面白い人や場所と一瞬の輝きについて

乱文です

 なんだかんだいって年越しは一大イベントで,ひどい状態でも年越しのときだけはどこかに外出していた。今年もどこかの界隈で年越し会が行われるだろう。しかしそのバリエーションや面白さも減って,行く気が起きず,どこかのVTuberを観ながら年を超すだろう。そういえば昨年もVTuberだった。

 あらためて,2002年にMorphyOneのオフ会に参加して以来,2chの技術・携帯電話界隈,ロフトプラスワン,動画配信界隈2つ,ギークハウスなどなどいろいろな界隈に参加してきたし,そこに集まる人々の自分とは違った生き方やエキセントリックな生き方に面白さを感じ惹かれていた,ように思う。

 しかし2002年から17年が過ぎ34歳,人生の半分をそうして過ごしてきた今,決して悪いことではないのだが実は派手な幻想を抱きすぎていたのではないかと思う。それこそ高校生の時はオフ会で「〜に勤めている」「〜な仕事をしている」「〜という研究をしていて」というだけで面白かった。しかし今はどうか。世の中についてある程度知ったため,単純にそういった外形だけでは面白くは感じない。

 人間の面白さのもう一つの側面として,ある面白いトピックに関して集まって話をしたりなにか活動するというのは,その人を面白くする。その点ではマニヤであることは良い。トピックの面白さと人間の素の面白さが相乗して,さらに集まることによって場所が魅力的になる。

 しかし,黎明期に格段に面白かった集まりは,その黎明期こそ誰でもENTER FREEでありそれゆえ変な人間を呼び寄せるが,長くは続かない。1つのパターンとしては大規模になるにつれ「普通」の人間が増えていくというのがあるが,私はそれを察知した瞬間に去ってしまうためいつかない。一方,「普通」を拒絶し続けていては,新陳代謝が起こらなくなる。そこにネタ切れが襲ってくる。

 それに加えて,多くの人々は面白い場所でいっときのハレを経験したら,次のハレに行かず,日常に戻っていく。私のように何年もいろいろな界隈に入り,去るというのはあまりない。複数の界隈なり文化圏でやっている人間というのはそうそういない。1つを極めた人は界隈が衰退しても一人で面白いことをやっていく。

 要は私にとって面白い集まりに居続けるというのは,様々な界隈を渡り歩くことであった。そしてそれは不自然な骨の折れることで,「老い」によって疲れてしまったというのがある。続くものは続いており,学術研究は終わる気配がない。

 しかし思うのだ。普通になっていった多くの人々が界隈で見せた一瞬の輝き,それは実に面白く,得難い。そこには人生が詰まっている。今年は「思い出」について考えることがあり,「幸せな時間がいっときでもあればその後辛い人生があってもやっていける」ということを喧伝していた。実際のところそれは欺瞞で,辛い人生は単に辛いのだが,いっときの幸せな時間というのはあるのではないかと思う。