データカタログサイトからデータの一覧を取得し、存在しないデータを可視化したものである。これをシステム化すればデータの維持管理がより透明になるだろう。

 一方で、私はもう1つの側面も可視化しなければならないと考えている。つまり、データに関する良いことを可視化することだ。存在しないデータがカタログに乗っていることは、平たく言えば都合の悪い情報である。その点で、方向性は本質的に地域資料が廃れた方向性と変わらない。Open by defaultとはいっても、担当するのは行政機関という組織で、予算には限りがあり、評価もされる。理念や制度だけではなかなか動かない。

 別にネガティブなことをしないほうがいいというわけではない。オープンデータに関するイベントでは、問題点や実現不可能性などをできるだけ取り上げないようにする風潮が強い。しかし、データの透明性を突き詰めると、「ネガティブな事実もポジティブな事実も等しくできるだけ」透明であるべきであると考える。

 その点で、オープンデータには地域資料にない強みがある。地域資料は図書館の資料のため、その資料が利用者にどう利用されたかを本質的に問うことができない。しかし、オープンデータならそれができる。そのためにライセンスや、機械判読可能性がある。

 ここで具体的なポジティブな評価として念頭に置いているのは、「このデータはこのように使える」といった、データの活用可能性や、その先にある社会課題解決である。それらは、データ公開の良いアウトカムと直接つながる。だから、アイデアやデータの解説、扱い方などもカタログで扱えればいい。

 この点で、地域資料をオープンデータ化することは、図書館の資料としてのある種ネガティブな立ち位置に、1つポジティブなルートを追加することにつながる。これは「図書館がオープンガバメントを推進する理由」の1つになるだろう。今まで評価されていなかった事業が実は良かったということになるかもしれない。あくまで可能性の話である。そして、オープンデータ活用の現状を見るに、これは長い道のりである。ただ、原理的には細い道があり、それが少しでも行政資料の現状を良くできるならやってみるのが良いだろう。

 これでもまだ図書館関係者の方々には楽天的に過ぎると感じられるかもしれない。そのとおりである。データをプログラムと手入力でそれなりに苦労して整え、GISで可視化して、少なくともその瞬間はいろいろなことを抜きにして楽天的になれるのだ。それ以上のことはわからない。

地域資料とオープンデータに関するメモ

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 私は、今年3月まで6年間図書館・情報学の大学院博士課程で、Webにおける共同作業による専門的知識に関する研究をおこなってきた。それまではオープンデータ関連に関わっていたので、オープンデータを研究対象にすることも考えたが、今はまだ時期尚早、オープンデータで博士号を取るのはリスクが高すぎると考えた。それと同時に、入学後オープンデータ関連のことをするのもやめていた。やってしまうからだし、どちらかに集中しないとどちらもできない。とはいえ、国会図書館でハッカソンに参加したら好評だった

 オープンデータ、特に行政データに関しては、従来から知識を扱っており、公共性もある市民に開かれた図書館が重要な役割を果たせるのではないか、というアイデアが定期的に提起されてきた。一方で、図書館は今のところ多少オープンデータに取り組んではいるが、行政データのオープン化推進の中心的な役割を果たしているとはいえない。そのGapとして、図書館の実際がオープンデータの理念とかけ離れたものではないかと考えていた。しかし、それを言葉にできないでいた。図書館も公共施設であるため、「図書館や資料に関するオープンデータ」はあるが、図書館がオープンデータ自体を推進することはあまりない。

 そんな中、2018年に根本彰先生が「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」というワークショップを開催した。当時私と根本先生は同じ専攻におり、当然情報も流れてきたのだが、本気になったらそっちに行ってしまうという危惧から参加しなかった。しかし、その後先生がブログでワークショップの意図について公開したのだが、そちらの方が驚くべきものであった。

oda-senin.blogspot.com

 ワークショップの着想のもとになったのは、行政資料や行政支援サービスを含む地域資料論である。そのアップデートが求められている状況で、オープンガバメントというテーマを、図書館の中立性とオープンデータの透明性を踏まえながらも行政資料に関する議論の呼び水とする「実を言えば単なる思いつきだった。」と述べている。

 ワークショップの結果としては、意見はまだ漠然としたもので、「参加者の多くはこの問題には解決策が用意されているのではなくて、これから皆でつくっていくべき性質のものであることをご理解いただいたのではないかと思う。」ようだ。

 しかしながら、オープンガバメント・オープンデータを地域資料の延長として捉えたことは注目に値する。確かに、2013年に地元の予算書と政策文書を図書館に見に行ったことがある。それらは当然図書館にあるのだ。とりあえずそれらがちゃんとデジタル化されて図書館から提供されていたら、例えば「税金はどこへ行った?」などの展開は大きく変わっただろう。2018年から地元の図書館のデジタルアーカイブでは決算書が掲載されていたが、ライセンスの問題などもありオープンデータとして一端に扱うのは難しいだろう。あと、新しい決算書を掲載して欲しい。

 デジタル庁の発足に見るように、日本の行政の仕方は驚くほど変わっていない。その時代から行政資料の公開をおこなってきた図書館の地域資料取り扱いの方法は注目に値するだろう。オープンデータは単に公開されたものだけではなく、それを公開する行政などの過程がある。そこを解明できたらよりデータの改善や公開の推進につながるだろう。その過程に昔から関わってきた図書館から学ぶものは多くあるだろう。というかこんなものが隠れていたのか。

 しかし、根本先生の考えはペシミスティックである。図書館における行政資料の公開は利用者のニーズがなく、また図書館への評価にもつながらない。だから廃れてきた。ブログ記事(2)の最後はオープンガバメントに踏み切るべきだが、そうできないジレンマで締められている。

 しかししかし、それは図書館の事情だけを見た話にも思える。図書館の地域資料は一端に報告書が出る(2014-17)程度には成功している。一方、積極的にオープンデータ・オープンガバメント・シビックテックに関わる人はまだまだ少ない。比較的新しいから曖昧な評価は得られるが実績を出せないと長期的な評価にはつながらないだろう。事情はだいたい同じだが、こっちはポジティブだ。技術者ややっていく気持ちのある行政の人間が少しでも状況をよくできるかもしれない。だから、図書館とオープンガバメントの関係については、オープンガバメント側から今一度答えるべきだと考える。

 これを図書館員側が見たら何をお気楽なと思うかもしれない。私も司書課程の講義を担当しておりオープンデータについて取り扱う予定だが、手放しでポジティブにはなれない。また、もう色々取り組んでいるという意見もあるだろう。しかし、まだ体系化されていない。そもそも、まだ十分な検討はされていないし、検討する価値はある。まずは勉強だ。

やりきれない

現状報告。昼に外に出るのが怖かった。だから、昨年の4月に緊急事態宣言が出てから、外に出なくなった。だとしたら、今年の10月に飲食店時短要請が解除された段階で、外に出られるはずだった。その目論見は外れた。人から呼ばれたら外に出られるようだが、その機会は少ない。今日は頑張って外に出て、駅前のケンタッキーでこれを書いている。

 

何かを書くとき、外で場所を変えながら書くことが多かった。それがなくなったというのが大きい。大学院を離れて半年、書けなかった論文がどんどん遠くなっていく。鬱病のせいもあるだろう。しかし、書くべきことに手が付かない。小説を書こう、コードを書こう、いろいろ考えたが頭を通り過ぎるだけで、書くことにつながらない。

 

要は私は書くために外に出る。だから、書けなくなったら外に出ない。家でずっとインターネットをして、ピザを頼み、寝る。会社でやっていた仕事がなくなってしまい、曖昧な立ち位置にいる。それがある種助けになっているし、しばらくはクビにもならないだろうが、いつ次の仕事が来るかはわからない。じゃあ空き時間で研究開発で次のプロダクトにつながることをやるか。しかしやれない。書けない。

 

そんな中で大学の講師をやっており、14回のうち7回が終わった。第2回が仕事がなくなったのと同時期で、精神が終わってしまいうまくやれず迷惑をかけてしまったが、なんとかここまでやってきた。オンライン講義だから顔はわからないが、学生のことも少し信頼できるようになってきた。つたない喋りで学生にとって親しみのない難しいテーマを説明しても、ついてきてくれているようだ。

 

先週、講義が祝日で休みだった。それまで目を背けていた様々な悪い思いが頭に襲いかかってくる。自分が何を失ったか。どんなに先がないか。おそらく終わってしまったのだろうか。辛いんじゃないか。辛い。やりきれない。少し講義資料の書き溜めをしようという考えは捨て去り、精神の回復に全てを振った。講義資料は慣れてきたので、割とどうにかなる。

 

そのかいもあって、今現状報告をできている。なぜか記事のタイトルを考える余裕はない。オチもない。今日はこれからどうしようか。論文を書くにあたって、ものの考え方や資料の見方を理解するのに必須な文献を読む途中である。再開するか。

 

電子ペーパーを開き、本を呼び出す。線を引いた跡を見る。重要な部分で途切れている。力尽きたのだろう。恐らくそこで私は死んだ。やることがわかった。他の誰でもない、私は私自身の遺志を継ぐ。

孤独を受け入れ、一人に慣れていく

気がついたら私の周りには人がほとんどいなくなっていた。

今年3月までの私の基本的な人間関係の、相当がなくなってしまった。

  • 大学院は年限までいて単位取得退学した。ゼミにも顔を出しにくく、アカポスを得られた方々(私の周りは優秀な方々ばかりのようで、アカポスを多く得ている)にも合わせる顔がない。
  • 会社で積極的に交流していくのは、とうの昔に諦めた。実装を担当するエンジニアは、他の過程での問題を押し付けられることが多い。また、技術的・予算的に現在不可能なことでも、エンジニア個人のせいにされることがよくある。そんな状況でどう人と関わればいいのか。
  • 高円寺の飲み屋に多く行っていたが、1軒を除いて足が遠のいていた。関わっていこうと思ったらCOVID-19が来た。最後に残った店は、店長が体を壊し、荒れ果てていた。残った常連は少なかった。そんな状況で皆よく頑張っていたし、終りが来ることも知っていた。7月末に終わりが来た。
  • インターネットで初期のギークハウスを中心とした「界隈」があったが、10年以上経ちこれは時間の流れの必然か皆疎遠になっていった。もちろんそうでない人もいる。しかし、自分から積極的に広げていこうという方向には行く元気はない。知らない人が怖いのだ。

まあそんなこんなで、数年前と比べたらごく少ない人々と交流を持ちながらやっている。その中で、今後一人でいることを主軸にやっていくか、新たに人と積極的に関わっていくかという選択肢で悩んでいる。実際はそんなに極端なものではないし、人から話が来たら応じるだろう。しかし、正直私は人間関係に向いていないというのも感じる。

ここに書いてあることを人に相談すれば何らかの交流はできるだろう。しかし、それが良いかどうかというとそれすらも不安である。私はいなくなったほうがいいのではないか。それは私だけで結論が出せることでないにせよ、ずっと頭にある事項ではある。

とりあえずの方針として、人と関わらない方向を考えている。おそらく一人に慣れないと今後生きるのが厳しくなるだろう。Twitterなどでの独白はするだろう。しかしSNS的な交流は行わない。現実世界に関して言えば、私が行ける場所はもうない。

正直ここ10年、人と交流するのが苦手なのに無理にやってきて、それが負担になっていた部分はある。それも本音かどうかわからない。いいことや楽しいことも多くあったと思う。だが、今は一人になることが必要に思える。

何よりも、疲れた。

今はその時ではない

大学院を単位取得退学してから3ヶ月が経とうとしている。5月の最初頃まではまだ意地を張るくらいの余力はあったが、それも尽き、仕事も研究も手につかない。

 まあ何度かあった鬱状態で、経過を見るに昨年の7月から少しずつ発症していたのが今年の5月末までにどんどん悪化していき、6月に入ったくらいで底をついた印象だ。底をついたといっても、「何もできない」状態を抜け出しただけだ。鬱というものを自身の内部、外部で解消していくというプロセスがある。人と話す際に鬱そのものや、それに影響された言動が出てしまうのである意味どん底の状態よりたちが悪い。鬱に立ち向かうと同時に、鬱に立ち向かっている自分を制御もしなければならないので、余計に負荷がかかる。まあ厳しいとわかっていれば対策を取るだけだ。もっと厳しい状況になればもっと厳しい対策を取る。耐えられなくなったら仕方ない、終わるしかない。

 もっとも、世の中の状況が良くなりつつあるのは幸いである。もともといた大学院の図書館はコロナにより使えないが、某大学の図書館を使えるようになり、研究環境としては申し分ない。また、東京23区の中では65歳未満に対するワクチン接種が速い方だったので、ほぼ最速で押さえ、1回目を接種した。少なくともこれらは精神には良い影響をもたらしている。

 しかし、外の方が明らかに捗る私にとっては、今の状況は良くない。徹頭徹尾私には人に命じられて何かをすることができない。私はすべきことをしているだけだ。その「すべきこと」は家では曖昧になる。何もしなくていいのではないか。中国の古典などを読んでしまう。それもある意味で正しいのかもしれない。しかし、例えば屋外のカフェなどでPCや電子ペーパーを開くと、周りには人がおり、それぞれがすべきことをしている。だから、自分が置かれた状況で何をすべきかも自然に入ってくる。

 コロナによる規制下ではそのような感性は発揮できない。家でタスクを洗い出す。1つずつ見る。これは私がやる必要がないのではないか。他の人でもできるし、そうあるべきなのではないか。そして「やる必要がない」で埋まってしまう。当然それは間違いである。

 他の人がやるべきことでも、私がやれば何か進む。わかってはいる。しかし一人でいると周りが全員私より有能であるという観念にとらわれる。鬱病を患っているときは特にそうだ。誰かしら人がいれば、彼らもまた不完全で、それぞれ能力の不足と戦いながら生きていることがわかる。しかし、今の私にはそれはわからない。

 そんな状況下で、何かを始めるのは難しい。仕事でやっている調査もゼロからで、研究も一旦仕切り直しになる。今、進行中のことはない。進行中のことであれば、今までやってきたことが自分の能力を良くも悪くも証明するが、今私は何も持っていない。私なんかがこれをやってよいのだろうか。その考えが私の足を止め、足が止まると足場が消える。

 正直、今いきなり必要なタスクをすることはできない。だから、iOSアプリケーション開発のチュートリアルをやったり(普段の1/3でしか進まない)、中国の古典を読んだりしている。それをもとに、ようやく本線の調査を行ったり、難しい著作を読んだりできる。そのような蓄積が一定程度貯まらないと先には進めない。

 今はまだ、その時ではない。